ハイデッガーによると「道具」とは、さしあたり「目立たなさ」の中にあるという。「道具」は「道具」として使用されている間は、我々に隠されているものなのである。「我々に隠されている」とは、つまり、我々に意識されていない(気付かれていない)ということである。「道具」は、その本来の目的のために機能しているときは、それは、我々にとっていわば隠されているのだ。そして、それが故障したり、手許になかったりしたとき初めて、それは我々にとって「目立つ」ものとなると言える。
例えば、これまでの我々の日々の暮らしの中で、水や電力、ガソリンはこれまで完全に「地」になっていた。そしてこの大地震によって、それらは「図」として現れ出てきたのである。日々の生活における水や電力、ガソリンという「道具」の有難さは、我々の内で「当たり前」になりすぎて、あるいはあまりにも「近く」に在りすぎて、それらは「隠されて」いたのである。それが「当たり前」ではなくなったのは、この大震災によってであった。いわば「当たり前」が「遠く」に感じられるようになったのである。言い換えるならば、「遠さ」が、これまで当たり前になっていた「近さ」を呼び起こしたのである。我々人間にとって「近さ」は、そこから遠ざからなければ気付けないものである。それが人間という生き物の、他の動物とは異なるある種「特異性」でもあり、また「限界」なのかもしれない。
「不幸(遠さ)」が「幸せ(近さ)」を、改めて実感させる。人間は「幸せ」の只中にいるとき(「幸せに巻き込まれている」とき)には、「真の幸せ」を実感することはできない。しかし、「幸せ」に完全に「巻き込まれて」いるときでも、人間は不安を感じることがある。――「無」に対する不安である。それはいわば、自我が消滅の危機に瀕しているときであり、「巻き込まれ」によって完全に自我が吸収されてしまうのではないかという不安でもある。この不安が生じたとき、人はそこから抜け出そうとする。そうすることで「個」は真に見いだされ得る。このプロセスが個人の内部ではなく、外部の刺激によってもたらされることもある。「完全な幸せ」という、まだ不安さえ感じていなかった「一様性(無)」に、例えば天災によって「切り込み」が入れられるときである。
「幸せ」はいつでも過去的である。「幸せ」の渦中にいるときは「幸せ」を知り得ないし、或る意味「幸せ」ではない。そうかといって「不幸」でもない。人は、近すぎて隠されていた「幸せ」から飛び出した瞬間に、「以前にあった幸せ」を知るようになるのだ。そして人は再度、この「幸せ」に巻き込まれることを希求するようになる。
この未曽有の大震災を経験した我々は、「幸せ」という日々の「巻き込まれ」から「距離」を採ることになった。さらに言うならば、我々は「生」という最も「近い」ものから離れてしまった。「死」を間近に感じることで、「生」がその輪郭をくっきりさせて現れ出てきたと言える。これまで我々が日々「幸せ」と感じてきた事柄は、実は、最も「近い」ものではなく、次いで「近い」ものだったと言えるかもしれない。
我々は今、再び「幸せ」を希求している。「幸せ」から離れた(離された)ことで、それを求める原動力は最大限に発揮されることになるはずだ。これから日本(人)は、「以前の幸せ」を求め、再び動き出す。日々の「幸せ」から離れれば離れるほど、「幸せ」は光り輝いて見える(暗ければ暗い闇であるほど、天空の星空はより輝いて見えるように)。そしてそれは、そこへと戻ろうとする力を大きく働かせるものでもある。
人間が生きている限り「幸せ」は必ず取り戻される。しかし、取り戻される「幸せ」は、「以前の幸せ」と全く同じものではない。一度離れた所から「幸せ」を、或る種客観的に見た我々にとって、そして「不幸」を実感した我々にとって、今後得られる「幸せ」は「以前の幸せ」とは異なる(あるいは一段上の)新たな「幸せ」だと言えるであろう。人間はそれを信じ、希求し、努力し続ける。
(本文は、筆者が連載している「生命倫理再考」第20回〔『ロゴスドン』ヌース出版http://www.nu-su.com/seimei.html〕の原稿を加筆・修正したものである)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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