元韓国大統領の金泳三(キムヨンサム)は「大道無門」という言葉を好んだ。大道を進めば、それを遮る門は存在しない、つまり、大道を行けば、大きな障害もなく目的とする所へ行き着けるという意味である。その金泳三は、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)から「パボ(馬鹿)」と罵倒された人物である。1994年7月8日に当時の北朝鮮で最高指導者だった金日成(キムイルソン)が死去した際、金泳三は朝鮮戦争の「開戦責任」を持ち出して金日成を「戦犯」だと非難し、韓国から弔問すべきか否かという「弔問波動」を引き起こしたからである。
確かに金日成が朝鮮戦争を引き起こした張本人であることは、いまさら論を待たない。1956年に旧ソ連の第一副首相だったミコヤン(Anastas I. Mikoyan)と会談した中国国家主席の毛沢東は、明確に「戦争を起こしたのは金日成だ(发动战争的是金日成啊!)」と述べている(毛泽东第二次接见苏共中央代表团谈话记录/1956年9月23日)。そんな金日成の生誕100周年を迎える来年2012年に向かい、北朝鮮では「強盛大国の大門を開く」をスローガンに生産と建設の活動が首都の平壌を中心に、極めて活発に展開されている。
この論考は、本年7月18~23日に福岡県日朝友好協会顧問として北朝鮮を訪問して見聞できた状況を紹介しながら、そもそもスローガンの意味するところは何か、それは達成可能なのか、そして、その結果として北朝鮮をめぐる情勢がどのように変化して行くのか、を順に考察するものである。そのスローガンから分かるように「大道無門」とは異なり、「強盛大国」への道程には「大門」が立ち塞がっていて、それを「開く」必要がある。その「大門」を開くのは誰か、またそれが開かれる時、果たして何が起こるのであろうか。なお、紙面の関係から本論では、すべて敬称を省略する。
Ⅰ.2011年7月の北朝鮮での見聞
北朝鮮は「普通」の国になろうとしている。平壌(ピョンヤン)の順安(スナン)空港に降り立って驚いたのは、それまで見たことのない出入国用のターミナル・ビルが新設されていたことだ。今回も我々を受け入れてくれたのは、朝鮮労働党国際部傘下の朝鮮朝日友好親善協会であったが、いつも空港の外まで迎えに来ているはずの協会幹部の姿がない。しかも、このターミナルにゾロゾロと入る訪問客は、我々が普通に知っている現代的な入国審査を経て、手荷物を受け取るに当たり、スキャンを通じて持ち込み不可能な物品を摘発されるのである。
このような事態は、これまで党の威信を受けて特権的に出入国手続きを行ってきた我々にとって、北朝鮮は「法治」ではなく「人治」の国であるという印象からは随分と意外に思われた。従来、手荷物検査などはバッグを勝手に係官が開けて、時には高価な物品が抜き取られたり、反対に禁止された物品も、彼らが許せば容易に持ち込めたりしたのである。こっそり北京から携帯電話を隠し持ってきた筆者は、こんかい初めて手荷物検査に引っ掛かり、携帯電話を差し押さえられて空港ビルで一時預かりの目に遭った。
そして、数日の短い間ながら平壌と板門店(パンムンジョム)を中心として、北朝鮮で進む生産と建設の現場を踏査した。至る所で平壌市内の古い建物を取り壊して新築している様子が見受けられたし、通りのあちこちに小さい簡易売店が設けられているのも確認できた。そして、平壌郊外にあるミネラル・ウォーター製造所、食料品製造工場、靴下製造工場、さらに広大に広がる果樹園と回って見ると、いかに来年に向かい活発な活動が展開されているか、訪問団が一様に驚いたほどである。ただし、食料品製造工場と靴下製造工場では各々、我々が訪問中に停電が起き、依然として電力供給には限界があることも実感された。
加えて、我々が見せられたのは、コンピュータ制御により動かされる生産ラインだった。これまでも北朝鮮は、あたかも先端技術を取り入れているかのように幼稚なシステムを見せたりしていたが、今回の電子制御システムは紛い物ではないことが見て取れた。金日成総合大学電子図書館を訪問した際には、決して日本のシステムに劣らない設備と施設が導入されていた。もちろん、工場や大学で見た設備や施設はイタリア、米国、中国、日本、韓国などからの輸入品がほとんどだったけれども、電子図書館の案内員同志からの話では、パソコンのオペレーション・ソフト(OS)はリナックス(LINUX)を基本として、北朝鮮が独自に開発した「赤い星」と呼ばれるものを用いているという。
周知のとおり、LINUXは極めて高価なUNIXと比較すると無料であり、その改変に何ら権利上の問題も生じないことから、このような活用が試みられたのであろう。ネット上で「赤い星」を紹介する記事によれば、金正日の指示により開発されて「現在は完成段階にある」ものの、図書館など「使用する所が未だ多くはない」という。しかしながら「赤い星」は「情報センター」で販売されており、サーバー用が2,000ウォン、クライアント用は4,000ウォンである(http://pleiades237.tistory.com/162)。
これら一連の見聞から断言できるのは、もう北朝鮮は昨年の北朝鮮ではないという事実である。スローガン「強盛大国の大門を開く」事業は、「総集中、総動員」というスローガンから分かるとおり、声高らかに前進している。これまでのような「無駄を省こう」とか「余力を残さず使い切ろう」とかいった後ろ向きの姿勢は見られず、北朝鮮の十八番である「自力更生」というスローガンさえも、色褪せて見えたほどだ。筆者は行かなかったものの、他の訪問団員が見た「凱旋青年公園」という遊園地には、イタリアから1,000万ドルもかけて堂々たる遊具一式が導入されていたという。
それでは、この「強盛大国の大門を開く」とは、そもそも何を意味するのかを次に考察してみたい。我々が面会した朝日友好親善協会々長の朴根光(パククングァン)ならびに同書記長の馬哲洙(マチョルス)の話から、彼らがイメージしている「強盛大国」の姿を描いてみよう。
Ⅱ.「強盛大国の大門を開く」とは、そもそも何を意味するのか?
北朝鮮が繰り返してきた「強盛大国」とは、もともと次の5つの側面からなっていた。復習になるが、いま一度それをまとめると①思想(主体思想)、②政治(先軍政治)、③軍事(核・ミサイル開発)、④技術(現代化した先端技術)、そして、⑤経済である。これらのうち⑤を除いて、北朝鮮は既に目標が達成されたと主張する。つまり、破綻寸前だった経済を立て直すことが、そのスローガン達成の関鍵なのである。逆に言えば、経済の立て直しに成功できれば、「大門」が開かれると考えられていると言って間違いなかろう。
この点について、朴根光は曖昧模糊とした表現ながら「強盛大国の大門を開く」意味を我々に次のように語った。「『大門を開く』とは、国力が強く、すべてのものが豊かで、人民が他人を羨ましがることなく立派に暮らすことである」。彼は続けて、こうして2012年に「経済大国」が達成された後も「高い段階への闘争は継続する」と述べつつ、その目標にとって「最も大きな難関は米国をはじめとした敵対勢力の反共和国制裁」だと語気を強めた(人民文化宮殿/2011年7月20日)。この言明から分かるように、他の4つの側面が満たされているという前提の下、北朝鮮が目指しているのは、経済の立て直し、とりわけ食糧供給の充実と住民生活の改善にあることは明らかである。
実際に平壌市内に掲げられた標語には、そのような目標を数多く目にすることができた。「農村を労力的に、物質的に力一杯、助けよう!」とか「もう一度すべてを人民生活向上のために!」とかいった具合である。ここで言う「もう一度」とは、昨年に引き続いて本年々頭の『労働新聞』『朝鮮人民軍』『青年前衛』の三紙共同社説で「今年もう一度、軽工業に拍車を掛け、人民生活向上と強盛大国建設において決定的転換を起こそう!」と主張したのを受けたもので、この題目そのままのスローガンも街中で目にすることもできた。
この経済活動への全力投入は金正日が本年5月に訪中した際、胡錦濤国家主席に「全力を尽くして経済建設を進行して」おり、「このための安定的な周辺環境が非常に重要だ」と述べることで対外的にも明らかになった。この会談で金正日は「今年は中国12・5計画(第12次5ヵ年計画)が始められる年として訪問の間、中国各地で全力を尽くして経済建設を行っているのを見た」と言いつつ、「多くの変化に感嘆を禁じ得なかった」と称賛したという。その上で「最近、中朝両国の貿易協力の多くの方面で進展があった。(中略)今年は中朝友好協力条約締結50周年を契機として、両国が各領域で途切れることなく経済・貿易協力の新局面を拡大、深化しなければならない」と強調、中朝の経済協力を経済立て直しの主要な方策としていることを示したという(「新華通信」2011年5月26日、電子版『ハンギョレ』2011年5月27日)。
しかしながら北朝鮮が一昨年、貨幣改革に失敗した事実は広く知られており、また世界食糧計画(WFP)の推定どおりならば現在、寒冷に豪雨も重なって600万名とも言われる栄養失調者がいるのも、また事実であろう。早くも本年4月には、北朝鮮の国会に当たる朝鮮最高人民会議々長の崔泰福(チェテボク)は、英国訪問に際して食糧支援を要請していた(電子版『ハンギョレ』2011年4月3日)。このような主張から帰納的に結論付けられるのは、北朝鮮が言う「強盛大国の大門を開く」とは結局、対内的には北朝鮮住民に少なくとも飢えない程度に三度の飯を食わせることを意味していると言って間違いない。そして、この意味する内容がどれほど切実か、つまり極めて達成困難であるかも分かるのである。
西側のマスコミが指摘するとおり、この経済立て直しのほぼ唯一の方策が中朝の経済協力なのだが、「中国一辺倒」と言われるように北朝鮮を取り巻く国際環境から見て、北朝鮮は中国の支援に頼るしかない実情に当面、変化は見られまい。確かに金正日が9年ぶりのロシア訪問を通じて過度に中国に依存しないようバランスを取ろうとしているのは事実としても、実際に北朝鮮と「経済協力」してくれるのは中国であり、ロシアの支援は事業の見返りが得られる場合に限られると見て差し支えない。ロシアが先の天安艦事件や延坪島砲撃、さらに6者協議で北朝鮮の立場を擁護してくれるのは事実ながら、シベリアからのガスパイプ・ラインにしろユーラシア・ランドブリッジ構想にしろ、南北朝鮮の「和解と協力」なしでは絵に描いた餅に過ぎないからである。そもそも金正日の訪露は、本年5月の計画が延期されていたのを、国際環境の改善を受けて実施されたと見られる。
この意味で、韓国が北朝鮮との関係改善を躊躇う中、むしろ米国が中国と共同歩調を取って局面打開に動き出したことは、北朝鮮にとって勿怪の幸いだったと言えよう。顧みれば、本年1月の米中首脳会談で合意された局面打開の方式に、北朝鮮が乗って韓国は乗り遅れたという観を呈している。すなわち、米国務省が米朝接触の前提に天安艦事件における北朝鮮の謝罪を前提としないと言明するや、北朝鮮の第一外務副相である金桂冠(キムケグァン)が本年4月に訪中した。これを受けて、前述のとおり5月に訪中した金正日は「朝鮮半島情勢の緩和を希望し、朝鮮半島非核化の目標を堅持していく」と言明しつつ「可能な限り早く6者会談の早期開催を主張する」と同時に、「南北関係の改善にずっと誠意を抱いている」とまで述べたのである。もちろん、北朝鮮に核放棄の意図はないであろう。
これに反して韓国は、かねてから南北首脳会談を水面下で模索する中、5月の「ベルリン秘密接触」において北朝鮮側に「金封筒」を渡そうとしたことが「朝鮮中央通信」を通じて暴露されてしまった(電子版『ハンギョレ』2011年6月9日)。この真偽は必ずしも明らかではないにしろ、ここでの問題は、南北対話→米朝対話→6者協議という局面打開の方式に韓国が反対できない立場へと追い込まれたことである。実際にインドネシアのバリ島で本年7月に開催されたアセアン地域フォーラム(ARF)では、韓国が約3年ぶりに南北朝鮮の外相会談に応じざるを得なくなった。そして8月、金桂冠は待っていましたとばかりに訪米し、米朝対話後に南北朝鮮の早期対話再開を重ねて求める余裕さえも示したのであった(電子版『ハンギョレ』8月2日)。
このような米朝関係の改善は従来、北朝鮮が繰り返して主張し続けている「停戦協定」の「平和協定」への転換という国際環境の整備に繋がるものである。その「大門」を開くのが中国だとしても、「強盛大国」が米国の「封鎖圧殺政策」の下にあるというのは、笑い話としか思われない。北朝鮮が「弱衰小国」の汚名を雪ぐためには、せめて米国と対等に話し合える国際環境がなければならない。これまで北朝鮮は、そのためにこそ核・ミサイル開発を通じた「瀬戸際政策」で背伸びして、中国をその政策に巻き込む中で何とか米国と一対一の対話を求めてきたのだと言って間違いない。
したがって、要約すれば「強盛大国の大門を開く」とは、対内的に北朝鮮住民が飢えない程度に食糧供給を可能ならしめること、そして対外的には米朝関係を可能な限り改善することにより国際環境を整備することだと言える。この2つの条件が揃う時、北朝鮮は天下に「強盛大国の大門」を開いたと宣言できるであろう。今のところ北朝鮮は、米中の合意に従って上手に「大門」へ向かって歩を進めているように思われる。いくらか目標の数値が最終的にトーン・ダウンされるかも知れないが、内政上の経済立て直し、外交上の米朝関係改善は着々と進展している。
とは言え、問題はそこに止まらない。けだし、この数年内に急浮上した「三代世襲」という問題は、この進展に暗い影を投げ掛けているからだ。次に、この「三代世襲」と「強盛大国」との関係を今回の訪朝で確認できた現地の状況に触れながら考えてみたい。
Ⅲ.開いた「強盛大国の大門」を三代目のデブは通れるか
今回あらためて北朝鮮で遭遇したのは、一昨年から開始された「三代世襲」の進展状況であった。まず、われわれ福岡県日朝友好協会訪朝団を迎えた歓迎宴に出席した馬哲洙は、次のように述べて「強盛大国」と金正恩の関係を明示した。
「昨年9月に開かれた朝鮮労働党代表者会では、偉大な領導者・金正日同志と尊敬する金正恩(キムジョンウン)・大将同志を我が党と革命の中心と推戴して、偉大な首領様が開拓した主体革命偉業を、代を次いで確固として完遂する担保ができました。偉大な領導者・金正日同志と尊敬する金正恩・大将同志を我が党と革命で高く推戴する矜持を持って、偉大な首領様が誕生100周年となる来年2012年まで『強盛大国の大門を開く』ための事業を展開しており、あらゆる分野で驚くべき成果を上げています。」
次に今回、板門店を訪問した際に我々を案内してくれた板門店連絡将校の中尉は、昨年9月に金正恩が党中央軍事委員会副委員長に就任したことをどう思うかという筆者の質問に「全国民がこぞって歓迎し、歓喜に沸き立ちました」と答えた。予想どおりの回答だったが、驚いたことに彼は、日本の原発被害に関心を示しながら現況を尋ねてきた。それで、筆者が状況の改善しないことを説明した後、原子力は人間が統制できないものである、北朝鮮も原子力開発を止めるべきだと説くと、そこで対話は途切れてしまった。
第三に7月21日、我々が訪問した平壌靴下工場には金正日の訪問を示す掲示と共に、金正恩の視察を告げる「尊敬する金正恩青年大将同志が現地指導なさった女子靴下工場2010年12月10日」という掲示が見て取れた。その年月日から金父子が、この工場を同日に揃って訪問したことは明確であった。ここから金正恩は、父親の金正日と連れ立って初めて「現地指導」ができる程度にしか北朝鮮住民に受け入れられていないことがうかがえた。
それを裏付けるかのように、7月22日の答礼宴の最中にテレビ画面に映し出されたのは、金正日と共に歩む金正恩の太って醜い姿だった。金正日が病気のために痩せ細った関係からか、金正恩は栄養失調に悩む北朝鮮住民を尻目に極めて肥大して見えた。つまり、日本で言うところのデブである。その父子に対して、同席していた朝日友好親善協会の幹部たちは、さも当然というばかりに特別に関心を見せる様子もなく、賑やかに宴会の酒を飲み続けていた。テレビ場面は、我々が訪問した果樹園を父子が訪問した様子だったと言い、それが「強盛大国」建設を指導する姿を示していた。
これら一連の見聞から分かるように、北朝鮮では「三代世襲」と「強盛大国」とは一体になって考えられており、少なくとも北朝鮮住民にはそう考えるように宣伝されている。それで筆者は、我々から朝日友好親善協会に対する答礼宴の席上で「三代世襲」になって新しい対日政策が打ち出されるのではないかという質問をぶつけようと語り始めた。その時、馬哲洙が急いで遮った話は、まことに傑作であった。彼は、いくぶん酔った声で「三代世襲? それは南朝鮮でする話だ。能力と資質があれば、何の関係もない」と平然と言ってのけたのだった。党官僚の言葉とは言え、わずか26歳の若造にどんな「能力と資質」があるというのか尋ねてみたかったが、それは「友好親善」に反するように思われた。
確かに「強盛大国」へ続く途上にある「大門」が開かれるのならば、その大きさから想像して、そこをデブでも通れそうである。しかし、上述したとおり「大門」を開くのは中国であり、北朝鮮が実現できるのは、精々で金正日と共に金正恩が立派に指導した結果、その「大門」が開かれたという程度のホラ話であろう。おそらく、このような結末を見越して、北朝鮮では1960年代を強調することにより、あたかも金正恩を金日成の再来として北朝鮮住民に受け入れさせる工夫が凝らされている様子が分かった。
余り知られていないものの1950年代、金日成による個人崇拝を伴う血の粛清による実権掌握のプロセスは、どうにか1960年代に金日成をして北朝鮮に独裁政権を樹立させることに繋がった。すなわち、党内の他派閥を粛清する中で1956年のスターリン批判から生じた国内の危機を力ずくで克服、中ソ対立を利用して1960年に中ソとの関係を修復して、1961年9月に朝鮮労働党第4次大会を開催できたのである。この結果、1960年代は韓国が未だ経済発展の成果を示す以前の段階だったことから、南北朝鮮の住民どちらにも当時が北朝鮮の最盛期という記憶として残っており、そこで金日成は偶像化された立役者として、死後も抵抗できない偉大な人物としてのイメージを獲得できた。
今回の訪朝で見たのは、高麗ホテル近くの商店街に張り出された「1960年代、青年大学生たちの伝統を受け継ぎ、首都建設で英雄的気象(熱気)を轟かそう!」という絵入りのポスターであった。伝え聞いたところによれば、北朝鮮では大学生たちを休学にして、建設と生産の活動に動員しているという。確かに金日成の生家がある万景台を訪問した時、そこには「夏休みを利用して来た」という多数の大学生たちがたむろしていた。
また、平壌靴下工場内の作業場に吊されていた「朝鮮青年行進曲」は、次のような歌詞であることが読み取れた。3番まであるが、ここでは1番だけ翻訳してみよう。
「1. 我らは朝鮮青年 賢明なる人民の息子娘/富強祖国を建設する荘厳なる新時代の闘士だ/職場で学院(学校)で我らの若い力が沸き上がり/足取りも力強く 金将軍の周囲に団結しよう
(リフレーン)
勝利は我らのもの/真理により団結した力/捧げよう祖国のため人民のため捧げよう」
この歌は、1947年に作られた「民主青年行進曲」を編曲、いくらか歌詞も変えたものであるという(http://wsdprk.blogspot.com/2011/03/blog-post_08.html)。言うまでもなく、1947年に出来た本歌で「金将軍」は金日成を示しており、新版の歌にあっては金正恩を指すことは明白である。問題は、一昨年の訪朝で筆者が録音に成功した「パルコルム(足取り)」と同様に、このような金正恩を讃える歌が『労働新聞』に堂々と掲載され、職場で歌詞まで掲げて歌われている様子であった。
おそらく北朝鮮住民にとって「オボイ(父母)首領様」として従わざるを得ない金日成のイメージを金正恩に投影する操作を以て、金正恩に欠けている次世代の最高指導者としての「能力と資質」を補おうとしているのであろう。思い返すと、金正日が二代目として登場するに際し、北朝鮮の国家イデオロギーである主体思想の継承者という意味で「金正日=金日成」とするプロパガンダが展開された。今度は金日成の孫である金正恩が、あたかも金日成の再来であるかのように宣伝することにより、ほとんど神格化された金日成の遺産で子孫が食いつなごうという腹なのであろう。それを証明するかのように、普通江(ポトンガン)旅館の前には「首領福」(金日成)、「将軍福」(金正日)と共に「大将福」(金正恩)の石碑が建てられ、親子孫が一体となった偶像化が進展している様子を観察できた(写真)。
この1960年代への回帰を通じて「三代世襲」が次第に北朝鮮住民の中へ浸透しているとも受け取れるけれども、意地悪く反対から見ると、そのような上からの宣伝工作の継続は未だ金正恩を受け入れる素地は出来上がっていない状況とも見ることができる。したがって、金正日が死去した暁に息子の金正恩が金日成の再来であるかのように登場しても、北朝鮮住民が次世代の最高指導者として受け入れるかどうかは、甚だ疑問と感じられる。金正日の世代で相当数の住民が飢えて死んだ事実は北朝鮮住民に広く知られているわけだし、ここから主体思想の創始者であった黄長燁(ファンジャンヨプ)(故人)はじめ多数の住民が国外に逃亡せざるを得なかった事実も、北朝鮮住民で知らぬ人もいないはずだからである。
中国が開いてくれた「強盛大国の大門」は、三代目のデブでも通れるかも知れない。しかしながら、彼が行く道に帰りがあるのか、それは極めて危ういと考えざるを得ない。なぜならば、ひとたび開いた「大門」を閉めないようにするには、全力で行われている現在の生産と建設の活動は来年も再来年も、そして未来永劫に継続される外はないからである。経済学の常識ながら、拡大再生産が無理にしろ、少なくとも単純再生産が出来なければ、北朝鮮の経済は発展のない定常経済に陥る外ないし、それさえ出来なければ一度は向上した住民の生活が再び苦しくなる外はないのだ。
Ⅳ.行きはよいよい、帰りは怖いの北朝鮮情勢
このように見ていくと、北朝鮮情勢は童歌「通りゃんせ」の歌詞にあるとおりではないだろうか。念のため、その歌詞を示しておこう。
通りゃんせ、通りゃんせ/ここはどこの細道じゃ
天神様の細道じゃ/ちっと通してくだしゃんせ
ご用のない者、通しゃせぬ/この子の七つのお祝いにお札を納めに参ります
行きはよいよい、帰りは怖い、怖いながらも通りゃんせ、通りゃんせ
この歌詞のように、いずれ金正日は実子の金正恩を中国に連れて行くであろう。伝統的に朝貢・册封関係と言われる宗属関係を形成してきた中朝関係にあっては、朝鮮側における統治者の世代交代は、ちょうど「天神様」に「お札を納める」ように中国側からの承認を求める儀式だった。つまり、中国が来年、二十と七つになる金正恩を後継者と認めるのは、ほぼ間違いないところであるが、それを北朝鮮住民が唯諾々と受け入れるかどうか予断を許さないのである。中国へ往くのは良いとしても、帰りには、あるいは帰国後にどんな事態が起こるか分からないのが、これから北朝鮮の直面する情勢だと言って良い。
既に米国が朝鮮有事を想定して日本人の救出までも実施する作戦を練っているのは、ウィキリークスで明かされたとおりである(WIKILEAKS,“DASD MAHNKEN MEETINGS IN JAPAN ON BILATERAL”,08TOKYO2097)。この一連の「5055-5059作戦」に対して、中国も北朝鮮の有事には朝鮮半島へ介入する「小鶏」作戦を立てていることが判明した。その作戦では北朝鮮をヒヨコに見立てて、親鶏に当たる中国が大同江の北岸まで占領するのだという(電子版『ハンギョレ』2011年5月11日)。そして、米中が事態収拾に乗り出す場合、韓国は傍観する外ないという報道まで飛び出しているのが、北朝鮮をめぐる現在の情勢認識である。つまり「作成された『概念計画5029』付属文書の核心は『北朝鮮の急変事態時、中国が介入しても中国と衝突しない』と『大量破壊武器(WMD)も中国と共同で管理する』であった」(“DND Focus”09Jul2011,電子版『ハンギョレ』2011年7月29日)。
北朝鮮が「強盛大国の大門を開く」ことで、食糧はじめ生活用品が行き渡り、住民が飢えずに暮らしていけるようになるのは結構な話だとしても、その後に「強盛大国」であり続けることは容易なことではない。そのためには、最終的に「大門を開く」条件である米朝関係の改善を通じて北朝鮮が国際社会へ復帰し、中国だけでなく日米韓を含む世界の諸国と交易や往来を行う「普通」の国にならなければなるまい。いつまでも中国の丸抱えが続く、つまり事実上の植民地になるのであれば心配ないかも知れないが、「強盛大国」の内実が何であれ、北朝鮮のような農業生産に乏しく、工業化も立ち遅れている国にあっては、一次産品の輸出だけ取って考えて見ても分かるとおり、経済立て直しに必要な資金は、それを輸入してくれる相手がいて初めて調達可能だからである。
仮に北朝鮮が「強盛大国の大門を開く」ことに成功したと主張するにしても、その後に日米韓と隔絶されたままであれば、その「大門」は間もなく閉じてしまうだろうし、意気揚々と通った三代目のデブも閉め出されてしまい、ひょっとすれば体制の転覆や倒壊で吊し首にでもなるかも知れない。そして、有事つまり金正日の死去などが引き金になり、北朝鮮の崩壊など急変事態が起こる時、最も深刻な事態に陥るのは、当事国の北朝鮮に隣接する韓国と日本なのである。このうち韓国については、来年の大統領選挙で当選が最有力視される朴僅惠(パックネ)が、既に曖昧ながらも新しい北朝鮮政策の骨子を発表しており、現在の李明博(イミョンバク)政権の政策から大きく梶を切ることが予想されている(電子版『ハンギョレ』2011年8月23日)。
ところが、日本政府は3・11以後の事態収拾に忙しい余り、北朝鮮からの交渉再開の働きかけに応えられないでいるばかりか、拉致問題そのものが風化してしまいそうな雰囲気である。つまり、日本では拉致問題どころではない、北朝鮮に関心を寄せることすら今やなくなりかけている、というのが昨今の実情ではないだろうか。今回の訪朝でも朝日友好親善協会から求められたのは、もちろん地方レベルの訪問も結構だが「我々は、国会議員レベルの訪朝団を待ち望む」という声であった。
おわりに
北朝鮮の核・ミサイル開発が最終局面に近づいているという報道が流れる中、米国が今や北朝鮮との関係改善に動き出し、これに続けと韓国も来年の総選挙と大統領選挙を射程に入れつつ動き出している。来年は米国、中国、韓国で各々その政権のトップを選ぶ大切な年であり、各国とも来年に向けて疾走しているという感じである。ひとり日本だけが民主党代表選挙と首相指名に忙しく、依然として目立った北朝鮮関連の動きも表れていない。そもそも日本民主党に外交政策があるのか、どうにも心許ない限りである。
だが、日本が米国の後追いしかできないにしても、朝鮮半島における過去の清算と未来の協力という宿題は、どんな政権であれ背負わねばならない政策課題である。そして、金正日・正恩による家族独裁体制の崩壊後どんな政権が立ち上がるにしろ、少なくとも北朝鮮という国が存在する限り、その政策課題は消えてなくなることはない。言うまでもなく、中国は北朝鮮を消滅させないだろうし、中東地域が混乱に陥っている今、米国が朝鮮半島にまで混乱をもたらすことを望むはずもないから、日本は早晩その宿題をやらざるを得ないのである。夏休みも終わりに近いのは、小中高校の生徒ばかりではない。
日本は明治維新後にアジアの「盟主」として、日清・日露の両大戦に勝ち残って朝鮮半島を植民地とするのに成功した。百貨店の名前が象徴するとおり、そこは「新世界」であり、われわれ日本人は喜び勇んで新天地へ行き、さらに中国へも進出した。しかし、先の大戦で敗北した後、今一度その地へ帰るには、その半分の韓国へ戻るだけでも大変な反対を克服する長期間の努力が必要であった。幸い朴僅惠の父親に当たる朴正煕(パクチョンヒ)という元日本軍人が大統領になってくれたお陰で、竹島(独島)を論争点とせずに韓国とは国交正常化を果たしたものの(電子版『ハンギョレ』2011年5月15日)、もう半分の北朝鮮にあっては、反日を旗印に政権を打ち立てた金日成の子や孫がいる与件の下で、正に帰りは怖いとならざるを得ない。日本の植民地統治が清算されない限り、北朝鮮は怨念の残る日本に向かって核ミサイルを発射するかも知れない怖い存在であると、少なからぬ日本人には感じられるであろう。韓流ブームが日韓関係を変えたとは言え、訪朝団の面々が語るとおり、北朝鮮のイメージはマスコミの影響があるにしろ、やはり怖いという声が多いのだ。
我々が3・11で思い出すべきことは、弱きを助け強きをくじくのが日本人の伝統的な美徳であり、東日本大震災で被災した人々を民族や人種の別なく全国民的に助けようという共生の精神である。残念ながら日本人は、その島国という地政学的な条件から、過去に大陸の異民族に対して同様な扱いをできなかった。特に朝鮮人にとっては、彼らが弱小民族である分、日本の支配は酷く仮借のないものと感じられざるを得なかったのである。
それならば今こそ、この苦境で蘇った美徳と精神を北朝鮮に向け、恐れることなく堂々と帰れるように過去を清算して友好親善関係から日朝国交正常化へ進み、独裁政権の下で飢えに苦しむ住民を助けることを通じて、その体制に変化をもたらす必要がある。けだし、日本の強権的な支配に抵抗した者たちが創り出した体制には、やはり支配した我々にも相当程度、その産出の責任があると言えるだろう。旧ソ連(ロシア)が育ての親だとすれば、日本は彼らの生みの親であるとさえ述べても、決して過言ではないからである。
以 上
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