すでに問題が出され始める
「有機農業」は現在ではあちこちで実行されているが、その一つひとつが人間と自然との関わりを示す縮図となっている。縮図はただ寸法を縮めたものではない。それは広く深く伸びる内容をもっている。そのことを私どもは会誌から知ることができる。(有機農業と言う言葉を使ったが、三芳では自然農法と言う。それは有畜複合経営で動物性有機質の肥料を得ることでなく、主として不耕起で山の草木の育ち方を畑に再現しようとする。)
およそ運動集団で問題のないものはない。「作って食べる」会でもそうである。また運動団体であれば、必ずと言ってよいほど変化し、進化あるいは変質をする。本会もそうである。ただ本会は他の会と少し異なる点がある。それは問題発生と変化をできうる限り会誌で明らかにし、会員の間で考える材料にしていることである。
どういう問題か。次の第3号を先取りして参照するとこうであったようだ。菅洋子と椿紀子が連名で「運営委員の1年を終えて」を書いている。それによると、会員の間に3つの考えがある。A:「自然の法」を人間の生き方の道徳的な原理とする者。B:自然の法の技術を使って良いものを作って食べたいとする者。これが圧倒的多数である。C:Bの人々を組織して横に拡大しようとする者。この3者は実際には混じり合う部分があるが、AとCとの間でかみ合う議論が必要だと指摘されている。それを聞くと、これはどこの会でも経験する普遍的な問題だと感じる。私はこの整理を参考にしながら、以降の号で、3者の区別と関連を読みとっていこうと思う。
会誌の体裁ができつつある
本号は創刊号と同じく手書きの会報。本文は全40頁に増えている。本号から表紙とは別に目次と定期総会の進行次第、編集後記の頁がつく。表紙には誰が描いたのか、シイタケのカットが入る。本文中にも小松菜のスケッチが入る。会誌としての体裁が整っていきつつある。発行日は昭和51年3月30日。事務局は武蔵野市。事務局が現在の西東京市(前田無市)に置かれるようになるのは本号の2年後のことである。
終りの方で39名の生産者名簿と各自の経営の概略表が付く。それを見ると、田は2人をのぞいて全員が耕作し、最高面積は170アール、最低面積は20アール、平均52アール。畑は3人をのぞいて全員が耕作し、最高は70アール、最低は10アール、平均は32アール。三芳が中山間地のためであろうか、田畑とも当時の全国平均の半分ほどである。みかん畑は21戸が経営し、最高は120アール、最低は5アール、平均は52アール。鶏は31戸が飼育し、最高は600羽、最低は2羽、平均は177羽。飼育にあたって一戸当たり50羽のめやすを決めていたから、これは多めである。それでも一般のケージ飼いにくらべたら断然小規模である。
自然農業への転換は小規模の家族経営によってなされたことに注意したい。。
露木裕喜夫の生命科学の思想
どこの団体でもリーダーがいる。本会の場合、生産者側では露木裕喜夫や和田博之など、消費者側としては戸谷委代など。また精神的支援者としては外部に一楽照雄などがいた。本号では冒頭で露木が「どうしてもお伝えしておきたいこと」という文章(文責・戸谷委代)を寄せている。そこで彼が岡田米雄を批判するのだが、それを見ると露木の考えがうかがえる。
露木については第8号の和田の報告をも参照すると、彼は最初、沼津で農業改良普及所の所長をしていた。それが有機燐製剤の驚くべき殺虫力の安全性に疑問をもち、それを農家に勧めることを止めようと働きかける。それは体制に反抗することであった。だから周囲から敬遠される。この種のことは露木の場合に限らず他にもあり、たとえば農協の組織の中で慣行農法に疑問をもった者は窓際にまわされていた。露木は結構な退職金を棒に振って退職し、世界救世教の自然農法普及会で活動する。彼はやがてそこを出されることになるのだが、このように以前から宗教界の1部では有機農業に関心をもっていた。宗教と言うと、日本では特に戦後に「科学」教育が進められてからは、どこか胡散臭いものと思われがちである。露木の自然農業は大変に道徳的であり、農本主義的な匂いもするから、客観性とは無縁のように見られるかもしれないが、彼は同時の科学的で自然の事実が示すことに忠実であった。この宗教性と科学性が共存する点に注意が必要である。
さて露木は岡田を批判する。岡田は日本において農業を経済的に成り立せることに貢献した人である。また彼は消費者が自身で農場を作るように活動した人である。露木はその点を評価する。それでも露木からすると――私は岡田の言い分を吟味しないままに露木の見方のみを出すから、公平ではない。そのことをあらかじめ断っておく――、岡田は自分が提供する牛乳を安全な食べものを求める親の願いを利用して買わせていると映る。それに対して露木は自分の提唱する自然農法を純粋に実行しようと考える。自然農法はただ化学肥料や農薬を使わない農法や技術のことでないと説く。そうは言うっても、戸谷が言い添えているように、自然農法を農法として受け取ることすら、「科学」農法が唯一のものであったから、当時では大変なことであった。露木の言う自然農法とは何か。それはわれわれが「自然」と聞いてイメージすることとかなり違う。
まず、①自然農法と言っても「肥料っ気の全くないところに作物は育ちっこないのは当然である」。最初、生産者の中には自然と聞いて放任農業と考え違いをして、まったく手をかけないことがあった。この肥料とは落ち葉等が枯れて微生物によって分解され、その微生物と作物の根との間で物質をやり取りすることを示すのであるが、露木は自然農法をするには「ホルモン・微量栄養素・電気イオン・元素転換まで含めて」自然が行なっていることを理解せねばならないと言う。それは「生命科学」の知識に基づくのである。彼には『自然農法20年』(1973年9月)ほかの著作があるので、詳しくはそれらを読まねばならない。
②彼は安全な物を安く沢山作ればよいとは考えない。当時すでにデパートには安全食品のコーナーができていた。資本はいつでも情勢に対して柔軟で弾力的である。消費者はお金さえ出せば、安全と称する商品を入手できるようになっていた。それであるならば、消費者も生産者もこれまでの市場にとらわれた立場から一歩も抜け出ていないであろう。自然農法とは「明言すると、生活全体を生命の秩序・生命安全を確保する、生命の仕組みに切りかえてしまうこと」だと言う。これは直観的な言い方であるが、それの一つひとつの環の仕組みについては、後の号で紹介されることに待とう。露木自身は自身の生活でそのことに近づけていたようである。それに彼は何と言っても、戸谷が伝えているように「一本一草実によくその名前を御存知」の人であった。
生産者の和田も露木と同じ考えをもつ。自然農法とは自然に対して人間の都合からの「注文農法」でなく、自然に生かされているその「仕組みに従う」ことだ、と。これも直観的な表現であるが、そのもっと具体的な実践についてはこれも後の号での紹介を待とう。彼はよくあることだが有機質肥料をたくさん入れた「水ぶくれ」野菜を排除している。形も色も悪いが、自然農法のミカンは「有機質肥料で手入れした見栄えのいいミカンより濃密」な味がするのである。この点は他の者も認めている。
露木の考えは、以上のことで推測できるように、厳格である。一般農法を有機農業に転換すると、最低2,3年は従来の収量を下回る。経営は苦しくなる。また急に農法を変えることは技術的に難しいから、まずは低農薬・化学肥料で始めることが勧められる。露木はそういうクッションを置かずに最初から無農薬・無化学肥料で栽培し、しかも自然の仕組みをきちんとわきまえて農業をするように指導する。つまり自然農法に入るにさいして、ボタンの掛け違いを許さないのである。これでは指導される生産者側は大変であったと思われる。
戸谷は続けて露木の考えを紹介する。「生活全体の根本的なたてかえ」がなければならない、人間の方が変わらないといけない、と。消費と生活の仕方の変革が求められる。彼は農産物は「必要なものを必要な時に必要なだけ」摂るべきであると説く。これだけを聞くと、経営学を多少とも学んだ者ならば、当時のトヨタ自動車工場でのかんばん方式と小売業界でのジャスト・イン・タイムを連想するだろう。だが露木の言うことはそれらとはまったく違う。先の号でこの会の3原則を知ったことからも分かるように、俗に言う旬のものを味わうこととも違うものがある。彼はまたこうも言う。人間の方での生産と生活の在り方を変えないと、自然の仕組みに「感動の目を向けること」はできない、と。私はそうか!と思う。外の対象を見る眼はこちらの内部が変わらないと変わらないというのである。言われれば、そう通りだなとうなずいてしまう。
露木の次の言葉も含蓄がある。「土の上に現れた形――葉・茎――は目に見えない土の中の履歴を証明する」。雑草も土の改良の進み具合を示し、肥料になるから排除すべきでない、と。そう言えば、アメリカ先住民の間で行なわれていた「雑草」を生かす農法について書かれた本があった。
次のような注意は露木の経験に基づく配慮である。自然農法は労多くて報いが少ないから、家族の、とくに妻の理解が必要になる。だから講習会には妻との同伴を勧める。これは他の指導者でもおなじことを言っている。
戸谷が紹介の最後で「自然順応の生き方をすることにより益々自立と自律の思想を強固」にしていくと言う。かつては農業は天候に左右されるから、自然に逆らえないことを知り、それが権力に弱く進取的な行動に出ない農民性を作ったと見られてきた。農民は自然に埋もれ、自立しないと言われてきた。だがこの自然農業は反対に生産者・消費者の自覚と自律を促すと言うのであれば、新たな「自然への従属」は「新たな近代的自我」を成立させるとみてよい。東洋といえば、自然受容、西洋といえば、自然対立と、単純化することはこの事態に対して正確ではない。
「子供に自然を、老人に働く場を」
一楽照雄は1971年に有機農業研究会を起こした人たちの1人。彼は「提携」――生産者と消費者がそれぞれ生産と生活の改革をしながらお互いの「立場」を理解して有機的な仕組みを作ろうというもの――を勧めていた。「提携」については後の特集号で改めて取りあげるが、それは人間関係にお金が入り、物が売り買いになって何円に価するかが利害関心になるとだめになるもの。(「価する」ということでマルクス経済学を学んだ者であれば、マルクスは商品論で何を言っていたかを思い起こしてよい。)一楽の言葉が碑になって残されている。その碑は山形県高畠町の民俗資料記念館の前にある。「子供に自然を 老人に働く場を」。その自然が今度の原発事故で汚され、福島の子らはそこに自由に入ることができないでいる。
「地球の使い捨て」
槌田は京都を中心として「使い捨て時代を考える会」を組織して活動していた人。彼は豊かさ――2台めのテレビとしてポータブルが宣伝されていること――に疑問をもつ。そんなことは「変わった意見、考えすぎる極論」と相手にされない時であった。時代の風潮を表すものとして「アパートからマイカーに乗って銭湯へ」という川柳もどきの評言があった。実にアンバランスな豊かさの状況であった。後にそれの延長としてコンビニが出てくる。(コンブニで思い出したが、社会思想史の研究者にこういうことを言う人がいた。昔、アダム・スミスは『国富論』で富は便宜品だと論じていたが、今日のコンビニはそのスミスの考えの延長にある。これは事実としても歴史感覚としてもまったくトンチンカンなのであるが、私は同じ研究者として顔が赤くなる。)槌田は1973年の石油ショックを経験して文明生活が「根拠のない浮草にしかすぎない」ことを知る。湾岸諸国がカルテルを結んで石油の値段を一挙にあげることから、消費者はエネルギー不足で物不足になると思い、スーパーに殺到する。行くと洗剤がない、砂糖がない、塩がない、トイレットペーパーがない。それらはメーカーの倉庫にあったのだが。私もその騒ぎに巻き込まれ、仕方なく行列に並ばねばならなかった。店の前の行列は当時の社会主義圏だけに特有の光景でなかったのである。そこで槌田は使い捨てを止めて古紙を回収したり、石鹸を利用したり、山岸会の亀井正子からこうじ作りを学んで味噌を自分で作ったりする。彼はその中で成果をあせらずに「待つ喜び」を大切にすることを学ぶ。そして小さなことからであるが、「地球の使い捨て」状況をストップさせようとする。周りからすれば、なんとも風変わりであった。後から見れば、変人だと見る者の方が考えなしで、現状に埋没していたのである。今ではどこでもコピーするときには紙の裏表を印刷しましょうとくらいは言っている!それは後知恵であって、当時の状況では槌田の実践をまともに評価するには多少の勇気が必要であった。生産者についてい言えば、戸谷が述べているように、一般の農業者は模範的な精農ほど既成観念にとらわれていたから、彼らには自然農法は伝わらない。
槌田は有機農業は生産者と消費者がお互いに他に対して責任をもつべきと考え、双方の出資で株式会社を作る。もちろん一般の営利会社とは違う。そこで供給センターを作り、専従を6名にし、会員自身が6台のトラックを運転する。生産者会員は20名超、消費者会員は京都・滋賀・阪神にわたって5―10名単位の班を作る。そこに週1回配送。ここにも「作って食べる会」とは別の提携組織ができる。
消費者だって動く
「三芳村から」のコーナーがある。そこで消費者は生産者の苦労を知る。安田誠が失敗したトマト作りのこと。箕浦みち子が巻いてもまいても収穫できない野菜のこと。君塚茂が野菜が大変な寒波のために生育が遅れているということ。八代利之が三芳でおととし基盤整備が行なわれて道路は拡幅され、耕地は1枚30アール区画に整理されたと述べること――三芳にも行政による近代化の波が来ていた。
ちょっと寄り道。自然農法にすることで変わったことは沢山あるが、生産者の樋口守が書いていること。雄鶏の鳴き声が復活する。まだ暗いうちに鳴くのが1番鶏、2番鶏は空が白むころに鳴く。3番鶏は太陽が出るころかに鳴く。私は子供時代に山奥の祖父母の家で聞いたことを覚えている。2000年代には韓国の農村でも聞いた。
消費者は生産者の苦労を知って動く。「農家に協力を求めておいて、ハシゴをはずすようなことをしてはならない」のである。消費者は自発的に1人1万円を出して生産者に無利息融資の農業其金を作る、あるいは農業教室を開いて自己啓発をする、実験農場の準備をしたり自ら農場を作るなど。
最後に、消費者の生産者との間のギャップ
高松修が三芳の生産者を訪ねて報告している――高松は「たまごの会」の消費者自給農場として八郷農場を開く。彼ら消費者は農家に対して加害者意識が強く、農家に安全なものを作ってくれとは頼めなかったと言う。また既成の農民と組むことも生活の仕方のギャップが大きすぎるのでできない。だから自らやってみることにしたのである。有畜複合経営で。こういう彼からすると、食べる会の消費者は「生産者とのギャップが大変大きい」と映る。自分たち都市の工業文明の価値観を温存したままで生活革命を1つひとつ実行していくことなしに、安全な食べ物を求めるのでは「手前勝手」でないかと感じる。
このことについて、やがて「作って食べる会」でもつきつめた議論が出てくる。両者の間ではたして立場交換はできるか。かえって両者の間の距離は拡がっていないか。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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