「疑獄事件」への発展を恐れた大義なき衆議院解散と、選択肢の余地がなくなるほどに狭められた選挙(つまり、右翼の安倍政権を選ぶか、もっと右翼の小池政権を選ぶか-冗談ではない!)。非常事態を迎えた日本政治。この現状をどう読み解くべきか、この問題を考えるために非力ながら一石を投じたいと思う。
序論
1.基本的な視座
まず端的に次のように借問してみる。
《なぜ今「神道」なのか?「神道」による国民運動とは、時代錯誤もいいとこではないのか?》
たしかに彼らの主張はアナクロニズムである。しかし、この「時代錯誤」「戦前回帰」の思想運動に、例えば「日本会議国会議員懇談会」に、国会議員が300人以上も名前を連ねていて(もちろん、一般にうわさされるように選挙票目当てが大半かもしれないが)、現内閣の政治政策にこの団体の主張がかなり影響を及ぼしているともなれば、ただ笑い飛ばして済ませるわけにはいかない。むしろ、このような一見して「陳腐な」思想が、なぜ今日、傍若無人にふるまうようになっているのか、その拠って来たる社会構造的要因は何か、を明らかにすることがわれわれにとって喫緊の課題ではないだろうか。(注1)
「日本会議」の思想をひとことでいえば、「日本(大和民族)主義」であり、今はやりの言葉では、「日本ファースト」である。そしてこの論考で一番強調したいことは、「日本会議」に見られるようなバックラッシュ現象が、実際にはわれわれの外部にある問題なのではなく、われわれ自身の内部の問題として、特殊個別たる私たち自身に内在する問題としてある(臨在する)こと、その事の重大さを認識し、それをいかに超克するかという点にある。
その場合、この現象が日本と日本人とに特有な現象なのか、それとも現代社会全般の危機の先鋭化したものの特殊日本的な現われなのか、ということが第一に問題になる。
そこでまずこの視点から、「日本会議」について書かれた幾つかの先駆的研究文献を概括してみる。
山崎雅弘(『日本会議』:集英社新書2016)は、明らかに前者の考え方の上に立ち、それを「戦前回帰」志向に結び付けて考察している。上杉聰(『日本会議とは何か-「憲法改正」に突き進むカルト集団』:合同出版2016)も同じく前者の立場をとっているのであるが、こちらは「日本会議」を構成する組織が圧倒的に宗教団体であり、しかも熱烈な「天皇崇拝」「天皇を中心にした国家の再生」を唱える(かつての)「生長の家」の青年部を中心に形成されたことから、これをカルト集団と見なしている。成澤宗男編著(『日本会議と神社本庁』:週刊金曜日2016)の考え方も概ね同じように思う。彼は「右翼的新興宗教」の代表格としての「生長の家」を軸に、それが「神社本庁」と組んで創り出した運動体が「日本会議」だと捉えている。青木理(『日本会議の正体』:平凡社新書2016)は、いかにもジャーナリストらしく、丁寧なインタビューを重ねながら、結論的には「生長の家」の政治組織に淵源する「生政連」が、資金面、大衆動員の必要性から神社本庁の「神政連」と共通目標に向かって連繋したこと、その共通目標とは、「戦前回帰」と呼ばれるような「皇国史観」に基づき、日本人としてのDNAの自覚を持った国民的な統一戦線の構築による国家の再生にあること、このことを剔抉している。
しかし、こうしてみると残念ながらいずれの論者にも「後者の考え方」、つまり「現代社会全般の危機が先鋭化したものの特殊日本的な現象」としてこれを解明するという視点に立って今日の「日本ナショナリズム」を論じるという問題意識が少なくともこの限りでは希薄なように思える。
だが、今日社会の「右傾化」傾向は、何も日本に特有な現象ではないのである。欧米はもとより、中国やロシア、また途上国にまで「自国防衛」という意識からする政権の右傾化、自民族中心主義的傾向(ethnocentrism)が強まっている。そしてそうした傾向を醸成する社会的要因としては、格差の拡大、貧困の蔓延、失業、また地域戦争による生活破壊、流民・難民の大量排出、一部地域への原発被害や基地などマイナスの押しつけ、等々が世界大的に拡がっていることがある。この論文の基本的な視座は、もちろん前者の要因を軽視するつもりはないが、それらを出現させ、その影響を拡大させるにはやはり何らかの社会的基盤となる要因がそれに結びついていること、その要因とは、現代資本主義の全般的な危機(逼塞状況)であり、われわれの現状は文字通りに歴史の曲がり角にあるということ、それの日本的な現れ方にこそこの問題の留目すべき主要な根があるのではないかというものである。
そういう立場からする検討課題を仮説的に立てるなら次のようになる。①「日本会議」の大衆運動の組織化(反民主主義的民主主義)の実状、②「国家神道」を軸にした日本国家の再編構想(民族主義的大保守党構想)が意味するものは何か、③いわゆる「ボナパルティズム的傾向」、の三つである。ボナパルティズム的傾向とは、既成権力の自壊が進む中で、それにもかかわらずそれに代わるべき新たな普遍的な力が登場しえない段階における、既成勢力の自己保存のあがき、という意味である。
この今日のボナパルティズムの分析の中で、現代資本主義社会の危機の問題とその日本的現象を総合的に取り上げる必要があると考えている。さらにそれを歴史的な観点から総括するために、1930年代のナチの運動との対質を試みたいと思う。ナチの運動には、上に述べた社会的な要因と特殊ドイツ的なものとの有機的な結合が鮮明に読み取れるからである。また、ナチの運動にもある、ある種の時代錯誤的な要因、それにもかかわらずそれが当時のドイツ社会で現実化し、国民的賛同を勝ちえた(議会選挙で勝利した)こと、この点に留意しつつ今日の「日本会議現象」、その策謀の意味するところを考えてみる必要があると思う。「世界情勢と日本問題の相互連関」という視点を絶えず考察の基盤としながら、以下に論述するような問題提起をしたい。但し、「日本会議」とナチ、あるいは戦前の体験などを比較対照するが、だからといってそれらのアナロジーでもって、事足れりとしてすませるつもりはない。また何らかの類似点を公式として現状に当てはめていく見方もとらない。主体的な条件も含めて、時代状況が大きく変化している今、そんなことに何らの意義も見出しえないからだ。
「各時代はそれぞれ特有の境遇を有し、それぞれ極めて個性的な状態にあるものであるから、各状態の中で各状態そのものによって決定されねばならないし、そうしてのみ決定されうるものである。世界の色々な出来事の雑踏の下では、一般的な原則も、色々な類似の関係への回想も何の役にも立たない。」(ヘーゲル『歴史哲学講義』)
それでは歴史に学ぶべきことは何もないのかといえば、そうではない。われわれ自身をも含め、われわれの前にあるありとあらゆるもの(Zuhandensein)が、いわば過去からの遺産として「歴史的に在る」のであり、その限りで現在は絶えず「歴史的現在」だからである。
(注1):山崎雅弘は次のことを指摘している。
「(日本の大手メディアはほとんど「日本会議」に関心を払っていないのに比べて)海外の主要メディアは、2012年12月の第二次安倍政権発足当時から、日本会議と安倍政権の緊密な関係に着目して、分析記事を書いていました。イギリスの「エコノミスト」は、第二次安倍政権発足から10日後の2013年1月5日、「バック・トゥー・ザ・フューチャー」というタイトルの記事で、安倍政権と日本会議の関係について次のように説明。〈安倍内閣の閣僚19人の顔ぶれは、彼が長期的にどんな方向性を目指しているのかを示している。14人は、戦後に戦犯として処刑された戦争指導者を顕彰する、物議を醸す東京の神社に参拝する「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」の会員である。13人は、日本の「伝統的価値観」への回帰を提唱し、戦争中の日本の犯罪的行為に対する「謝罪外交」を拒絶する、国家主義的シンクタンク「日本会議」を支援している。9人は軍国主義時代の日本を美化した歴史を学校で教えるよう求める議員連盟(日本の前途と歴史教育を考える議員の会)に所属している。彼らは、日本が戦争中におかした残虐行為のほとんどを否認する。(中略)この新政権を「保守的」と評したのでは、本当の性質を捉えることは難しくなる。これは過激な国家主義者の政権である〉
正確には、閣僚が所属しているのは「日本会議国会議員懇談会」であり、日本会議という組織も「シンクタンク」ではなく形式上は「政治的な任意団体」です。
アメリカの「ワシントン・ポスト」「ニューヨーク・タイムズ」「ウォール・ストリート・ジャーナル」、イギリスの「ガーディアン」、オーストラリアの「ABCニューズ」、フランスの「オブス」、ネットの国際報道サイト「VICEニューズ」などが言及。」(山崎雅弘著『日本会議』集英社新書2016 pp.56-7)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion6995:170930〕