「市民」とは誰か

 山口二郎氏が2月6日付東京新聞「本音のコラム」で、東京都知事選について書いている。その中で、共産党が小池晃前参院議員の擁立を決めたことについて、「その立派な人柄は私も知っている。その小池さんには失礼な話で恐縮だが、ちょっと待っていただけないかと申し上げたい」と述べている。それは、「石原都政に終止符を打つためには、幅広い市民の結集が必要である」が、「党の前議員を擁立することになれば、党外への広がりは期待できない」からであり、「今の東京を立て直すためには、ある程度の党派や主張の違いを乗り越えた、良識的市民の大結集が必要である」としたうえで、「市民が立ち上がり、政党や組織がそれを後ろから応援するという構図は作れないものだろうか」というのである。 

 山口氏は自民党政権時代、政権交代を達成するために、ずっと民主党を応援してきた人だと思う。そして2009年の総選挙で山口氏の悲願であった政権交代が実現した。そして今日我々国民は、菅民主党政権が自民党と全く同じ政策を追求している姿を見せつけられている。このような民主党の政治姿勢を山口氏も良しとしていないはずだ。実際、菅政権を批判する文章も書いている。しかしながら、民主党政権の誕生を支援してきた自らの言説については、明確に自己批判しているのだろうか。もちろん、民主党政権の公約違反について山口氏の責任を問うことはできないだろう。しかしその一方で、政治学者であれば、民主党が政権獲得以前のマニフェストや選挙戦で掲げた公約を本当に実行できる可能性がどの程度あるのか、ということまで、ある程度見通すことはできたのではないか。その見通しが外れたのであれば、やはり自らの言論に対する責任は免れないのではないだろうか。 

 自民党政権時代、共産党が選挙で候補者を擁立すると、民主党の支持者などが、共産党は受かる可能性もないのに独自候補を立てることで反自民票を分裂させて、結果的に自民党を利するものだ、などと共産党を批判するのをよく聞いた。そして、このような政権交代至上主義者の願望が2009年に適ったわけだが、その結果が現在の菅政権の惨状である。(ついでに言えば、90年代前半、小選挙区制の導入を主眼とする選挙制度「改革」を推進した人々が掲げた大義名分も「政権交代の実現」だった。) 

 山口氏は、山口氏のような政権交代至上主義言説がもたらした結果の惨状を反省することもないまま、再び、「石原都政に終止符を打つためには」共産党は立候補をやめ、「幅広い市民の結集」、「良識的市民の大結集」が必要である、と説いている。一体、そのような「良識的市民」とは誰のことであり、どこにいるのであろうか? 「ちきゅう座」の読者だろうか?(笑) 実はここには日本社会に特有の非常に特殊な「市民」観が横たわっているのだが、そのような見方は日本ではあまりにも蔓延しているために、それが特殊であることさえ看過されてしまっているのである。それは、「市民」というものがあたかも論理必然的に「反政党」もしくは「非政党」を意味するかのような「市民」観である。中道ないし左派においては、とりわけそれは「反共産党」という形で現れる。しかし、「共産党の候補者」=「選挙に勝てない」という予測を前提に、それ以外の候補者を探す、という態度が「良識的市民」なのだろうか? 私にはむしろ「観客民主主義」の「観客」にすぎないようにしか思えないのだが。「市民」とは本来、自律的判断能力を備えた主権の担い手のことであり、選挙における市民の判断基準は他人の行動結果の予測に基づく当選可能性などではなく、あくまで公約された政策とその実行可能性を図る実績に置かれるべきである。