「改憲的護憲論」とは何か

(1)国民世論主義

松竹伸幸氏の『改憲的護憲論』(集英社新書)を読んだ。

松竹氏の提唱する「改憲的護憲論」とは一体何か。一言で定義するのは非常に難しい。そこで、松竹氏自身の言葉を引くと、「改憲論に共感することも多々あるし、憲法9条には文面として不都合なことがあるのは認めるけれど、結論としていまの文面のままで行くことを選択しようという立場」(5-6頁)ということだが、これだけではよくわからない。別の個所では、「「9条と自衛隊の共存」という国民世論に合致した改憲派」、「専守防衛の自衛隊を認める見地から、日本防衛のあり方を誰よりも真剣に考え、提示していく護憲派です」(153頁)という説明もあるが、これでもまだよくわからない。よくある専守防衛派の護憲論(のうち防衛のあり方を真剣に考える人々)とどう違うのかがはっきりしないからだ。結論として「護憲論」であることだけははっきりしているが、自衛隊を合憲と見るのか違憲と見るのかがはっきりしないのである。当初私は、松竹氏は自衛隊違憲論者だと思いながら読み進めていた。以前、松竹氏の講演を聴いたとき、「自衛隊は合憲か違憲かと問われれば違憲だと思う」と語っていたような記憶があったのだが、今となっては確かな記憶だったかどうか確信が持てない。いずれにせよ、「護憲による矛盾は護憲派が引き受ける」(終章のタイトル)といった言葉も、松竹氏自身は自衛隊を違憲と認識しつつも、専守防衛の自衛隊を認める圧倒的多数の世論に配慮して、「当面」(といっても相当の長期が想定される)は専守防衛の自衛隊を容認し、その「矛盾は自ら引き受ける」という立場かと思いつつ読み進めていったのである。

ところが、最後の補論の第3節(「おわりに」を除く本書の最終部分)まで読んで、「あれっ、松竹氏は自衛隊合憲論者だったのか」と思った。ところが、再度改めて読み直してみると、やはり合憲論とも言えないことがわかる。松竹氏の言葉を引用しよう。

「国民の生命を守るという課題を考えると、憲法9条で自衛隊を否定していることが障害になる」(206頁)

この文は明確に自衛隊違憲論を意味している。ところが、その少し後には次のような文がある。

「国民の生命と国家・憲法の存立を守るために必要な間、自衛隊は憲法に合致しているという判断が必要です」(218)

さらに、(「おわりに」を除く)本書の最後は次の文で締めくくられている。

「国民の生命のために自衛隊が不要となる時代が来れば、9条にしたがって違憲という判断をすればいいのです」(218)

これは一体どう理解すればいいのだろうか。本書を通じて、松竹氏は一度も自衛隊が「合憲である」と明言はしないが、「憲法に合致しているという判断が必要です」とか「合憲とみなす程度のことは必要でしょう」などと述べている。となると、この「判断」は、法的判断=法解釈ではなく、政治的判断ないし政策的判断という意味だろう。一方、「9条にしたがって違憲」という言葉からは、憲法解釈としては、やはり自衛隊を「違憲」だと見ていることが窺える。結局、松竹氏は法解釈としては、自衛隊は違憲だと認識しつつも、その判断を封印(凍結)して、決して「違憲」だとは言わず、逆に、政治的=政策的判断として「合憲」だと見なす、ということのようである。そして、「自衛隊が不要となる時代が来れば」、凍結していた「違憲」という判断を解凍して、素直に「違憲」と判断すればよい、ということのようだ。それにしても、自衛隊が必要な間は「合憲」と見なすが、不要になれば、「違憲」と判断する、というのは奇妙な立場である。自衛隊が必要か否かは政策的判断であり、違憲か合憲かは法的判断であって両者は別次元の事柄だから、政策的判断によって法的判断が違ってくる、というのは、やはりおかしなことである。

一体なぜ、松竹氏はこのような奇妙な主張を行うのだろうか。その理由は、「国民世論主義」と私が呼ぶ立場に陥っているからである。「国民世論主義」とは、「みんなが~しているから、私もそうするし、あなたもそうすべきだ」と考える「みんな主義」の一種で、「国民世論によれば、~という立場が支持されているから、私も支持するし、あなたもそうすべきだ」と考える立場である。これは心理学でいう「多数派同調バイアス」の一種であり、多数派を見て自分の態度を決めるという立場で、諺風に言えば「人のフリみてわがフリ決める」とでも表現できるだろう。「長いものには巻かれろ」とか「寄らば大樹の陰」といった諺のある日本に特有の現象というわけではなく、デイヴィッド・リースマンが『孤独な群衆』の中で命名した「他者指向型パーソナリティ」の行動様式であって、現代人に広く見られる特徴でもある。自らが少数派に属することを極端に恐れる心理である。

松竹氏は第1章で世論調査の結果をつぶさに分析して、次のように述べている。

「安全保障政策という角度から見ると、国民の9割は専守防衛派なのです」(21頁)

「圧倒的多数の専守防衛派が改憲に向かうか、それとも護憲を選ぶかで、憲法改正をめぐる闘いの決着がつくということです。専守防衛派の心をつかめるかどうかで、この闘いの帰趨は決まるということです」(22頁)

「専守防衛派を改憲派と護憲派のどちらが味方につけるのか。そこにどちらが国民の支持を得られるかの分岐点があります。専守防衛という考えを否定してしまっては、護憲派にせよ改憲派にせよ、国民世論から浮いた存在になってしまいます」(43頁)

安倍首相がもくろむ改憲(=壊憲)を阻止するためには、自衛隊違憲論(非武装派)の護憲派と専守防衛の自衛隊は合憲と考える“護憲派”とが協力・共闘して反対しなければならない、というのはその通りである。これは政治的・戦術的判断である。そのことと法解釈(法的判断)とは別であり、協力するためには自衛隊違憲論者が自らの信条を捨てて転向しなければならない、などということはない。また、目の前の課題にどう対応すべきかという短期的目標と、どのような国のあり方を目指すのかという長期的目標とが一致しなければならない、などということもない。ドイツの政治学者ノエル=ノイマンによると、そもそも世論というのは、同調を求める社会的圧力によって多数派の声を増幅し、少数派に沈黙を余儀なくさせる装置である(『沈黙の螺旋理論』)。そのような世論調査を基に、多数派に同調していこうというのが「国民世論主義」である。そして、多数派への同調を呼びかけることによって、無意識的かもしれないが、少数派にさらなる沈黙を強いようとしているのである。

しかし、そもそも世論や多数派が常に正しい判断をしてくれるのであれば、何も考える必要もないし、議論をする意味もない。松竹氏もわざわざこんな本を書かなくても、世論や国民投票の結果にお任せすればいい、ということになろう。「人のフリ見てわがフリ決める」国民世論主義を良しとしないのであれば、松竹氏の論拠の大半は崩れることになろう。しかし、松竹氏の「改憲的護憲論」には、もう一つの論拠もあった。それは「専守防衛=13条根拠説」である。これについては節を改めて論じよう。

(2)「専守防衛=13条根拠説」

「専守防衛=13条根拠説」とは、専守防衛の自衛隊が合憲であることの根拠として憲法13条を持ち出す主張のことであり、私が知る限り、政府は1972年以来この解釈を採っている。自衛隊が創設された1954年に政府が採用した公式見解は、独立国である以上自衛権は有しており、憲法も自衛権を否定していないので、自衛のための必要最小限度の実力は認めらえるという、自衛権を根拠とする必要最小限実力説であった。しかし、1972年10月14日に出された政府見解において、自衛権の根拠として憲法13条の規定する「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」を守るため、という論拠が(国際法上当然に有するという議論に)付加されたのである。そして「専守防衛」の概念が登場したのが、その2年前に初めて刊行された防衛白書においてであった。ただし松竹氏の場合は、先に述べたように、13条を根拠としつつも、専守防衛の自衛隊は「合憲だ」と明言することは避けつつ、(政治的判断として)「合憲とみなす」べきだと主張しているのである。

では、この「専守防衛=13条根拠説」は正しいのだろうか。結論から言えば、歴史も憲法も知らないトンデモ説である。憲法は前文において、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにする」ことを憲法制定の3大目的の一つに掲げている。中学や高校では日本国憲法の3大原理が「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義(戦争放棄)」であると教わるはずだが、それは憲法前文第1文に掲げられた憲法制定の3大目的とも対応しているのである。そして、その平和主義は、戦争の惨禍は「政府の行為によって起る」ものだという痛切な反省に立って、政治権力に対する徹底した懐疑に基礎づけられているのである。それはまた、「平和を愛する諸国民(peace-loving peoples)の公正と信義」に対する信頼とは対照的である。政府や軍隊は、国民を守るどころか、凄惨な戦争に国民を引きずり込み、惨憺たる被害をもたらした元凶として、国民の大半が怨嗟と不信の念で見つめていた時代にこの憲法は制定され、世界に先駆けて一切の戦争と戦力を放棄したものとして国民に受け入れられたのである。憲法は、「軍隊(自衛隊)は国民の生命と財産を守ってくれるものだ」などという呑気な思想とは正反対の思想、それも310万人にも上る国内の死者(アジアでは死者2000万人)と焦土となった国土という惨憺たる体験を通してつかみ取った思想に立脚しているのである。憲法制定議会となった第90回帝国議会において、当時の吉田茂首相が、「第9条第2項に於いて一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、又交戦権も放棄したものであります」(1946年6月26日)と答弁したのは有名な話であり、さらにその2日後には「近年の戦争は多くは国家防衛権の名に於いて行われたることは顕著なる事実であります、故に正当防衛権を認むることが偶々戦争を誘発する所以であると思うのであります」とも答弁している。そして、憲法施行後数年間は、憲法が自衛戦争もそのための戦力も禁止していることを疑う者はほとんどいなかった。朝鮮戦争勃発直後、マッカーサーの命令によって警察予備隊が設置されたときから、「時代の大うそ」、「日本の憲法は文字通りの意味を持っていないと、世界中に宣伝する大うそ、兵隊も小火器・戦車・火砲・ロケットや航空機も戦力でないという大うそ」が始まったのである(フランク・コワルスキー『日本再軍備』)。

しかし、松竹氏の自衛隊合憲(みなし)説の不思議さは、以上のような一般論に留まるものではない。松竹氏の自衛隊合憲(みなし)説は、「自衛隊の違憲・合憲論を乗り越える」と題した「補論」の第3節「国民の生命を守るのは憲法違反か」において展開されているのだが、その直前の第2節では「長沼訴訟違憲判決の論理構造」が分析されている。そこでは長沼訴訟一審判決が引用した「松前・バーンズ協定」や源田実証言、さらには内藤功弁護士による源田証人への尋問などが詳しく紹介されている。「松前・バーンズ協定」とは1959年に日米間で結ばれた秘密協定であり、在日米軍と自衛隊とが一体として運用されること、要するに自衛隊が米軍の事実上の指揮下に置かれることを定めた文書である。源田実氏は元航空自衛隊幕僚長であり、航空自衛隊の実態に誰よりも詳しい人物の一人であるが、その彼が裁判の中で、航空自衛隊の任務は在日米軍を守ることであって、国土の防空などということはそもそも不可能であり、想定していないということを証言しているのである。このように、弁護団が、自衛隊が単に「戦力」であるだけでなく、目的も日本防衛のためではないと立証したことが、自衛隊違憲判決を引き出すのに大きく貢献したと指摘しているのである。

ところが、これに続く第3節では、こうした第2節の議論をすっかり忘れてしまったかのごとく、自衛隊は国民の生命を守るために必要だ、という持論が何の立証もなく、唐突に主張されるのである。一体、第2節を書いた松竹氏と第3節を書いた松竹氏は同一人物なのだろうか。第2節の議論を踏まえるならば、自衛隊は米軍を守るために存在している従属的軍隊であって、国民の生命を守るための組織ではなく、米軍の始めた戦争に日本を引きずり込む軍隊で、国民の生命を危険にさらす組織である、という結論こそが導かれなければならないはずである。松竹氏の議論は残念ながら、自壊したと言わざるを得ない。

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