(1)
裏金って言うな。裏金という言葉に安倍派の政治家や自民党の面々は神経をとがらせている。裏金問題が露呈した自民党議員たちの対応である。僕は言葉の言いかえに躍起になっている政治家たちの姿に日本政治の実相を見るわけだが
本当にまたかいなとも思う。言葉を言い換えることで事実隠し、問題を曖昧にする、それを政治的と言えばこれは日本の政治の根本にあるものだ。羊頭狗肉ということばがある。この場合は直ぐにばれるというか、事実が分るのだが、権力のする言葉の言いかえは事実が分かるまでに複雑なところが厄介である。
裏金と言わずになんというのだ。正当な政治資金の獲得だったといいたいのか。自民党の仲間内では通用しても社会には通用しないし、できないだろう。放射能汚染水を処理水と言い換えて丸め込んだようなことはできない。今度の裏金つくりに舞台となった安倍派のみならす、自民党の面々はこうした金つくりを悪いことだとは思っていないのだろう。たまたま、記載ミスがあったぐらいしか思っていないのではないか。けれども、どこかやましいことと思っているのだろうとも思う。取得してはいけない金であることの意識はあるのだと思う。僕はかつてロッキード事件で金の問題を堂々と語ろうとした田中角栄のことを想起するのだが、今の自民党の政治家にはそんな度胸もないのだろうと思う。必要悪でも何でもいい。この裏金取得を堂々と語ってみたらどうだ。自分たちの政治活動の中で、金の問題をめぐって感じている問題、あるいは矛盾として意識していることを語ってみたらどうだ。今の政治家たちにそんな度胸も見識もないのだろうが、政治的な誠実さがない。派閥のせいや、死者のせいにし、また会計責任者のせいにして逃げを打つ政治家たちに僕は怒りというよりは哀れみを感じる。
今回の事件に連座し訴追され、議員辞職願をだした谷川弥一「私は力をつけたかった。長崎県が抱えた課題を処理していきたかった。そんなら大臣並みの金を集めてやろうと思いました」と弁明した、とある新聞では伝えていた。正直な感想だろうと思う。責任追及されることから逃げるのに必死で党内の政治工作という暗闘をやっている安倍派幹部の5人衆やその背後にいる政治家たちよりよっぽどいさき良いと思う。安倍派幹部の政治家たちは責任逃れで必死だが、彼らに投げかけられている政治的な不信はそんなことで免れることはない。この政治家たちはこの問題に答えなければ政治的な死に体になっていくのだ。そういう恐ろしさがここにはあることが分かっていない。やがて忘れられる。そう思っているのだろうが、この問題は繰り返しでてくる。元幹事長の甘利明のことはいつもでてくる。二階の政治活動費はおかしな使い方だってそうである。書籍代に3000万、その実体は何だ。
(2)
今回の裏金つくりの捜査に乗り出した検察は安倍晋三の検察への介入に対する反発があるのだろうと推察する。検察は告発を取り上げた形で捜査をやったのだろうが、ここには、安倍の検察への介入という行為に対する反発があったのだ。あるいは安倍はこうした事態を見込んで検察の人事を掌握したかったのかもしれない。いずれにしても安倍政治が権力の内部からも反発を喚起する程のものだったことがわかる。政治の中の金の問題はいつも不法状態にあって、それを摘発するのは検察である。この検察の動きには国策捜査も含め、この不法状態を権力が利用しようとするとき動きがある。権力の座にある部分が自己の政治的敵を葬るものとしてこれを使うことがある。ときには権力の座にあるものへの権力内部(官僚)からの批判として使われることもある。今回は検察(検察に代表される官僚)からの安倍政治に対する反発があったのだと推察される。検察はこの事件で安倍派の批判を徹底的にやろうとしたのではなく、反発程度だったのだから、安倍5人衆の立件なんてやる気はなかったのだし、記載ミスの問題に矮小化してことを収拾した。ことがこれだけ大きな問題になることを検察は考えてはいなかったのだろう。検察の動きにパンドラの箱を開けるようなところもあったのだ。
だから、安倍派の裏金つくりの摘発は検察の思惑を超えておおきな問題となり、広がっている。不法状態が常態の保守政治の政治資金の収得と支出のことが明るみになり、人々の批判が出てきているのだ。当然のことだ。権力側の反発からであれこの問題の摘発が現在の政治の矛盾の指摘だったからである。裏金づくりは日本の保守政治が伝統としてやってきたことであり、手法は変わってきたが、裏政治しても存続してきたものだ。政治力とは金つくり(政治資金を集める能力)であることは続いてきたことである。かつて石原慎太郎が総理大臣になれなかったのは政治資金を集める力がなかったからだといわれるが、そういう事態は続いてきたのである。
(3)
今回の事件はいつも不法状態にある保守政党(自民党)の政治資金づくりの一角を、とりわけ安倍派の政治資金パーティーを舞台とする政治資金作りの活動を明るみに出したことなのだが、このことは自民党政治における政治資金集めの闇の部分というか、裏の部分を明るみにしたということだ。安倍派だけのことではない。かつては個人(政治的な首領と目される政治家)がその資金の取得を担ってきたし、田中角栄はその際立ったやり方をした。政治的資金作りのパーティーというのは金権批判のあとに生みだされてものだが、安倍派はそれを巧妙にやってきたのだ。
政治資金の獲得、要するに金づくりは政治的には許されていることだが、裏金つくりは不法で道義的に許されないことである。ここに、どのような枠づけをするかで政治資金法という規制がある。政治改革の名で規制が強化されてきた。それは資金の獲得(取得)と、使い方(支出)の双方にわたってのことだが、この規制からは許されない取得と支出が裏金である。裏金つくりは政治資金つくりの根の部分にあり、かつては合法であったもの、法的規制を受けなかったものが規制されるに従って、地下(闇)化して存続してきた。地下化した金の取得と支出が裏金といわれるのだ。今回の事件ではこの裏金の使いかたは追及されていないが、そこに広がりは見せている。政治活動費の使われ方の追及などである。
それは裏金の使われ方への疑念があきらかになることである。岸田首相は「政治的自由」のために明らかにすることに慎重なふりをするが、お門違いであり、滑稽な言だ。
(4)
一般に政治に金が必要だということがある。政治活動には金がいるということがある。その根本には政治活動は経済的にみれば消費活動であり、生産活動ではないということがある。政治活動ではその必要な金を生みだせないということがある。議員になれば職業的な報酬をうけるが、それは部分的なことだ。そうすると活動に必要な金は政治活動の外から得なければならない。これは結局のところ、自己が政治活動外の活動で得た金か、他者の献金しかない。政治的利便のための献金は贈収賄として否定される。ここで取得方法が問題になる。とにかく、政治的利便を期待しての資金の贈与は禁じられており、金の問題としてここが問題とされてきた。本当は政治的利便性を期しての資金の提供は企業・団体の献金として境界に引きにくいところであり、個人献金にすべきである、と思う。ともかく、金の流れという意味では企業献金や団体献金は不透明になりがちである。個人献金の場合も抜け道は考えられるだろうが、さしあたってのこととしてはそれがいいと思う。政治資金獲得のパ―ティ―は個人献金のスタイルであるが、実質は団体献金の変形というところがある。これは裏金づくりとセットになっていたし、そのように企画されていた。
ここで大事なことはこの場合の政治活動に必要な金がどのような金かということである。かつて僕は政治活動を続けていくとき、生活のための金のことで矛盾というか、それに苦しんだ経験がある。政治活動は生活の金を稼ぐ機会を困難にし、政治活動を続けるための金をどうするかということだった。職業政治家の一種として政治集団が専従活動家に金を提供する方式(職業革命家)があった。僕らはこれも拒否した。これに代わる形で金の問題を解決する道は見つけえずに終わってしまったが、僕はこの経験から、政治活動を続けるに必要な金を規定し、その獲得と支出を規定すべきだと思う。職業革命家のような方式はいいと思わないが、政治活動の具体的な時間などを規定して、献金でこの問題を解決すのはいいと思う。生活の金は自分で稼いで、その残った時間を政治活動にというのは理想だが、そういう政治活動では許されないような場合(専従的な活動が要求される時)はこの方法は解決にはならない。
政治活動に必要だという時にはその必要性を詳細に見なければならない。保守政治の場合にどういう政治活動に金がいるのか、ということが詳細にみられなければいけない。大きく分ければ選挙という政治活動と政策や理念を実現する政治活動に分けられるだろう。政治に金が必要だというが、それがどうして裏金の必要になるのは、どういう金が必要か明瞭にすれははっきりする。そして裏金の不当性もはっきりする。
保守政治にあっては特に選挙に金がかかるということがある。その場合には選挙によって議員(代表者)に選ばれるということと政党の内部で選挙ということがある。自民党の総裁選挙である。この場合に選挙で金が力になるということがある。一般の選挙という場合には票(人々の意思)を金で買う(買収)から、それも含めた基盤づくりの金が必要ということである。
自民党の総裁選で金が動いたということはよく知られたことである。これは総裁選挙に派閥が動き、派閥が金の温床になるということもあり、その派閥が閣僚などの人事権と関係するともいわれる。政治に金が必要だという場合には選挙で金がかかるということを意味する。戦前の日本における政党政治では保守政治では金がかかるということがあった。それは選挙においては票を買う金力とか、票を獲得するための基盤づくりの活動の金の必要を意味する。かつて日本における選挙の問題で保守党が強く、体制を維持してきてことには金の力が根の部分をなしてきたことがある。僕らはそのことを子供のころから選挙で見てきた。経験的に知ってきた。この推察は間違ってはいないと思う。買収などの票を金で買う行為は不法であり、それに連なるような政治行為は禁じられてはきたが、こういう行為は闇の政治、裏政治化しながら存続してきたのである。闇の政治のために必要なのが裏金である。言うまでもないことだが、保守政治をこの面でのみ評価するのではない。保守政治は保守政治なりの理念と政策はあり、それが政治的力をなしてきたを評価しないのではない。(例えば田中角栄の評価)。ただ、下半身というか、そちらでは金力=政治力ということが続いてきたのだと思う。
そんなことはない、政治家は理念や政策、いうならオルタナティブな構想力によって選択され、閣僚などもその力で選ばれるのだと思われている。それは近代政治、民主主義の建前であるが、実体ではそうはなっていないのであり、政治における金の力は闇の部分(裏の部分)に転化してきたが、これは存続しているのだと思う。日本の政治の矛盾であるがそれは続いてきたのだと思う。
先のとことで紹介した谷川弥一の金を集めてやろうとおもってというのは政治における金の力が続いていることを暗示している。なるほど、保守政治の中で金が力であり、政治的選択においてかつてのように露骨ではなくなってきているとはいえる。しかし、これは解消されたのではなく、闇(裏)化してあるのだ。
安倍の政治的力に政治資金の伝統的な獲得能力と使い方があったことを僕らは知っている。安倍政治の闇の部分が暴露されているのだが…。
今回の問題は政治資金の取得方法が問題で、そこでの政治資金規制法に反する記載ミスというこが摘発されているのだが、僕らは裏金を作るという自民党の政治活動が不法的状態で続いてきたと思う。これは自民党政治の特質であり、政治的に批判されなければない。この根本には政治的代表や閣僚が、政治的理念や政策、あるいは見識、オルタナィブな構想力で選ばれというように政治の構造が変わることが望まれる。政治が変わるということの最低限のことである。歴史的にみれば戦後の反体制運動や反権力運動は政治権力や体制を批判し、暴走を抑制するという意味でのそれなりの役割を果たしたが、オルタナティブな構想力による政治に替えるという意味では失敗してきたと思う。政権交代した民主党のこともふくめてだ。
民主主義の成熟と言われるが、僕らはその絶望的で遠い場所にある。これが現実なのだが。民主主義的な原則が政治において問われているのであり、それは政治的な理念や政策をオルタナティブな構想力として持つ政治である。そして、金による政治というのはその対極にある政治であり、裏金づくりという政治は批判さるべき政治である。
さしあたって政治資金の収得と支出をどのように規制するかといことは提起できるし、それは難しいことではないと思う。根本には選挙がある。その実態がある。ここが変われるか、どうかだ。「派閥の解散」や「政治の刷新」などは問題のすり替えであり、逃げに過ぎない。裏金という言葉を使うな、という哀しすぎる振る舞いでなく、裏金の取得と支出を「政治活動費」のことも含めて明らかにすることをやれ。身を切ることとはそういうことであり、そうしなければ政治的不信なんてとかれない、だろう。野党には政権交代のいいチャンスだがこれをものにできるか。
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〔opinion13575:240224〕