今回の選挙で山本太郎氏を左派のポピュリストと言う人もいるようですが、筆者はそういう風に見ていません。欧州で筆者が最近、耳にした言葉を1つ挙げさせてください。それは現代の哲学者が政治について語った言葉です。
「政治家とは人々が政治を行うのを手助けする職業である」
これがその言葉です。最初、本当に驚きました。こんな発想を日本で持ったことがなかったからです。日本の政治に対する常識と180%異なる視点ではないでしょうか。というのは当地では政治家とは人々を導いていくカリスマ的リーダーが良き政治家と思われてきたフシがあります。「強いリーダーが欲しいですね」という言葉が象徴的です。
でも欧州では新しい政治家の概念が生まれているようです。政治の主役は町の人々なのです。その哲学者はこうも語りました。「多様な人々が参加することで政治の世界で想像力が豊かになる」フランスのパリで1968年に起きた五月革命では「想像力が権力を奪う」という言葉が壁に書かれていました。想像力を政治の世界にもっと導入していこうという願いがそこにはあります。
また、ある人はこんな言葉を言っていました。「政治は町の人々が毎日行っていることです」。この言葉はある画廊主の女性から聞きました。家庭の中でも職場でも政治と言うものは日常だというのです。男女の関係ですら政治が関わっています。国会は決して、特別な何かなどではなくて日常の小さな政治の延長線上にあるものだというのです。ですから、「政治には関心を持つな」というのは生きるのをやめろ、ということとほとんど同義なのです。選挙に行って投票する、という行為は政治の1コマでしかありません。投票することは大切なことですが、投票したらそれで政治の役割を果たしたわけではないというのです。
今回、れいわ新選組の山本太郎代表が難病患者や重い障碍者を候補に立てたのを見て障碍者を利用している、と批判する声もあります。しかし、欧州の哲学者の考えに沿って解釈すれば、山本氏は彼らが政治を行うのを手伝っているのです。そして、当選した二人の障碍者たちもまた、他の障碍者や、他の人々が政治を行うのを手助けする仕事をする、ということになります。障碍者だからといって障碍の問題しか扱えない、と決めつけるのは傲慢だと思います。障碍者であっても経済の問題でも、外交問題でも扱うことは可能だと思います。どんな問題の当事者でも、自分の問題だけでなく、他の様々な分野の人々の利益も代弁することは可能です。想像力がそれを可能にするのです。
立憲民主党の辻元清美氏に以前、インタビューした時、辻元氏はNPOなど市民運動の力をどんどん国会に取り込んで政治を活性化していきたいというようなことを言っていました。これも「政治家とは人々が政治を行うのを手助けする職業である」という言葉だと思えます。高学歴で一流企業などの肩書きを持つスーパーエリートを選んで、どんな問題でも解決してもらおう、という考え方とは対照的です。もし人々が政治を行うのを手助けするのが「ポピュリズム」だとしたら、ルソーの社会契約論などそもそも成り立ちえません。ルソーは法律と言うものは国民みんなで決めることが大切だと言っていました。政治の主権者は国民なのです。確かに、複雑な現代では、経済や技術の面で専門知識も必要になるでしょう。しかし、それは知恵や技術や経験の豊かな人と一緒に政治をやればいいのです。
近年の傾向として選挙戦で争点を隠し、さらに国会が始まってもTPPの時などのようにできるだけ国会議員に情報にアクセスできないようにして、秘密裏に政治を進めていこうという傾向が顕著になっています。日本でもアメリカでもフランスでもそうです。そのような時代に、国会の中に町の人々の声を入れていく、様々な知恵や経験を導入していく、ということはとても大切なことだと思います。現政権における国会の常識が世界の非常識になっていることが多々あるからです。今回の選挙で新しい風が吹いていると言うのはこのことだと思っています。
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