【解説】
過日掲載致しました拙論「橋川文三の文学精神」には、さわりともいうべき「十 橋川文三と日本浪曼派」及び「十一 絶対者の自覚」の本文がそっくり欠落しておりました。お詫び申し上げるとともに本文欠落部分の補充をさせて頂きます。たいへん申し訳ございませんでした。著者より。
なお「橋川文三の文学精神」掲載ページはこちらです ☛https://chikyuza.net/archives/125847
十 橋川文三と日本浪曼派
筑摩書房の『近代日本思想史講座』(全10巻・別巻1)の第一巻『歴史的概観』は1959年7月に刊行されたが、橋川文三は「第三篇 近代思想の窒息」の「第二章 昭和十年代の思想」の部分を分担している。この「昭和十年代の思想」の中で橋川は日本浪曼派の歴史的位置づけを次のように概括している。
――それ(=日本ロマン派、引用者注)は、背景的には満州事変の衝撃から生まれているが、その主要メンバーのすべては、いずれもマルクス主義運動の洗礼をうけたいわば最後の世代であった。かれらのいう民族的なるものの内容はたんなる古代・古典のいいではなかった。日本ロマン派の創立宣言である「日本ロマン派広告」(昭和九年)を見ても、そこには民族とか古典とかの字句は一つも見当たらず、むしろこの運動がすぐれて世代的なるものであり、マルクス主義敗退の飛沫を真向からあびたのちに「ロマン的自我」を再建しようとする試みであったことが明らかにうかがわれる。この運動が思想史上ユニークな位置を占めるのは、その中心メンバーとみられる保田与重郎にとくに明らかにみられるように、ひさしく埋もれていた国学的思想がこの時期に発現したということであろう。彼は、いわゆる「転向」について、それを「もっとも日本的なるもののひとつ」と呼んでいるが、このような解釈の基底には、たんなるオポチュニズムとことなる国学の論理がよこたわっていた。それは、本来的に主体的決断の意味を解消するものであったが、彼は、マルクス主義的実践の不可能に直面した地点において、その実践に含まれる弁証法的契機を国学的に換言したのである。それによって、ひとたび「政治主義」「公式主義」の「ポチ犬」(亀井勝一郎)にすぎなかった自我は、すべて与えられたるものの流れに不断に「共感しながら参加する」(カール・シュミット)ロマン主義的主体として再生する。しかも、その場合、共感の対象はあるいは日本帝国の侵略行為そのものであり、あるいはソヴィエト革命であることも、フランス革命であることもできたのである。マルクス主義における世界史の必然は、このようにしてロマン化され、ロマン的自我は任意の出来事に共感することができた。ともあれ、マルクス主義をくぐった保田らが、国学の論理をこれに結びつけたのは、一種奇妙に「天才的」な着想というべきであった。 (橋川文三「昭和十年代の思想」『近代日本思想史講座1 歴史的概観』筑摩書房)
この論文に示された日本浪曼派の思想史的位置づけは『日本浪曼派批判序説』に於いてはかくの如く圧縮される。
――私の考えでは、昭和の精神史を決定した基本的な体験の型として、まず共産主義・プロレタリア運動があり、次に、世代の順を追って「転向」の体験があり、最後に、日本浪曼派体験がある。このそれぞれの体験は、概して現在の五十代、四十代、三十代のそれぞれの精神的造型の根本様式となっており、相互の間に対応ないしは対偶の関係がある。この三者は、精神史的類型の立場からみれば、等価である。 (橋川文三『日本浪曼派批判序説』)
橋川文三が『批判序説』を書いていた頃、橋川の生活は困窮の極みにあった。生活費に充てるため蔵書はすべて売り払われて手元に彼の所有する書物は一冊も残っていなかった。丸山真男から借りたカール・シュミットの『政治的ロマン主義』を、これまた友人から借りたドイツ語辞書を繰って自分の研究のためにぽつぽつと訳しながら、『批判序説』の原稿を書いて、一高の同級生が始めた同人誌に発表したのである。橋川文三の蔵書は没後に寄贈され橋川文庫と名付けられて蔵書目録も作成されたが、蔵書目録には橋川の十代から三十代半ばまでに読んだ本についてのリストが、その後再購入したものを除いて全部欠けているのである。橋川の膨大な読書経験は、書かれたものからその片鱗を伺うしかない。橋川文三の文章は噛んで含めるような滑らかな印象があるため、気づきにくくなっているのだが、じつは膨大な学知と豊富な文学体験が支えになっている。
――私が保田のものにいかれた時期は正に私の未成年期であり、文字どおりドストエフスキーの『未成年』と、保田の「ウェルテルは何故死んだか」とは同じ昭和十六年の秋に私の読んだものであった。これは閉塞された時代の中で、「神というと大げさになるが、何かそういう絶対的なもの」を追求する過程での不吉な偶然であった!? (同『日本浪曼派批判序説』)
ここで保田の名と並べてドストエフスキーのことが語られている。両者が並べられた理由について橋川は、何かそういう絶対的なもの」を追求する過程での不吉な偶然とコメントする。これだけでも無限の連想を誘うに充分であるが、ここで語りたいのはそのことではない。ドストエフスキー全集は橋川の高等学校時代からの愛読書であり、ドストエフスキーを真正面から扱った作品が橋川には何篇かある。「絶対者の探求と政治」においてはドストエフスキーの名は北一輝と並べて論じられている。
十一 絶対者の自覚
人類は生物界の中でどのように位置づけられるのか。このような根本的な問題提起を北一輝はその処女作『国体論及び純正社会主義』の中で行っている。北によれば人類は類猿人の仲間ではない。人類は猿人と同類の生物種族に分類されるべきではなく、神類に向かって進化しつつある種族に属するのであって類神人と呼ばれるべきというビジョン、を北一輝はその『国体論』の生物進化論を論じる章において述べている。人類とは神人と類人猿の中間に立ち、神人へと進化を図る途上の生物であるというのが北一輝の社会主義学説の前提的仮説であった。
北一輝が類神人のビジョンを自身の精神の内から汲み取っているのは確かである。北一輝にとって自らは類神人のビジョンに叶う人物であった。この類神人の系列に分類される人間としては他に誰がいるのか。日本の思想史の伝統にその系譜を辿るならば、まず神話の中では日本武尊尊が起源であり、歴史的人物としては聖徳太子が発端にあげられるであろう。聖徳太子は絶対者の理念を抱いて日本史に出現した最初の人物である。丸山真男は聖徳太子について、その出現の意義を思想史的にかくのごとく位置づけている。
――十七条憲法は、何らかの特定の事件・出来事と直接結びついた、いわば機会的な産物ではなく、聖徳太子という卓越した思想家の手になる一個の「抽象的」な、それ自体として完結し、独立した作品であり、古代日本の持った最初の一般的政治学説と呼ぶに値する。
――十七条憲法に用いられているカテゴリーや観念を検討すると、かなり広汎に中国古典を広く素材として駆使していることが分かる。
――いま述べた儒教を中核とする諸々の大陸思想に有機的な統一を与えている思想的根底は、ここでは太子によって理解された世界宗教としての仏教である。そして思惟方法の基底に置かれた仏教の普遍主義的性格が高度に自覚されているために、いままでわれわれが検討してきた場合のように、「原型」のあちこちに異質的な論理が介入してくるというタームでは捉えられないような、むしろ、かえって「原型」とまったく断絶し非連続な精神によって全体の講座が支えられている。その意味で十七条憲法の基本精神は、その後の日本仏教史を貫いてその特色をなす「習合(シンクレティズム)の伝統からも顕著に浮き上がった例外の一つをなしているのである。一言にしていえば、この基底の精神は、自然と人間世界を超越した聖なるものとしての「絶対者の自覚」ということである。(『丸山真男講義録』第四冊 148頁~150頁)
丸山真男はクリスチャン南原繁の弟子であり、南原繁は内村鑑三の弟子であった。北一輝は内村鑑三の西郷隆盛論に感激し触発されて維新の第二革命のビジョンを形成している。そして橋川文三はエッセー「絶対者の探求と政治」においてドストエフスキーの「大審問官」とならべて北一輝を論じているのである。絶対者自覚の系譜を辿ってみた。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion13291:231010〕