長いこと隠蔽されてきた沖縄駐留米兵による沖縄女性への「性的暴行」事件の事実がやっと最近になって公にされてきた。この明白な「情報隠し」は、6月16日に行われた「沖縄県議会選挙」が終わるのを待っていたかのように、今更のように次々に明かされている。沖縄県民へのこの人権無視の差別はどこまでも根深い。このような事態を招いた全責任が「本土」にあるということ、これを直視しながら「沖縄問題」を考える必要があるだろう。
5月26日ちきゅう座の総会の後、高橋哲哉さん(東京大学名誉教授 哲学・現代思想)にお越しいただき、「日本の軍事化と沖縄―「基地引き取り論」に立って―」というテーマでの講演と討論集会を行った。講師の誠実な人柄が現れた非常に有意義な研究集会だったと思う。フロアーからの質問、意見もなかなか傾聴に値する鋭い問題提起でした。ただ、ここではそれを紙上再現する余裕もないため、高橋さんがお書きになった『日米安保と沖縄基地論争 犠牲のシステムを問う』高橋哲哉著(朝日新聞出版2021)を参照しながら、評者なりのコメントも交えてご紹介してみたいと思う。(高橋さん講演の動画は、今回は、一般の読者には申し訳ないが、講演者からの要請でちきゅう座会員に限り閲覧を許可している。7月3日の「お知らせ」でこのことを掲示したので、ご覧ください)。
この本はその書名からもお分かりのように、「論争」の本です。と同時に、沖縄基地反対闘争をどのように展開すべきかという「闘争方針提起」の本でもあります。
「論争」に当たっては、時に相手側からの無作法な(無理解な)と思える批判に対しても、実に誠実かつ丁寧に対応されていると思います。
さてそれで最初に確認しておきたいのは、高橋さんがこの主張をされる前提にしているのが、次のような「本土」での世論調査の結果であるということです(引用個所は、≫≪で括っている。太字、下線は評者=合澤のもの、以下同様)。
≫日米安保体制の支持率…2015年に共同通信が実施した「戦後70年全国世論調査」では、日米同盟について「今よりも同盟関係を強化すべきだ」が20%「今の同盟関係のままでよい」が66%で、合わせると86%が支持…「安保条約が重要ならば全国民で負担すべきだ」(1998年大田昌秀知事)…「われわれは『不公平だ』と率直に訴えていく」(pp.20-1)≪
1.「基地引き取り論」のスタンス
このような調査結果を前提にしたうえで、「(沖縄基地の)県外移設」を考える理由が以下のように述べられている。少々長いが、非常に大切な個所なので引用しておきます。
≫①日米安保体制との関係について。基地引き取り論には、あくまで「安保を維持するなら」という前提がある。安保解消は日本側からの申し出だけでも可能(日米安保条約第10条:…この条約が10年間効力を存続した後は、いずれの締約国も、他方の締約国に対しこの条約を終了させる意思を通告することができ、その場合には、この条約は、そのような通告が行われたのち1年で終了する」)であり、安保が解消されれば、当然、沖縄からも日本からも米軍基地は撤去される。…しかしながら、世論の安保支持は圧倒的である。「安保廃棄」を理由として、沖縄の人々に我慢を強いることはもう許されないと私は考える。「本土移転」の方が実現可能性が大きいことは、普通に考えて明らかだろう。基地引き取りの提起は、安保解消を目指す少数派にとっても、むしろプラスになりうる。沖縄への基地の隔離・固定化が進み、「本土」では安保問題が他人ごとになってしまったことが、安保体制を安んじて指示できる状況を創り出し、安保支持率を高めてきた。漠然と現状維持の意識から安保支持に傾いている「普通の」市民にとって、沖縄の基地を自分の地元に引き取る可能性を考えることは、安保問題の当事者意識を回復することにつながる。安保解消の選択肢を含め、安保体制の根本的見直しの議論を提起する大きなチャンスが生まれるだろう。
②「本土」に基地を引き取っても、移設先の地域が新たに犠牲になるだけではないか、という異論。…だが、長きにわたり70%もの負担を強いられてきた沖縄の人々に対して、一県で僅か数%の負担であっても拒否するという結論は、どんな特権によって許されるのだろうか。(本土移設は)「犠牲」とは言えない。「本土」が政治的に選択した体制下で、その選択に伴う不可避の負担であり、それをどう処理するかは「本土」の責任で決すべきことである。「本土」の中で特定の地域に基地負担が集中することを懸念する議論は、真摯に追求すれば、「本土」ですでに基地が存在する地域の負担をどうするか、という議論につながって行く。「安全保障の負担は特定の地域に押し付けられるべきでなく全国で担うべきだ」が原則であるなら、「本土」内でも平等負担に近づけるのが望ましいのは言うまでもない。だがそれも、けた外れに大きな負担を差別的に押し付けられてきた沖縄から負担を引き取るという前提があってのことである。「本土」に引き取った時の諸問題をどうするかについての議論は、あくまで「本土」に引き取るという大前提を共有したうえでなされるべきで、その諸問題に対する懸念を理由に引き取りを拒否することは本末転倒だと考える。
③安保体制下で基地をどこに置くかを決めるのは米国であり、主権を制限されている日本政府は何もできないのだから、引き取るなど不可能だ、これは事実に反する。例えば2012年、民主党野田佳彦政権下で、米国が在沖海兵隊約1500人を岩国基地に移駐させることを打診してきた際、山口県や岩国市の「断固反対」を理由に政府はこれを断った。日本政府は何もできないどころか、海兵隊の「本土」から沖縄への移駐は容認し、沖縄からの撤退案が米国から出てくればこれを引き留め、県外移設案が出てくればこれを退けてきたという経緯がある。(pp.30-3)≪
くどいようですが、もう一度著者の立場の根拠を書かせて頂く。ここに高橋さんの主張のαからΩまでが凝縮されていると思うからです。
≫基地引き取り論は、構造的沖縄差別への批判、植民地主義からの脱却という思想的課題を追求するとともに、沖縄からの基地撤去に向けて政治的に一歩でも前進することを目指している。(p.2)≪
≫とりわけ重要なのは。この運動(「本土」の引き取り運動)が、辺野古新基地問題をはじめとする沖縄の基地問題を狭義の安全保障政策の問題としてだけでなく、沖縄に対する日本の植民地主義を終わらせるという歴史的・思想的な課題の中で捉えていることである。問われているのは、沖縄に対する日本人の向き合い方という根本問題なのだ。引き取り運動は、「本土」の市民社会がこの課題をどこまで共有できるかの試金石になるだろう、(pp.17-8)≪
≫沖縄出身の社会学者・野村浩也―『無意識の植民地主義 日本人の米軍基地と沖縄人』(御茶の水書房2005)―は、「日本人」が「沖縄人」に対して行使している「基地の押し付けという植民地主義」の在りようを詳細に記述・分析し、日本人が沖縄人に対する「植民者」権力であるゆえんを明らかにした。(p.25)≪
私自身(評者)は、おおむねこの高橋さんのご指摘には賛同である。ただ、「沖縄解放闘争」の実践との絡みからあえて問題が残リそうだと懸念するのは、上記の③の問題に関してであろうか…。例えばEU内部の問題(EU全体と所属各国別の国内事情の間の齟齬)、さらに国連による加盟各国への縛りの問題など、グローバル化のはらむ諸問題と関連してくる。グローバル化が、国内の反対派を抑えるために活用されている。その典型の一つがEU(特に欧州委員会)であるが、日本に関しては次のことは指摘できる。
まず、自衛隊の海外派遣(PKO)である。「国連軍(平和維持軍)として」という名目(PKO協力法1992年成立)で、日本国憲法第9条を超越した取り扱いがなされたこと。憲法と「安保」の関係、また司法判断(最高裁判決)が問題となる。最近では、沖縄基地の「辺野古への移転」問題に関連して、沖縄県の決定(地方自治権)が無視される判決結果が生まれている。古くは砂川闘争の「伊達判決」(米軍駐留は憲法違反)無視による最高裁(田中耕太郎長官)への跳躍上告と逆転判決(1959年12月16日「アメリカ軍の駐留は憲法に違反しない」=既成事実化)に明確にみられる実例などである。
もちろん、高橋さんはこのことを十分に意識されている。それ故、次のように述べている。
≫そもそも「主権」は政治と離れてどこかにあるものではない。…既成の法体系を容認し続けるか変えようとするかは日本政府の意志にかかっており、根本的には主権者国民の政治的意志にかかっている。まして、日本は沖縄の基地をどうすることもできないなどというのは、自ら米国に隷従し、この国の主権者たることを放棄する政治的ニヒリズムに他ならない。(pp.33-4)≪
米軍基地を「沖縄に押し付けている」限り、「本土人」にとっては、沖縄問題はおろか、米軍基地問題も、「安保条約」も、いつまでも他人事である。また「差別意識」も払拭できないままであろう。だからこそ、沖縄基地の「本土引き取り」論が必要なのである。
もう少し言うとすれば、日常生活に埋没し、自分たちの置かれている状況にすら気が付かない、特に「本土人」に対して、自己意識=自覚を喚起し、この問題は「疎遠な問題」なのではなく、「自分たちの今おかれている問題なのだ」と問題を突きつけること、このことを高橋さんは意図しているように思う。
≫「日本人よ、基地を引き取れ」という県外移設の声は、沖縄への基地集中という構造的差別の責任主体として、「日本人」を召還する。この「日本人」は、沖縄人が『無批判的に「隷従」し、「沖縄的なものをおとしめることによって」「融合」したいと欲望するような「超自我」としての「日本人」ではない。この「日本人」は、県外移設を要求する沖縄人にとって、安保体制に賛成するにせよ反対するにせよ日本国の圧倒的多数派として、沖縄への基地集中を許してきた構造的差別の主体であり、沖縄人の被害に責任を有する加害者として、沖縄人が基地を引き取らせるべき相手として、沖縄人から区別されている。「融合」、「合一」、「一体化」すべき「祖国」や「母の懐」などではなく、その圧力を跳ね返し、突き放し、その圧力から解放されるべき相手であり、対等な他者として出会いなおすためにこそ批判し、問いかけ、責任を取らせなければならない相手なのである。(p.47)≪
- 「反論と再反論」について
この小論の冒頭で触れたように、この本は「論争の本」であるので、評注ともなれば、この部分に一番力点を置くべきだといわれるかもしれない。しかし、論点の大部分が繰り返しになる惧れがあり、また分量が多くなりかねないため、ここではほんのさわりのみ取り上げることにさせていただいた。
≫沖縄の批評家・仲里効氏の批判:県外移設論に「『本土並み』返還論の亡霊」を見る、ともいう。…沖縄人を「同じ日本国民」として認めよという主張であり、国家国民の中に進んで囚われていく「国民主義」の陥穽に嵌っているのではないか、と。(p.51)≪
私見では、高橋さんの議論は「同化政策(思想)」のヴァリアント(variant)ではないのか、という批判かと思える。
これに対する高橋さんの回答を以下にご紹介する。
≫①平等負担論ないし応分負担論という位相。「法の下の平等」に基づく限り、「本土」国民と沖縄県民の間で国民としての基地負担の平等、公平を要求するものである限り当然である。批判者はこれを「国民主義」だといって斥けようとするのだが、しかし、法制度上の事実がある以上、これは当然の要求だと思う。国民としての当然の権利である。…日本国家に「再併合」され、その「まっただ中に捕捉」されている現状では、国民国家の論理に全面的に敵対するよりも、「国民」である限りだれしもその理念を否定できない「平等」の権利に訴えることで、「本土」への基地引き取りを迫っていく。日本国家から直ちに離脱できるのであれば別だが、その方が説得力を持つ。自らを「捕捉」する国家の法を逆手にとって自らの解放を進める「抵抗の狡知」とも言えるのではないか。(pp.51-3)≪
≫②沖縄(人)の基地撤去要求の正当性は「国民の権利」としてのみあるわけではない。…県外移設要求の核心には、「国民の権利」には収まらないものがある。それは沖縄(ウチナー)に対する日本(ヤマトゥ)の植民地支配責任を歴史的に問うというモチーフである。…「沖縄は本土のためにある」という植民地主義を拒否するのである。だからそこには、単に平等で応分の基地負担になればよいというのではなく、基地を押し付けてきた日本が基地を引き取ることを要求し、沖縄を基地なき島に戻そうとする志向がある。(p.54)
その根底においては、日本人に植民者としての政治的権力的位置(ポジショナリティ)を放棄することを求め、そうして日本の沖縄への(軍事)植民地支配を終わらせることによって、日本人と沖縄人がもはや植民者と被植民者としてではなく、人間として対等・平等な者として存在しあう世界を創り出そうとする要求なのだ。(p.58)≪
≫植民主義的な基地押し付けを拒否し、その押し付けの当事者(構造的差別の当事者)であることを日本人に自覚させる、あるいは同じことだが、現在も継続する植民地主義という加害行為の当事者であること、その加害責任の主体であることを日本人に自覚させるということ、そこに県外移設論の確信があるからこそ、ようやく全国各地の市民の中のその要求を受け止め、自分が沖縄に対する植民者という政治的位置(ポジショナリティ)にあることに気づき、沖縄からの基地撤去を「本土」への引き取りという形で現実化しようという人々が現れ、引き取り運動が始まったのである。…実際、県外移設論は、日本人にとって、基地問題に関する自らの加害者性(植民者性)に気づかせてくれるほとんど唯一の思想である。(p.59)≪
主張としては全く正しい意見だと思う。しかし、実践活動上の問題としては、なぜ大勢の大和人がこういう沖縄の犠牲の上に胡坐をかいて済ませているのか、その社会構造的根拠、言い換えれば「差別意識」構造の存在根拠へ向けた戦いが同時に追求させる必要がある点だろうと思う。「沖縄基地本土移設」運動を通じての自己の植民意識の自覚ということと、「差別意識」を生み出している社会構造への戦い、少なくとも、この両者に向けた戦いの統一が求められなければならない。例えば「エリート意識」を持つ者が、他者の悲劇に気づき、他者の犠牲の上に自己の立場が成立していることに気づく。そして庶民(下層民)の解放を共に戦おうとする。その場合に、「大学(東大)解体」や「学校制度を変えろ」で十分事足りるといえるだろうか。格差社会そのもの、格差を生み出す社会構造そのものに向けた戦いを組織しなければならない。しかしまた、「社会変革(革命)」をやればすべてが一気に解決すると考えているばかりでは何の解決にもならない。それは、あまりにも抽象的な普遍にとどまりすぎている。現実の実践では、両者の統一を具体的にどこに求めていくかが問われる。
≫基地引き取り論のポイントは、安保支持者(「本土」)がその責任を負わず、安保支持に伴う負担を弱者・少数派(沖縄)に肩代わりさせているので、その負担を本来の責任者に戻すという点にある。例えば天皇制において、「圧倒的多数」がそれを選択しながら責任を負わず。膨大なマイナスを弱者・少数者(例えば沖縄)に押し付けていたなら、それは不当な差別ではないか。天皇制の負担はそれを選択したものが負うべきだ、という議論は十分成り立つ。戦争において、それを選択したものが責任を負わず、弱者・少数者(例えば沖縄)に膨大なマイナスを押し付けたとしたなら、それは不当な差別ではないか。責任者が責任を負え、という議論は十分成り立つ。長谷川如是閑の「紹介」した「戦争絶滅受合法案」の論理はまさにそれである。…「もしも多数者・権力者が電力源として原発を選択し、その利益を享受しながらリスクは一部の地域に押し付けているなら、多数者・権力者は原発を引き取ることで責任をとるか、それが嫌なら原発という選択を見直すべきである」…「東京に原発を!」という論理(pp.72-3)≪
賛成である。あえて問題が残るとすれば、本土においてもやむを得ない事情によって追随する(例えば、電力関連の仕事に従事している者など)の弱者がいることをどう考えるべきか?この点への考慮もなされなければならないと思う。1960年代のエネルギー転換政策(石炭から石油へ)反対の炭労の闘い、なども反省されるべきであろう。また、例えば、有機農業を評価すべきであると思うが、現状の社会生活の中では有機農産物は高すぎて、庶民の手に入りそうもない、「有機卵」「有機米」を買うべきだといわれても、おいそれとは手が出ない。反対運動の過程においてしばしば問題になる点ではないだろうか。
≫沖縄の「過酷」は間違いなく他者に「強いられた」ものだが、「本土」に米軍基地があるのは「強いられた過酷」ではなく、自らの政治的選択であり、基地を引き取るのも、そのように沖縄が「強いる」のではなく、「本土」が自らの選択に責任を負うことに過ぎない。そもそも沖縄が「本土」に「過酷」を「強いる」権利を持たないことは明らかである。(pp.88-9)≪
ここでも、「沖縄」とか「本土」という言葉でそこに暮らす住民が一色に塗りつぶされてはいないだろうか。そこにも多様な生活があり、多様な関係がある。アンケートに現れた結果からだけでも、何らかの理由で「沖縄基地賛成」に組みしている人たちがいることを合わせて考えていく必要があるかもしれない。例えば、宮古島住民の保守化傾向、などを単純に「金が欲しいからだ」と片付けてよいのだろうか。
≫本土引き取り論が目指しているのは、引き取りの正当性を世論に訴え、議会の内外で可能な限り多くの意思を集めて、国内においても米国に対しても、それを政治課題として政治的に実現することである。(p.120)≪
高橋さんが155ページで一例として挙げている映画「ミルク」に登場する「ゲイのイラン人シェイダ」(マンデート難民)―1970年代アメリカで初めてゲイであることを公言した議員ハーヴェイ・ミルク氏の話―には大いに感動させられた。つまり、「国家や法や権力の全否定へと飛躍するのではなく、それらの暴力性を直視しつつ、批判的な関与と切断の営みをどちらも放棄せずに続けていくことが必要ではなかろうか。」というのである。
≫1995年の少女暴行事件以降、普天間基地の返還をめぐって出口の見えない戦いを強いられてきた沖縄の人々は、かつての「日本本土の人々と連帯していく」という復帰思想から離れ、「ヤマトの人たちが差別を黙認している」「ウチナーンチュのことはウチナーンチュで決める」という対ヤマトの視点を身につけてきた。〔中略〕任期半ばで他界した翁長さんの遺志を継ぎ、沖縄県知事選で史上最多得票で当選した玉城デニー知事も、カタログ雑誌「通販生活」(2019年春号)のインタビューで「どうぞ米軍基地を県外・国外に持って行ってください」と訴えた。知事は同時に、「『本土』の人たちが、自分たちの近くに基地はいらないといって米軍を追い出した、その基地反対闘争の『勝利』が結果的に沖縄への基地集中につながった」として、「本土」から沖縄に基地が移されてきた経緯を指摘。さらに、「(日米)安保体制の背景にある沖縄の米軍基地問題について、『本土』の人たちはどれくらい関心をお持ちなのでしょうか」と問いかけた。日本人に対する「問いかけ」としての県外移設要求は、「2010年前後」からの(もので)…この「問いかけ」が玉城県政下の現在まで続いていることは否定できない現実である。…2012年11月、当時の翁長雄志那覇市長は、鳩山首相の挫折の経緯を見て県外移設要求の覚悟を決めた、という趣旨の発言をしている。2010年11月の沖縄県知事選挙では、もともと辺野古移設容認であった仲井眞弘多前知事が、この翁長氏の進言を容れて県外移設を公約に掲げ当選。2012年総選挙、2013年参議院選挙でも、自民党沖縄県連と沖縄の候補者は県外移設を公約に掲げて当選。2013年11月までに自民党本部の圧力により、沖縄県選出・出身国会議員全員と沖縄県連が辺野古容認に転じた際には、県民世論は「平成の琉球処分」として反発。同年末、仲井眞知事が辺野古容認に転じると、翌年1月、沖縄県議会は公約違反として知事辞任要求決議を可決した。2014年、その仲井眞氏を破って知事に就任した翁長氏は、普天間基地の県外移設を「県政の基本方針」に掲げ続けた。(pp.188-9)≪
≫沖縄を米国に差し出すことで独立を手にした日本、基地被害や基地問題を沖縄に押し付けてきた日本人、安保のツケを自分たちで払わず沖縄に依存してきた日本人に対して、そんなあり方は「もうやめなさい」、沖縄から基地を引き取って自立しなさい、と強烈な要求を突き付けている。〔中略〕「日米両政府は普天間基地を諦め、すぐに閉鎖しなさい」と要求する「沖縄人」。押し付けてきた基地を引き取ることは「あなた方ひとり一人の自立の問題」なのだと「日本人」に自覚を促す「沖縄人」。「主体」というなら、そういう「主体」こそが、ここでは声を発しているのである。(p.194)≪
支配者(日本人=差別者)対被支配者(沖縄人=被差別人)という構図を成り立たしめている日本人の対外(対沖縄)的関係が日本人の自己内の関係に転化(自覚)されるべきである。
もう一つの、佐藤嘉幸・廣瀬純による高橋批判は、私=批評者には、物象化的錯視に陥っているように思える。
佐藤=廣瀬の批判的立場は、ドゥルーズ=ガタリの政治哲学―『アンチ・オイディプス』『千のプラトー』『哲学とは何か』―を基盤としているようだ。
彼らの批判に対する詳細な反論は、同じくフランス現代思想がご専門の高橋さんがこの本の中で述べられているので、ここでは省き、ただ次の高橋さんの意見のみ引用する。
≫「ポジショナリティ」は「固定的」ではない。…沖縄に基地を押し付けている「日本人」のポジショナリティは個人の意見や心情や行動だけによっては変えられないと考える…日本政府の基地政策を変えさせることができればポジショナリティも変えられる(p.223)≪
≫ここで問題なのは、あくまで日米安保体制下での米軍基地問題に関する権力関係に他ならない。それはアジア太平洋戦争終結後に限っても、歴史的に維持されてきた「構造的差別」」という権力関係であり、「沖縄人」に基地負担を押し付けることによって「日本人」(ヤマトウンチュ)が安全保障上の「利益」を得るという権力関係なのだ。(p.232)≪
≫沖縄の基地問題のように政治的権利の不平等や利益の差別的配分が問題であるときに、「二項対立」の「乗り越え」や「越境」を称揚することは、加害/被害、差別/非差別といった関係を否認することになりかねないので注意を要する。(p.243)≪
≫「基地はどこにもいらない」という反戦平和の原則は今後も堅持すべきだ、と筆者は考える。一方で、「安保廃棄」による「即時無条件基地撤去」という戦後革新勢力のスローガンが、多年の運動にもかかわらず、ここまで「政治的力」を喪失してしまったならば、安保法制のみならず安保体制そのものを問題化していくためには、「お題目」と化した「安保廃棄」を唱え続けるのとは別の道筋を考える必要があるのではないか。米軍基地を「沖縄の問題」と思うからこそ安んじて安保支持者になっている「本土」の人々に、基地引き取りを提起して安保の当事者たることの自覚を促すほうが、「世論を変える」力になるのではないか。(p.259)≪
≫政府は「沖縄の負担軽減」として企てたオスプレイ訓練の佐賀移転を、地元の反対を理由の一つとして撤回した。自衛隊基地への配備も地元の了解なしに進めないと表明した。沖縄と「本土」での二重基準がまたしてもあらわになった形だ。…安保維持か解消かも、基地引き取りを前提に全国の有権者が決すべき問題である。(p.261)≪
≫…筆者はむしろ、安保支持が8割を超える現状では、「安保を支持するなら基地を引き取らざるを得ない」と提起しつつ、それを通して安保に正面から向き合うことを求めるほうが有効ではないかと思うのだが…。(p.265)≪
≫沖縄からの「基地引き取り」は安保解消の目的と矛盾せず、むしろ「基地引き取り」の提起は現状で安保見直しの議論を起こすための大きなきっかけになる、と考えている。(p.274)≪
≫在沖基地の撤去、安保条約の廃棄、日本の軍事力の解消は、繋がってはいるものの別の三つの事柄である。沖縄からの全基地撤去が実現しても。安保条約が解消されるとは限らないし、安保条約が解消されても、自衛隊が解体されるとは限らない。この国の世論、政治家や官僚の傾向、全国紙・地方紙などジャーナリズムのスタンスなどを考えれば、安保条約の廃棄、日本の軍事力完全解消のハードルがいかに高いかは明白だろう。(p.276)≪
≫私の議論の主旨は、基本的にはシンプルである。沖縄への軍事基地の押し付けを続けることは許されない。日本が当面、日米安保体制を維持するのであれば、沖縄の基地は「本土」に引き取るべきである。もし「本土」のどこにも引き取れないのであれば、沖縄の基地は全国どこにも置き場がないものなので、撤去すべきであり、それでも日米安保体制を維持するかどうか、根本から議論し直すべきである。そしていずれの場合も、日本国民の政治的意志が日本政府の米国とのタフな交渉を支え、目標の実現を図るべきである。(p.294)≪
米軍基地をめぐる、沖縄県内での賛成、反対のそれぞれの立場への十分な顧慮と「引き取り先」地元の反対運動と「沖縄の負担軽減」を矛盾なく結合することを考える必要がある。反対運動の中身は、必ずしもエゴからだけとは言えないだろうが、しかし次の段階での問題がそこから始まるという高橋さんの主張・視点は非常に大事だと思う。この「区別なき区別」への闘いは、闘いそのものの困難さでもあると同時に、闘いの内容の一層の拡大・深化を促すものでもあると考える。
2024.7.25記
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion13815:240727〕