(発行「安藤昌益と千住宿の関係を調べる会」、2011年)
ひごろ考え主張していることが根本的に自分の具体的な生き方に如何につながっているのか。それを如何に支えているのか。本書はこう問いかける。
厳しい問いある。しかし、問われていることをつきつめた最深部で、真実に安らぎを覚える問いである。
著者・鈴木正は1928年生まれである。今年83歳になる。33歳のとき(1961年)、鈴木正は『日本の合理論』を出した。E・H・ノーマンのいう「忘れられた思想家」安藤昌益(あんどう・しょうえき。生年1707年?~没年未詳)と安藤を発見した狩野亨吉(かのう・こうきち。1865~1942年)の二人に鈴木正が出会った思想的出来事を記した。
それから50年、鈴木正は、狩野亨吉と安藤昌益についてときおり求められて書いてきた、結晶のように輝く短文12本を3つの部に編んで、この書を出した。
鈴木正は名古屋経済大学に努め、その副学長の職にもあった。いまその名誉教授であり、評議員である。その鈴木正が「在野の思想家」、狩野亨吉・安藤昌益から生き方そのものを学ばなければと思い、長くその職にあってその思いをいだいていた。その思いの出発点ともいえる出来事を本書の或る個所(5~6頁)に書いてあるので読んでほしい。
狩野亨吉は1906年、京都帝国大学文科大学初代学長になる。しかしつぎの年、1907年に辞める。「無位のただびと」になり庶民のなかに住む。「あることから降りる、あることを捨てる、あることから離れる」(本書45頁)、そのように生きる。狩野亨吉は、アジア太平洋戦争のさなか1942年の年末(12月22日)、誰に看取られることもなく病死した。
狩野亨吉は安倍能成(あべ・よししげ。1883~1966年)が編集した『狩野亨吉遺文集』(1958年)に集成されるものを残したが、生前に一書も出さなかった。ただひたすら読書の人であった。生活の糧と猛烈な書籍収集の資金のために、「明鑑社」の看板のもと鑑定の職に携わったという。収集した文献資料から安藤昌益を発見した(1899年=明治32年の頃)。安藤昌益の名は、狩野亨吉が匿名で或る雑誌に1908年(明治41年)に紹介して初めて知られるようになった。
三木清たちと一緒に岩波新書を創刊した小林勇は「狩野先生の本領は目利きにある」とのべたという。安藤昌益を発見し、秋田師範卒業の内藤湖南を大学教員に採用したのも狩野亨吉の直観的判断力の鋭さである。「あらゆる学問は鑑定であるという彼の学問観には事実から原理を照射して、既成の権威と公認の真理を否定し、すべてを実証的に吟味しようとする骨太い批評精神があふれている」と鈴木正はいう(7~8頁)。権威・通説を打破する狩野享吉の物静かな力量が世俗的価値を捨てさせたのであろうか。実証とは、やたら事実を網羅することではない。諸々の事実を渉猟するさなか、ある瞬時に働く直観が照らす文脈に姿が浮かぶ事実のみを集めるのである。日本語学の大野晋はこの事態を「求める事実が向こうからやってくる」と表現した。狩野享吉にもこの直観が働いていたであろう。
狩野亨吉が発見した安藤昌益は、江戸時代中期の東北(秋田・青森)の町医者である。『自然真営道』・『統道真伝』などの著書・遺稿がある。「互性」と「直耕」に生きることこそが人間の道であることを説き、封建体制を批判した。
安藤昌益のいう「互性」とは、鈴木正によれば、「昌益の思想体系全体を開く鍵である。互いに対立しながら依存しあう二つの要素が、相手の性質を内につつみもっていて《性を互いにする》ことである。それは天と地、生と死、善と悪など進退して運動する二つの側面であらわされる」(71~72頁)。
「直耕」とは「みずから耕す労働のことである。他人の労働の成果を奪って、むさぼりくらう寄生的な存在とは根本的に対立する人間存在の正しいあり方である」(73頁)。
互い本性上異なりながら補完しあって存在し運動する世界に、労働でもって自然に働きかけ生活の糧を獲得するのが人間であるという。ここに、鈴木正がイヤというほど経験した伝統マルクス主義とは異なる、マルクスの古代ギリシャ自然哲学研究(1841年)や「完成した自然主義=人間主義」(『経済学・哲学草稿』1844年)に通底する思想がないだろうか。鈴木正は久野収に『日本の合理論』について「マルクスに近づけて[安藤昌益を]解釈していると指摘された」(4頁)ことを省みているが、久野のその批評の基準となったマルクスは伝統マルクス主義ではなかろうか。
鈴木正が安藤昌益の思想的到達点として紹介する「土活真」とは「自然がすべてのものをつくりだす根源で、人間を大地の一部とみる唯物論の立場である」(73頁)という。そうであれば、安藤昌益の思想はますますマルクスのオリジナルな思想につながる。もともと、マルクスの唯物論(Materialismus)とは、レーニンが力説した反映論ではなくて、materia=hylē (質料因)こそが、万物を生成する根源とみる観点である。精神労働(指揮命令する労働=形相因eidos)でなくて肉体労働(指揮命令されて行う労働=質料因)が、人間でなくて自然が、根源的な生成原因であるとみる観点である。質料因(資本主義では賃労働)は、いつの日か、自己から分離され自己を指揮する形相因(資本)を止揚させて、直接に再結合し復活するという世界観である。「唯物論」という訳語も再検討を要する。筆者(内田弘)は「質料根源論」と呼ぶ。レーニンの反映論は、後発近代化をめざす少数の知識人エリートがつくる党こそが絶対的真理を体現する世界認識装置であるというイデオロギーを哲学的に表現したものであろう。
しかし、いまここはマルクス論の場・時ではない。さらに鈴木正に聴こう。
長く教育の現場にいた鈴木正は狩野亨吉に「エリート教育否定」を見る(5~10頁)。その文脈で鈴木正は「教育とは本来、先輩がみずから信ずるところを語り、それを後輩が真理として受けとる関係性の上になりたつ」と指摘する(35頁)。基本的にそうであろう。しかし、先輩は後輩に常に必ず真理を語るだろうか。
《預言を説くヨハネは自分の周囲に集まる民衆のなかにイエスがいることに気づかなかった》という喩えがある。教える者は《自分は何時の日か必ず教え子の誰かに乗り越えられる》という覚悟が必要である。教える者は、まず学ぶ者である。《私のまねをするな、通説に追従するな、自分の考えを磨け》。自ら学ぶ者として学ぶ者をこのように励ますことこそが、教えるいとなみの醍醐味でなければならない。師を乗り越える教え子は、自惚れる者ではありえない。師を乗り越えることによっても、師に無限に近づくことしかできないのだ、という痛切な思いを抱く者である。ここにこそ、教える者(学ぶ者)と学ぶ者に「信」が成立する。「信」は「二つの学ぶ者」の「平常底」に立脚する。この「信」で結ばれることが教える者(学ぶ者)と教わる者(学ぶ者)の「互性」である。この「互性」こそが、人類を少しずつ前進させる原動力である。その力は教育機関だけに働くものではない。家庭・地域・職場・街など、人間が生きる現場のどこにも働いている。
内藤朝雄が『いじめの構造』(講談社現代新書、2009年)で指摘するように、教えるとは、教育指導の名のもとにする教員の生徒・学生の人格支配ではあってはならない。互いに信じてはいないが群生することで集団利益の分け前がもらえるから群がる生徒たちを放置することではない。まして教員集団がその種の利益集団になることで、成立することはない。
鈴木正は、いまからほぼ25年前の1986年に公表した短文「狩野亨吉 破格の精神をもった逸民」で、つぎのように書いている(14~15頁)。「互性」の危機のことである。
「いまわれわれが生きている先進文明社会では、生活と文化の領域のすみずみまで、人間の開発した技術を駆使して物のように人間を管理するシステムが網の目のようにはびこっている。・・・規格にはまった生活のパターンから解放される道は、大なり小なり恩恵や特権を静かに捨てる離脱の方向しかなさそうである。今後人びとはいくところまでいき、障害にぶつかってみて余儀なく転換するのではなかろうか。・・・いまでは・・・豊かさと快適さを失うことを恐れて精神の尊厳を手放しつつある」。
鈴木正の予見は不幸にも的中した。わたしたちは《3・11》という天災と人災の巨大な「障害」にぶつかった。生きるために何が大切なのかが根源的に問われている。その今、《安藤昌益→狩野亨吉→鈴木正という水脈》が身近に流れているのである。(以上)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0642 :111010〕