ベオグラードとワルシャワの再私有化
バルカンのセルビア共和国の首都ベオグラードや中央ヨーロッパのポーランドの首都ワルシャワを訪ねるたびに、いやな光景を見ざるを得ず心が楽しまない。社会主義から資本主義への、共産党体制から自由民主主義諸党体制への転換をある意味で象徴する光景だ。
ベオグラードでは、社会主義時代に泊まったり、トルコ・コーヒーを楽しんだ古いホテルや古い喫茶店が閉鎖され、開店のあてがないまま大通りの一画を占めている。労働者自主管理企業体制が突然廃止され、社会有の企業資産が国有化され、つづいてすぐに私有化される。それだけであれば、個人営業であれ、株式会社であれ、営業を再開できるはずだ。ところが、ここで社会有・国有財産の私有化と並行して、旧所有者・元所有者、すなわち社会主義革命前の私的所有者への財産返還、Restitution,Restitucija(セルビア語)、Reprywatyzacja(再私有化、ポーランド語)のプロセスが重なる。
例えば、私有化プロセスで上記のホテルや喫茶店を個人資本家、あるいは従業員集団が国家から買い取ったり、借り受けたりして営業を続けていると、そこへ半世紀以上昔の持主、その子供、あるいは孫達が正当な所有権者として名乗り出る。かくして、新旧の所有者間で訴訟等の係争が勃発する。それが解決するまで誰もホテルや喫茶店を開けない。こんな淋しい光景をベオグラードの中心地、共和国広場の周りでも、旧中央停車場の周辺でも目にしてきた。
全く同じような事件がワルシャワの目抜き通り、マルシャウコフスカ大通りでも起こっている。その通りの40番地ぐらいの所に古い建物の一階で1990年代にアイスクリームを中心に商売している喫茶店があった。いつの間にか閉鎖され、その建物の通りに面した壁面出入口に多色のペンキで雑多な落書きがなされている。営業を邪魔し、不可能にするためだ。同じような醜悪な落書きはワルシャワ市中心の商店街の一画に十数メートルにわたって見ることが出来る。
静かに進行している新旧所有権争いもある。私が宿泊する建物の通りをはさんで、7階建ての大きな石造りアパート(カメニツァと呼ばれる)、おそらく90家族、数百人が生活していたと思われるが、一階の銀行オフィスと2軒の商店を除いて、この一年間に誰もいなくなった。その隣の大きなカメニツァはかなり前から無人。管理を任されている者の部屋に5階あたり、夜間に一つ灯火が見えるだけ。社会主義時代に国家から割当配分されて住みついたサラリーマンや労働者の家族は、古典的な石造りアパート、しかもワルシャワの中心から市電で5駅ほどの一等地に所在するカメニツァが旧所有者に返還された結果、市場の相場に従って、新家主から家賃を要求された場合、彼等の収入から支払える訳がない。退去せざるを得ない。これら二つのカメニツァだけで200家族に近いポーランド人勤労者がここ2年ほどで住み慣れた住居を離れざるを得なかったわけだ。
去年の11月、私=岩田は、このような財産(土地と家屋)の再私有化係争の発端となったクロノーヴァ通り6番地を訪ねてみた。1990年末、ポーランド第三共和国民選初代大統領となったワレサは、同番地の国有大邸宅を大統領公邸に選んだ。1991年のはじめ、住み始めたワレサ大統領を第二次大戦前の邸宅所有者の正統な相続者権である老齢の姉妹が訪ねて来て、共産党政権によって接収された家屋敷の返還を求めた。ワレサ大統領は国有化を不正・不当・不義であると認め、大統領公邸を彼女達に返還しただけでなく、返還=再私有化の必要性を世に訴えた。その際に、その隣のクロノーヴァ8番地の双子屋敷もまた旧所有者たちに返還された。6番地の邸宅は、旧所有者の正統な相続者によって再びポーランド国家に正当に売却され、現在は、国の宿泊施設に改造されて、立派に役立っている。それに対して、8番地の大邸宅は、再私有化されたものの、無人のままに管理され、正門はそれなりの形を保っているが裏口は荒れはてたままになっている。1990年代前半の再私有化から四半世紀、一等地のお屋敷の現状である。
ポーランド建築家による再私有化批判
私の手元にB5版より大きめ、290ページ余の書物がある。トマシ・フダラ編著『ワルシャワ復興争論 廃墟から再私有化まで』(ワルシャワ現代芸術博物館、2016年、Spór o odbudowę Warszawy Od gruzów do reprywatyzacji, pod redakcją Tomasza Fudali Muzeum Sztuki Nowoczesnej w Warszawie 2016)である。ポーランド統一労働者体制初代大統領ビェルトによるワルシャワ首都復活計画はワルシャワ市域の私有地全面的国有化に立脚した都市計画であったが故に、1989年体制転換以後、再私有化論者によって諸悪の根源とされる。本書は、共産主義者ビェルトの都市計画がモスクワ輸入のスターリン的都市計画ではなく、実は戦間期中欧の主要な建築家・都市計画デザイナーたちの直系の知的創造である事を証明して、今日の「野蛮な」再私有化の嵐を批判している。学術書であり、啓蒙書である。
本書の第1論文にワルシャワ・ヴオフィ地区の旧所有者へ返還された建物から追い立てられた居住者女性の生の証言が引用されている。紹介しよう。
――相続人は住居に侵入して来て、壁から電線を引きちぎり、洗面台を取り去り、トイレを閉鎖してしまった、「リフォーム」を行うと言って、ケーブルと一緒にシャンデリアを解体した。天井から廊下をしっくいでおおった。私の首根をつかんで、メガネをこわした。私はパトロール中の警察官を呼びました。お役人は彼の住宅所有権文書を見て、自分の家に居るのだから、好きなままにやることが出来ると言いました。――(p.33)
本書の第2論文の結論部分で再私有化のネガティヴな諸結果を指摘している。
――1989年の体制転換以降、戦前の所有者は、地所とその地上不動産の返還を請求できるようになった。それは不法不正行為の訂正試行であったが、その結果は、未払い補償金を支払わねばならないワルシャワ市の劇的な債務増であり、それまで住んでいた居住者達のカメニツァ(古典的な煉瓦造り集合住宅:岩田)からの追い立てであり、学校や幼稚園のような公共施設からの所在地剥奪であり、学校運動場や児童少年向け緑地の廃絶である。――(p.58)
セルビア再私有化担当長官の発言と反響
元所有者・旧所有者と一口に言っても、セルビアの正教会やポーランドのカトリック教会、あるいはチェコのハヴェル大統領のような大資本家もあれば、戦前の中小商店主もあろう。大中小の農村地主もあろう。再私有化のメリットに多と少の差があるだろうが、メリットである点に共通項がある。ところが、再私有化の義務を実際に担当する国家や地方公共団体にとっては、再私有化は重荷以外の何ものでもない。
国有企業の私有化一般、あるいは国営農場の私有化一般であれば、その私有化方法の工夫如何によって、例えば外国の戦略的投資家への大売り出し等によって国庫収入と公的収入の増大が期待できる。しかるに、再私有化となると、国公の収入は一切ない、支出増だけである。煩雑な再私有化手続きにかかる行政コスト、現物で返還出来ない場合の等価値不動産の発見コスト、最終的に金銭による補償責任の負担。更にまた、戦略的な投資家が国有企業を買収した場合に再私有化請求権が登場して惹き起こす国際問題の処理コスト。EU加盟の必須条件であると、ポーランド以外では観念されており、国家立法によって実行せざるを得ないし、実行してきた。
EU加盟を目指すセルビアの場合も同じ事情である。なるべく早く再私有化=旧所有者への資産返還を十分に行って、終了したと宣言したい。セルビア政府の資産返還庁長官ストラヒン・ヤクリチは日刊紙『ポリティカ』(2019年11月17日)に登場して、「返還終了が見えてきた」なるインタビューを行った。長いインタビューの一部のみ意訳・要約し紹介する。
――旧所有者への財産現物返還は3年半で完了するだろう。――
――事業スペース、建物、住宅、部屋(アパート)の95パーセントが旧所有者・相続権者の名義に戻される。農地は60パーセントが戻される。――
――金銭的・貨幣的な補償の場合、補償係数は未決定だが、債権で不動産価値の14~15パーセントになるだろう。1人当たりの天井は50万ユーロだ。――
――代替財産の提供は技術的に困難だ。――
――奪われた資産価値の総額を計算したものは誰もいない。――
――教会への返還は終了段階にある。大変複雑な案件で行政裁判と最高裁で審理中だ。「教会及び宗教団体への財産返還法」に従って実行している。6万136ヘクタールの土地(森林2万7550ヘクタール、農地3万2586ヘクタール)と建物9万2560平米だ。――
――ホロコースト犠牲者で相続人なきユダヤ人の財産をユダヤ人団体に返還する法律を制定した。ヨーロッパでかかる法律を有するのはセルビア唯一国である。これまでユダヤ人団体へ返還された額は1900万ユーロ。それに加えて、宗教団体への財産返還法に従って760万ユーロが。総額で6500万ユーロに達する見込みだ。――
――王宮の「白い宮殿」は国家的所有のままだ。但し、他の全市民が補償を受ける権利をもつように、カラジョルジェヴィチ王家全員も権利を有する。とはいえ、白い宮殿に存する財産はカラジョルジェヴィチ家だけのものでなく、他の裕福なベオグラードの家族から奪われたものもある。調査中だ。――
返還庁長官の発言に対して、早速、読者から反論が寄せられた。投書欄に三通載った。以下に要約・紹介する。
第1通(2019年11月21日)
――返還方法は不当だ。二人の兄弟がいる。兄へは現物で土地が返され、弟には金銭補償でだ。価値の15パーセントだという。第三者が合法的にそこに家屋を建ててしまっているからだ。不公平だ。
第2通(2019年11月28日)
――第1通の主張する通りだ。両方法の差。しかも「15パーセント」とははじめて明らかにされた数値だ。私の場合、親族は土地を現物で返還され、私の両親の土地にはすでに住宅が建てられていて、債券の形で15パーセントだ。国有化の不正不当を直すはずの返還なのに、ここでも不当が生れている。レスティトゥツィヤRestitucijaの目的は不正不義の是正であって、文明的義務を遂行している事を形式的に国際世論に顕示することではないはずだ。――
第3通(2019年12月2日)
――第二次大戦後、私の家族は、地所とそこに建つ1階に貸店舗6軒と2階に住宅4軒の建物を奪われた。ゼムンの大通りにあって、今日そこに「マドレニヤヌム」劇場(バルカン半島で唯一個人所有のオペラハウス:岩田)が建っている。2012年に返還申請を提出した。6年後に返還庁の決定が下った。母に属する地所半分は返されるが、祖母に属する他の半分は返さない、と。長官が語ったように、ある者には現物、即ち全額100パーセント、他の者には10~15パーセント。不公平だ。
こんな不公平は憲法裁判所行きだ。理由はおそらく全額補償はマクロ経済を不安定にするからだというのであろう。この国の市民全員が私たちから奪った財産を70年間使用し続けて来たのに。10月5日政変(2000年10月5日のミロシェヴィチ政権打倒)後、根本的誤謬が犯された。先ず始めにレスティトゥツィヤRestitucijaがなされるべきだったのに、プリヴァティザーツィヤPrivatizacijaが実行されてしまった。チェコスロヴァキアのヴァーツラフ・ハヴェル大統領は、共産主義打倒後先ずはじめに財産返還を命令した。セルビアのハヴェルは何処にか在らん。――(強調は岩田)
再私有化における欧州人権裁判所の役割
上述の三人はともにこんな不完全な形で返還プロセスを終了させる事に反対する。同様にセルビア正教会もまた返還庁長官に異議を申し立てる。日刊紙『ポリティカ』(2019年11月26日)の投書欄ではなく意見欄にセルビア共和国ヴォイヴォディナ自治州の正教会主教が正教会の立場を説明している。
――長官が教会財産の98パーセントが既に返還されたと語った事に一言したい。教会が有するデータは異なる。正教会資産が最も大量に没収された地域は、かつてのカルロヴァツ大主教管区、今日の行政区分ではバナト、バチカ、スレムである。オーストリー・ハンガリー帝国時代以来、正教徒によって信託された財産と相続人なくして亡くなった正教徒の財産は、国家ではなくて、教会によって管理され、国民的利益に用いられてきた。正教会が返還を求めている財産の多くはかかる遺産である。返還庁はそれらの正教会への返還を拒否している。正教会は、自国をストラスブールの国際法廷に訴えてこなかった。仮にそうしていたならば、訴訟に勝利して、不法に奪われた財産すべてを取り戻していた事であろう。更にまた、奪われた財産が数十年間使用された事やその間に毀損した事に対する未実現利益請求権や損害補償要求件が我が国に不在だ。数十年にわたる不正不義の是正は貫徹されるべきである。所有権の不可侵性に関する全社会的コンセンサスが宣明されるべきである。――(強調は岩田)
セルビアの場合、「教会および宗教団体の財産返還法」(2006年)と「奪われた財産と補償に関する法律」(2011年)があり、国家行政当局が責任を持って、旧所有者への財産返還を実行する。ポーランドの場合、国家全体を規制する再私有化に関する法律は不在である。旧所有者と相続権者、及び彼等から権利を買った者たちが行政裁判や普通裁判を通して、すなわち法廷闘争を通して国有化された旧資産を奪還する事になっている。その弊害があまりにひどくなったので、ワルシャワ市だけに通用する「小再私有化法」が2015年にやっと制定された。たしかに、返還・再私有化に起因する社会経済混乱は、ポーランドの方がセルビアよりひどいかもしれない。大同小異の差しかないだろうが。
両国に共通する難問は、国有財産の私有化一般と返還・再私有化の衝突であろう。この問題を考える上で参考になる材料が手元にある。ワルシャワの法律事務所「ワルディンスキと仲間達」Wardyński i Wspónicyが25年間にわたって再私有化訴訟にたずさわって直面した典型的諸事例11件を全11章に整理・出版した520ページ余の大著がそれである。その第11章「再私有化裁判当事者としての国有化された不動産の現所有者と永代賃借人」(pp.485-521)において、私有化プロセスにおいて国家から土地・家屋等の不動産を買ったり、社会主義由来の永代賃借権を更新した人々と旧所有権保持者との裁判上の権利差を議論する。この法律事務所は、自分たちが使用し、住んでいる土地・建物が旧所有者による司法的返還の対象となった場合、これらの人々は裁判の当事者となり得るとは認めない。当事者は、あくまで原告として旧財産の正統な相続権者と被告として国有財産を管理する国家と公共団体だけである。現行所有者や永代賃借人は、一件当たり何十人、何百人も存在するので、彼等が裁判に登場すると、裁判が不必要に長引き、肝腎の原告である元所有者の基本的人権(強調は岩田)が侵害される。しかるに、彼ら第三者の法益は、登記によって保証されている。
ここでストラスブールの欧州人権法廷設立の根拠となった、欧州人権条約(1950年11月4日)と欧州人権条約第一議定書(1952年3月20日)が原告の主張を強力に裏打ちする。前者の第六条「公正な裁判を受ける権利」と後者の第一条「財産の保護」が特筆される。本書は、欧州人権裁判所の法廷がポーランド人原告対ポーランド国家被告の再私有化に関する訴訟で下した判例を数件例示している。2008年、2009年、2010年の判決である。私=岩田が理解する限り、再私有化案件の当否の判断が下されているのではなく、ポーランド国内の再私有化裁判が14年とか17年とか長期化しているという事実が原告に均衡を超えた負担を強いており、基本的人権侵害に相当し、それに対してポーランド国家は補償を支払うべしとの判決のようである。
かかる国際司法的圧力が繰り返しかかると、ポーランド国家にせよワルシャワ市にせよ、土地・家屋・集合住宅の現行所有者や現行使用者である圧倒的多数者の要望をはねのけて、少数派の旧所有権者の要求を受け入れざるを得ない。
このような国際司法の現実をよく知っているから、セルビア正教会の主教は、返還庁長官に対して、「早く返せ、さもないとストラスブールへ訴えるぞ。」と脅しをかけることができたわけだ。
令和2年2月7日(金)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座https://chikyuza.net/
〔opinion9477:200222〕