「皇紀2676年」

著者: 宇波彰 : 明治学院大学名誉教授
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このブログに載せた「扶余の記憶」で、私は戦時中に朝鮮の扶余(プヨ、百済の最後の都のあったところ)に、「扶余神宮」建設の計画があったが実現はされなかったと書いた。しかし、その後数冊の文献に当たってみると、作られたという説、建物はできたが、天照大神・明治天皇の「鎮座」はなかったという説など、諸説があることがわかった。ということは、扶余神宮について関心を持つ人が少ないということかもしれない。 肝心なことは、朝鮮の人々に日本の神・天皇への礼拝を強要したことである。その強要によって、当時の日本の統治者が「内鮮一体」ができると思っていたとすれば、それはまったくの誤りである。一体化とか同一化は、簡単にできるものではない。ハンナ・アーレントの『全体主義の起源』を読むと、近代ドイツでは、「同化ユダヤ人」が大きな問題であったことがわかる。同化ユダヤ人とは、ドイツ人と「同化」したとされるユダヤ人のことであり、「東方ユダヤ人」と区別される。しかし、「同化ユダヤ人」は、ドイツ人になることはできず、強制収容所へ送られたのである。朝鮮の人々に日本の神・天皇を礼拝することを強制して「内鮮一体」が実現されると誰が考えたのであろうか。
しかし扶余神宮の問題は、当時の日本の統治者たちが「神社」を重視していたことを示すものである。つまり、日常生活のなかでの「神社」の役割を考えていたということである。われわれは日常生活でもまだ「神社」と関係がある。建物を建てるときには神主に「お払い」を依頼するし、結婚式は「神式」が多い。
2016年3月に私は静岡県三島市にある「三嶋大社」を訪れた。この神社の祭神は、金達寿の『日本の中の朝鮮文化7』(講談社、1983)によると、もともとは百済から「渡来」した神だという(p.22)。この神社にはすでに何回も行ったことがあるが、頼朝が旗揚げした場所だという記念碑、若山牧水の歌碑があることに初めて気付いた。牧水はこのあたりが好きだったらしく、先日早咲きの桜を見に行った伊豆の土肥にも牧水の銅像があった。
三嶋大社の桜も満開で、見頃だった。この神社で「お明神さま」という小冊子の21号をもらって来て読んでみると、今年の2月11日に「紀元祭を行い、橿原神宮を遙拝した」と記してある。橿原神宮は神武天皇を祭神とする神宮である。一昨年訪れたが、その本殿の入り口に「皇紀2674年」という大きな看板があった。「皇紀」とは、神武天皇即位の年を紀元元年とする年の数え方である。私は山梨県石和の小さな神社でも、同じ「皇紀何年」という表示を見たことがある。日本の神社では「皇紀」を使うのが日常かもしれない。また、東京都内の真言宗豊山派のあるお寺でもらった『豊山宝暦』には、「西紀2016年、皇紀2676年、仏誕2479年」と並記してある。日常生活にもまだまだ「天皇制的なもの」が根付いているのだ。(2016年4月11日)

初出:「宇波彰現代哲学研究所」2016.04.11より許可を得て転載

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〔study727:160412〕