《自然主義論争における石川啄木》
時代閉塞という言葉の本家・本元のテキスト「時代閉塞の現状」を読んだ。
それは若き詩人石川啄木(1886~1912)が、死の2年前である1910(明治43)年8月に書いた論文である。韓国併合条約調印の月である。「強権、純粋自然主義の最後および明日の考察」という副題がついている。評論家魚住折蘆(うおずみせつろ)の「自己主張としての自然主義」への反論として執筆されたが、発表は死の翌年であった。それまで数年続いていた「自然主義論争」の一幕を飾る作である。
「自然主義論争」とは、当時隆盛を極めた「自然主義文学」の性格を論じて、「科学的決定論的な思想」(自己否定的傾向)と「自己拡充の精神」(自己主張的傾向)のどちらに重きをおくかという論争であった。私はそれぞれの代表作品として田山花袋の「蒲団」と島崎藤村の「破戒」をイメージしている。論争参加者は、折蘆のほか田山花袋、綱島梁川、長谷川天渓、片上天弦、相馬御風、島村抱月、阿部次郎、夏目漱石ら多彩だった。
魚住折蘆は何をどう論じたのか。
折蘆は近代思想は反抗の性格をもっているという。「オーソリテイ」に対する反抗である。オーソリテイは中世では教会、今日では国家である。ルネサンスと宗教改革という矛盾する思想も、中世の「オーソリテイ」である教会に「聯合」して反抗した。今日の日本で、「決定論的」思想と「自己主張的」思想が「自然主義」を名乗って「オーソリテイ」(国家)に「聯合」して反抗している。これが折蘆の論旨である。
《「オーソリテイ」への反抗は実在するか》
折蘆の自然主義理解に対して啄木は敢然と反論した。私が要約する啄木の結論を書く。
それは「未来を奪われた青年は〈時代閉塞の現状〉に目覚めよ。国家という敵の存在に目覚めよ。真の必要を発見せねばならぬ。私は文学に真の〈批評〉を求める」というのだ。
以下、啄木論文に内在して論理をたどっていこう。折蘆は、混乱した自然主義概念を整理しようとした。それを啄木は評価する。しかし「オーソリテイ」への対抗のための「政略結婚」が自然主義の実態だという理解は大誤謬だという。いままで国家が青年たちの怨敵であったことは一度もない。青年は、国家の問題を「父兄」に丸投げした。この父兄とは上の世代すなわち時の権力を指すのであろう。啄木は次のように書いている。
▼日本の総ての女子が、明治新社会の形成を全く男子の手に委ねた結果として、過去四十年の間一(いつ)に男子の奴隷として規定、訓練され/しかもそれに満足―少くともそれに抗弁する理由を知らずにいる如く、我々青年もまた同じ理由によって、総て国家に就いての問題に於ては/全く父兄の手に一任しているのである。▲(▼と▲の間が引用部分)
ところが実際には青年は国家―強権―と接触しているのだ。啄木はいう。
▼我々青年は誰しもそのある時期に於て徴兵検査のために非常な危惧を感じている。また総ての青年の権利たる教育がその一部分―富有なる父兄を有った一部分だけの特権となり、更にそれが無法なる試験制度のために更にまた約三分の一だけに限られている事実や、国民の最大多数の食事を制限している高率の租税の費途なども目撃している。凡そこれらの極く普通な現象も、我々をして彼(か)の強権に対する自由討究を始めしめる動機たる性質を有っているに違いない。▲
青年は日本の大国主義、帝国主義を肯定している。しかし自らは政策決定にコミットできない。それは「父兄」の仕事だからである。青年にとって怨敵は存在していない。従って論争の「収攬し難き混乱」を、折蘆が「奇妙なる結合が自然主義」として纏めるのは無意味である。二派の結合は国家という共通の敵がなかったから生じたのである。誤まれる折蘆の言のあとには、自己主張と強烈な欲求が残る。この状態こそ「理想喪失の悲しむべき状態」、「時代閉塞の現状」である。これが啄木の現状認識である。
《啄木の見た「時代閉塞の現状」》
「時代閉塞の現状」に啄木は何を見たのか。
▼毎年何百という官私大学卒業生が、その半分は職を得かねて下宿屋にごろごろしているではないか。しかも彼らはまだまだ幸福な方なのである。/彼らに何十倍、何百倍する多数の青年は、その教育を受ける権利を中途半端で奪われてしまうではないか。
中途半端の教育はその人の人生を中途半端にする。彼らは実にその生涯の勤勉努力を以てしてもなおかつ三十円以上の月給を取ることが許されないのである。無論彼らはそれに満足するはずはない。かくて日本には今「遊民」という不思議な階級が漸次その数を増しつつある。/我々青年を囲繞する空気は、今やもう少しも流動しなくなった。強権の勢力は普く国内に行きわたっている。現代社会組織はその隅々まで発達している。
▼時代閉塞の現状に於て、我々の中最も急進的な人たちが、如何なる方面にその「自己」を主張しているかは既に読者の知る如くである。実に彼らは、抑えても抑えても抑えきれぬ自己その者の圧迫に堪えかねて、彼らの入れられている箱の最も板の薄い処、もしくは空隙(現代社会組織の欠陥)に向って全く盲目的に突進している。今日の小説や詩や歌の殆どすべてが女郎買、淫売買、乃至野合、姦通の記録であるにして決して偶然ではない。▲
ここで我々の青年詩人は戦闘的な批評家に進み出るのである。
▼かくて今や我々青年は、この自滅の状態から脱出するために、遂にその「敵」の存在を意識しなければならぬ時期に到達しているのである。それは我々の希望や乃至その他の理由によるものではない、実に必至である。我々は一斉に起って先ずこの時代閉塞の現状に宣戦しなければならぬ。自然主義を捨て、盲目的反抗と元禄の回顧とを罷(や)めて全精神を「明日の考察」―我々自身の時代に対する組織的考察に傾注しなければならないのである。▲
《「明日の考察」・「必要の発見」・「時代の批評」》
啄木は文学者の失敗例をいくつか挙げてその原因が「善」や「美」に対する単なる空想であったからだとする。そして「一切の空想を峻拒して、其処に残るただ一つの真実―「必要」!これ実に我々が未来に向って求むべき一切である」という。「時代閉塞の現状」は次のように結ばれる。「我々全青年の心が「明日」を占領した時、その時、「今日」の一切が初めて最も適切なる批評を享(う)くるからである。時代に没頭していては時代を批評する事が出来ない。私の文学に求むる所は批評である」。
日露戦争勝利の高揚感から一変して虚脱感、無力感が青年の心情を覆い「結核・近眼・神経衰弱」が三大病となった時代である。大逆事件の公判は10年年末に始まった。啄木は社会主義への関心を深めていた。
石川啄木が「明日の考察」というとき、彼は「時代閉塞の現状」を拒否する将来への理想を掲げよと考えたのであろう。「必要の発見」というとき、彼は空想的でない現実的・経済的なプランを策定せよと考えたのであろう。「時代の批評」というとき、彼は人々を説得できる言説を構築せよと考えたのであろう。一世紀前の問題提起は今も新鮮である。
時代認識論に集中し過ぎたが、私は啄木の本質は詩人であったと思っている。
近代日本を切り取った「飛行機」を掲げて感想を終わる。今から100年前、詩人が逝く前年、25歳の作品である。
飛行機 石川啄木
一九一一・六・二七・TOKYO
見よ、今日も、かの蒼空に
飛行機の高く飛べるを。
給仕づとめの少年が
たまに非番の日曜日、
肺病やみの母親とたつた二人の家にいて、
ひとりせつせとリイダアの独学をする眼の疲れ・・・
見よ、今日も、かの蒼空に
飛行機の高く飛べるを。
初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/