【解説】季刊の連句同人誌「れぎおん」に連載した「好日」シリーズ四十五篇の中から精選三篇を公開する。
第三篇で取り上げた9・11は史上最悪の日であるが、国偲びの歌が詠まれた日と憲法第十三条が起草された日は反転攻勢の武器が調達されたという意味で好き日と考えて好日シリーズの一篇とした。読者よ、了とせられよ。
■第一篇 ドストエフスキーの好日
ドストエフスキーは死刑の宣告を受けたけれども九死に一生の稀有な経験を得た。死刑執行の日、収監されたぺテロ・パウロ要塞から、ペテルブルグの兄ミハイル宛に出した手紙が残っている。
「今日十二月二十二日、われわれはセミョーノフスキー練兵場へ連れていかれました。そこでわれわれ全員に死刑の宣告が読み上げられ、十字架に接吻させられ、頭の上で剣が折られ、最後の身仕舞をさせられました」(『ドストエフスキー裁判』N・F・ベリチコフ編、中村健之介編訳。以下同書からの引用)。
死刑は中止され、ドストエフスキーには四年の流刑生活が待っていた。死刑が中止されたのは一八四九年の十二月二十二日。この日、ドストエフスキーは何を思ったのか。
「兄さん! ぼくは元気を失くしてもいませんし、落胆してもいません。生活はどこに行っても生活です。生きるということは、ぼくたち自身にあるので、外的なものにあるのではない。これからもぼくの許にはたくさんの人が来ることでしょう。人々の間にあって人間であること、いつまでも人間であり続けること、いかなる不幸にあっても落胆せず、くずおれないこと、――生きるとはそういうことであり、生の課題はそこにあるのです。それがわかりました。その考えはぼくの血となり肉となりました」。
この血となり肉となった考えは、次のような一文に結晶する。
「生きるということは賜物なのです。生は幸福なのです。一瞬一瞬が永遠の幸福にもなりうるのです」。
恐らく、ドストエフスキー文学の創造の根源は、この一文の中にある。この単純で力強い確信をドストエフスキーは生涯手離さなかった。この確信が、彼の多くの作品を生み出し、また彼の作品のキャラクターに生命力を付与してきたのである。
好日とは何か。この好日シリーズの原稿を書き続けながら、私はそのことを考えてきた。答えはまだ出ていないのだけれども、この「好日」という作品を完成させるためだけにも、やはり心身ともに爽快な一日(=好日)が必要であった。
ドストエフスキーの場合、死刑執行が中止され、生に帰還した日こそが好日(=生涯最良の日)であった。そこから生の無尽蔵の活力を引き出すことができる一日であるという意味において「好日」であった。ドストエフスキーの作品には、どれにも独特の魔力のようなものが潜んでいて、私たちをそこにひきずりこむのであるけれども、その秘密は、この「好日」に得た歓喜の絶頂にある。作品そのものの力によって、私たちはそこにひきずりこまれるのだ。
誰しも、それぞれ表情の違った「好日」の記憶を持っている。この記憶を蘇らせ、今日の一日に重ね合わせて、新たな好日を生きること。ドストエフスキーにもし学ぶべきことがあるとしたならば、この「好日」の教訓がそれであろう。一瞬一瞬が永遠の幸福にもなり得る秘術としての「好日」。ドストエフスキーのすべての作品は、我々をある絶対的な「好日」へと誘う。
ドストエフスキーは、生涯最良の日に得た確信を兄ミハイルに向かって語った。驚くべき内容をもった兄弟の対話。『カラマーゾフの兄弟』で再現されたものは、この好日の対話であった。『カラマーゾフの兄弟』とは、人類を不幸のどん底から歓喜の絶頂へと転回させようという大掛かりな実験だったのである。
■第二篇 舌頭に千転せよ
芭蕉は「舌頭に千転せよ」と弟子たちに教えた。これは千回推敲せよと教えたに等しい。芭蕉の数々の名句はこのようにして生まれた。千回推敲してもなお未熟な作品しか書けていないと反省し続けたのが芭蕉の人生であり志であった。『奥の細道』は百枚足らずの紀行文だが、推敲に推敲を重ねたがついに決定稿が得られないまま芭蕉の寿命は尽きた。未定稿として残された『奥の細道』。「舌頭に千転せよ」の教えを文字通り実践した芭蕉の人生を象徴するにふさわしい作品である。
連衆(れんじゅう)。「俳席に一座して連句を作る仲間」のこと(『連句辞典』の定義)。「芭蕉は常に新しい連衆を求めて諸国を旅し、それによってマンネリズムを避けた」とある。
さて、ある日ある時ある場所に連衆が集って連句一巻を満尾するとする。連句の座は通常まず最初に挨拶の句を連衆が創作・享受することをもって開始する。
ハイデッガーはヘルダーリン講義の中で言葉としての挨拶について次のように述べている。
「神聖な挨拶とは、挨拶されているものに対して、そのものに当然帰せられるべき本質の高さを約する語りかけであり、かくしてこの挨拶されたものをその本質の高貴よりして承認すると共に、この承認を通して、その挨拶されたものをそのあるところのもので有らしめる、そのような語りかけである」
例。荒海や佐渡に横たふ天の川 芭蕉。これは佐渡に対する神聖な挨拶であろう。近景に海がある。視線を少し上げれば佐渡の島。さらに頭をもたげれば光の渦が目に飛び込む。視線を下降させてふたたび佐渡が目に入り、荒れた海が身近にある。そこでまた視線は上昇を続け、しかるのちにその視線の旅を総括するかの如く、荒海や、佐渡に横たふ、天の川と言葉を連ねる。これらの言葉たちは舌頭に千転されている。しかしその前に芭蕉の旅は脳中に千転していたのである。
行く春を近江の人と惜しみけり。この句の解釈については既に有名なエピソードとして語られている。例は他にも数多あるが芭蕉の挨拶の意義に関してはハイデッガーの規定がすべてあてはまることだけが分かれば足りる。
では、友情について、ハイデッガーはどのように語ったか?
「友情は、各個人の可能な限り大きな内的自立からのみ生じてくるのであり、その自立はもちろん我欲とはまったく別のものである。決断における個々人の隔絶にもかかわらず、このとき、ある隠された調和、隠されていることを本性とする調和が成就している。この調和は基本的につねにひとつの秘密である。(ハイデッガー『言葉の本質の問いとしての論理学』)。
この発言を踏まえて初めて理解できる挨拶がある。「狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉」。芭蕉の発句に付けた野水の脇句「たそやとばしるかさの山茶花」。この応答には、個々人の隔絶にもかかわらず、ある隠された調和が成就している。
旅の孤独。そしてつかの間の出会いの喜び。芭蕉においては言葉と心と行動は常に一致していた。それゆえ日本語を母語として生きるすべての人にとって芭蕉はいまなおなつかしい師の面影を宿す存在であり続けている。
■第三篇 三・一一以後の思想
三・一一以後の思想の核になるべきものはふたつある。ひとつは日本武尊の国偲びの歌であり、もうひとつは日本国憲法第十三条である。
まず日本武尊の歌について。三・一一以後、痛切に想い出されるのは日本武尊の国偲びの歌である。死期を悟った日本武尊は能褒野にて故郷の大和を偲び次のように歌った。
倭は国のまほろばたたなづく青垣山隠れる倭し美し
この原始的な人間の郷土愛は誰にも共感できるものであろう。ここに「人間永遠の感情として非歴史的に実在するパトリオティズム」(橋川文三)の原型がある。しかしより重大なのは次の歌である。
命の全けむ人は畳菰平群の山の隠白檮が葉を鬘華に挿せその子
この歌の構造は、死地へ赴いた人間が生き延びた人そしてこれから生を開始する人たちへ向かって語りかける生の祝祭の歌であり、いわば生者と死者の交歓である。この歌あるがゆえに日本武尊は民族の英雄としてまた戴冠詩人の御一人者(保田与重郎)として永遠に讃えられるべき存在となったのである。
次に、憲法第十三条について。
「第十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」
小室直樹『日本国憲法の問題点』(二〇〇二年)にこういう一節がある。ここには極めて重要な思想が語られている。
『したがって、この条文(注※日本国憲法第十三条)の持つ意義はきわめて大きい。民主主義のエッセンスが、この一条に詰め込まれているのである。
「公共の福祉に反しない限り」という留保はあるものの、憲法第十三条は生命、自由および幸福追求に対する国民の権利は、「立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と書かれている。
「最大の尊重」!
読者は、この一語にこそ注目をすべきであろう。
国家はどんな理由があろうとも、どんな逆境にあろうとも、どんな困難が待ち受けていても、国民の生命、自由そして幸福追求の権利を守るべし。何が何でも、国民の権利を保障せよ!
憲法は国家にそう命じているのである。』
しかし、こんな立派な憲法があるのに、日本はその内側から滅びようとしている。国民の生命、自由そして幸福追求の権利が、三・一一以降、決定的に侵され続けているではないか!
千年の昔から日本人は憲法第十三条の精神を理解していた。その精神は、民族の詩人である日本武尊がつとに高唱していたのである。日本武尊の絶唱は、今回の三・一一の大地震とそれに続く大津波によって失われた一万五千名を越える死者による唱和によって、民族の新たな伝統となった。これは私のみの確信ではない。すでに客観的な歴史の事実である。
我々は不退転の決意を持って、三・一一以後の思想として、新しい日本のパトリオティズムの獲得をここに宣言しよう。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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