「幻の鳩山演説」を現実のものにするには   ―安保闘争50年目に考える―

《この方式での工作を打ち切る》

最初に次の長文を丁寧に読んで頂きたい。(◆と◆の間)。

◆私は、普天間移設、という枠内で普天間基地の危険を除去し、沖縄県民の基地負担を減らすため、県外、国外移設のあらゆる可能性を探ってきた。それは歴代自民党政権からの外交的継続性をできるだけ尊重しつつ行動しようと考えたからだ。しかしそれは不可能なことが実証された。したがって、この方式での工作を打ち切る。

歴代自民党政府が沖縄と国会、主権者である日本の人びとの頭越しに作ってきた一方的な対米取り決めをそのままにしては、沖縄の人びとの基地負担を減らすことは難しいことが分かった。そこでわれわれは、マニフェストで明確にしたように米軍再編、基地の在り方の見直しにすすまざるをえない。

若干の検証・評価・立案の期間を設けたうえで、われわれは、この見直しに基づき、緊密で対等な日米関係をを築くために、自民党政権の行った民益に反する対米取り決めを改めるため、アメリカとの真剣な交渉を申し入れ、開始する。この交渉議題のトップに普天間基地の閉鎖と沖縄の基地負担を当然のように沖縄に負わせてきたことは明らかに正義に反することだからだ。

《交渉の前途に希望を見ている。わたしを支持してほしい》

この交渉は、維新後の明治政府がとりくんだ条約改正に見合う歴史的な重要性をもつものである。自民党政府が六〇年にわたって積み重ねた負の遺産は重く、交渉を成功させるのは容易ではないことを私はよく知っている。しかし世界は変わりつつあり、アメリカも変わりつつある。この交渉は、両国が変わりつつある世界・アジアの状況に自らを適応させるための共通の事業である。

かつての日本は、近隣アジアを侵略し欧米帝国主義クラブに加入することで条約改正を実現した。今日はそれと逆に、東アジアの平和地域化と日本の対アジア関係の正常化へのプロセスとしての条約改正である。すなわち「抑止力」などがそもそも要らなくなる状態をつくってしまうのである。その機は熟しており、私は交渉の前途に希望を見ている。

市民の支持なしにはいかなる交渉も成功しない。

まず市民のみなさんとマスコミが、この提案を徹底的に論議してほしい。そして日本列島社会の未来のためにわたしを支持してほしい◆

《ナショナリズムの出生地は》

引用を終わる。これは左翼の言語であろうか。あるいは右翼の言語であろうか。

そのいずれでもない。これは開かれたナショナリズムの言語だというのが私の感想である。

「開かれた」とは何か。それは日本の近代史をふまえつつアジアと世界へ平和的に開かれているという意味である。「ナショナリズム」とは何か。それは「日米同盟の深化」ではなく主体的に「日米同盟」の非軍事化を目指しているという意味である。

09年9月に「政権交代」を実現した鳩山由紀夫は、10年5月XX日にこの言語をもって全国民に訴えるべきであった。残念ながらというべきか、当然にもというべきか、鳩山由紀夫はこのようには発言せず、米国オバマ政権の軍事戦略に屈した。鳩山を継承した菅直人もこのようには発言しなかった。彼も「日米同盟の深化」を選択したのである。

この「幻の鳩山演説」はどこで生まれたのか。どこから出てきたのか。

残念ながらというべきか、当然にもというべきか、この見事な演説草稿は、鳩山政権に対峙する陣営から出てきた。鳩山へのこの「激励」は、行動する知識人武藤一羊の言説である。知る人の少ない出版物に載った論文の一節であった。(注)

彼は次の文章のあとに冒頭の「鳩山演説」を書いたのである。

◆鳩山氏はどうすべきなのか。鳩山氏はまずはっきりと破綻を認めるべきである。(略)私は、彼がたとえば次のように語ればいいと思っている。そしてそれへの列島市民の支持をアピールすればよいのである◆

《これが半世紀後の現実である》

「市民の支持なしにはいかなる交渉も成功しない。まず市民のみなさんとマスコミが、この提案を徹底的に論議してほしい。そして日本列島社会の未来のためにわたしを支持してほしい」。鳩山がこのように国会で訴えたとしたら「日本列島社会」の人びとはどう応えたであろうか。訴えは実現しなかったからその答えは「わからない仮定」として残った。

現実に起きたことは次のことである。

沖縄本島と徳之島ではそれぞれ9万人と1.6万人の人びとが集会に立ち上がっていた。沖縄のメディアは全力を挙げてこの集会を伝えた。沖縄では全政党による「反基地統一戦線」が形成された。そのとき本土では何が起こったか。ここでは鳩山由紀夫の「迷走」への批判が起こった。多くの政治家―与野党を問わず―とメディアは総力を挙げて迷走「責任」を追及した。人びとも概ねその考えに従った。迷走責任とは、自民党政権の日米合意から逸脱する非現実的な幻想を撒き散らした責任である。その迷走によって「日米関係」を危うくし国際社会からバカにされた責任である。鳩山由紀夫はその責任をとって総理の職を辞した。

《なぜ「逆しまの意識」なのか》

これが安保敗北50年後の現実である。

「幻の鳩山演説」のような正論が希少価値である時代に我々は生きているのである。

この「逆(さか)しま」意識、「転倒した意識」はなぜ我々を捉えているのか。

この課題を解くのはそう簡単ではない。人びとが紡いできた半世紀の歴史は軽いものではない。しかし根拠なき楽観が禁物であるように不必要な悲観も禁物である。

武藤一羊は論文をこう結んでいる。

◆およそこのような演説をすれば、それは鳩山友愛外交の幕開けとなるだろう。私としてはそう望みたいが、もし鳩山氏がだめなら、誰でもいい。いまでなければ、一年先でもいい。これに近いことをはっきり言いうる政治家を首相の地位に就かせることが肝要なのだ。その意味で、ボールはわたしたちの手にある◆

(注)武藤一羊「「普天間問題」と日米安保同盟―もし政権交代が「維新」だったなら次は「条約改正」にすすむべし―」、『季刊ピープルズ・プラン』50号、Spring,2010、10年5月発行(ピープルズ・プラン研究所発行、現代企画室発売)

初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔eye1006:100616〕