その背景:空爆を受けたゲルニカ
ゲルニカはスペインのバスク地方にある小都市。
スペイン戦争の真っ只中だった1937年4月26日、ゲルニカはドイツとイタリアの戦闘機による大規模な爆撃を受けた。 1936年から続いていたスペイン戦争が膠着状態にあったため、反乱軍のフランコ将軍はスペイン北部の工業地帯・バスク地方へ侵攻することで戦局を転換させることを狙い、ドイツ空軍に爆撃を要請したのだった。
この爆撃で市街地の25%が破壊され、70%が炎上した。 [荒井信一著『空爆の歴史』]
写真:爆撃の後、廃墟と化したゲルニカの街
[ソース:ゲルニカ爆撃資料センター ゲルニカ平和博物館財団 (Centro de Documentación sobre el Bombardeo de Guernica. Fundación Museo de La Paz de Guernika)]
《ゲルニカ 空爆による犠牲者》
ゲルニカに反乱軍が侵入した後、国勢調査の人口登録は消えたが、ゲルニカの住民5千人の約3分の1が空爆のため死亡したと推定されている。
しかし、バスク政府の報告書 ”1937年4月の空爆による死傷者のリスト”、1937年5月4日のヘスス・マリア・デ・レイサオラ [Jesus M. Leiazola-スペインの政治家。1960年、亡命バスク政府の大統領に就任] によるEuskadiラジオでの発表、1937年の様々な原文書に記録されていた50人の直接証言、後のその他の証言を含めた、現在入手可能な資料に基づくと、死者数は計1654人、負傷者は計889人となる。
《瓦礫の山》
空爆が産み出した60,000立方メートルを超える瓦礫は、1941年末まで町の中心部から撤去されなかったため、正確な死傷者の総数を知ることは難しいという。
《ピカソのゲルニカ》
この残虐な爆撃に反応して、ピカソは、たった一人で彼のアトリエに閉じこもり、長時間、作品の制作に打ち込んで自分の憤りを発散させ”ゲルニカ(絵画)”を創作した。これが、主要な政治的声明を含んだ優れた芸術作品であり、後には反戦や抵抗のシンボルとなったピカソの”ゲルニカ”の誕生となった。 ピカソ作 ゲルニカ [マドリードのソフィア王妃芸術センターに展示されている]
ゲルニカとガザ
今日のガザと同じように、ゲルニカは瓦礫の山で覆われ、罪のない人々の亡骸が、破壊された廃墟の中に埋もれていたのだった。
そしてガザでは、意図的に、病院、救急車、モスク、教会、学校が狙われ、情け容赦なく襲撃されている。
ガザと連帯したゲルニカ市民の抗議
2023年12月10日、ゲルニカでは、 スペイン内戦中にナチスとファシスト軍によって爆撃されたのと同じ市場広場で、 空襲警報のサイレンが鳴り響き、、パレスチナの旗が抗議参加者によって掲げられた。ゲルニカの人々は、過去にあった苦しみの歴史を忘れることなく、ガザの人々にエンパシーを抱き、彼らと連帯する意味で行動したのだった。
ゲルニカの人々が集った市場広場を空撮した映像には、モザイク模様で描かれた巨大なパレスチナの旗と、ピカソが描いたゲルニカの子どもを抱いた母親が天に向かって泣き叫ぶ姿があった。
なお、下のリンクをクリックしていただくと、空襲警報を鳴らすゲルニカ市民の抗議の様子をごらんになることができる:https://www.youtube.com/watch?v=kb5Sk-GYLp0
子の屍を抱く母親(左端) Ciberprofe – 投稿者自身による著作物 CC 表示 – 継承 4.0
以上
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参考にした記事・資料:
Historia – National Geographic
https://www.counterpunch.org/2023/12/25/from-guernica-to-gaza/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔culture1271:231231〕