「裏工作」は「謀略」にあらず??―W.モンゴメリー(元アメリカ大使)の談話

ベオグラードの週刊誌ペチャト(11月5日)に前駐ベオグラード(2000-2004年)アメリカ大使ウィリアム・モンゴメリーとのインタビューが6ページにわたって載っていた。見出しは、「如何にアメリカはセルビア『民主主義』のために戦ったか」である。重要なところのみを要約紹介しよう。

NATO空爆のゆえに両国間の国交が断絶していた時期の2000年6月、ブタペストに対セルビア・アメリカ事務所が開設されたが…。

―その後、あらゆる予測がミロシェヴィチ政権の長期存続を示していた。私は、3年間の予定で仕事を始めた。その仕事は、民主的反対派、独立知識人、市民社会的活動、独立メディアとのコンタクトであった。コンセプトは、これら諸活動を調整するセンターを立ち上げることであった。ところが、ミロシェヴィチが予定外の選挙(岩田註:セルビアとモンテネグロから成る新ユーゴスラヴィア大統領の)を公示したので、ただちに反対派を支援して、ミロシェヴィチ打倒に全力を傾けた。

DOS、つまり「セルビア民主的反対派」の創設に参加していたか。

―DOS形成時は駐クロアチア大使だったので参加していない。アメリカ政府の別の人物が関与していた。私の心配事は、反対派内に対立、不一致があることだった。私たちは団結を訴えてヴゥク・ドラシコヴィチを除いて、諸反対派のリーダーが一致してくれた。大統領候補には、ヴォイスラフ・コシトゥニツァが選ばれた。「西側とのコネクションで汚れていない」人物だからだ。これが勝利の鍵だ。ゾラン・ジンジチ(勝利後、首相になる)にはつらいことだった。

アメリカが反対派、つまりオトポル「抵抗」や諸メディアに当時投下した資金は、あなた自身が処々で公然と語ったところによれば、1億ドル以上とのことだが。

―ミロシェヴィチ打倒がアメリカの主要な外交目的であって、金額は大した問題ではない。もっとも、私たちが様々なパイプを通して保証した金が目的通りに使われたわけではないということは、絶対に確かだ。ベオグラードに大使館がなかったのでコントロールできなかった。アメリカ政府は、様々の代理組織をもっており、しばしばNGOを活用した。それらのプログラムを承認した場合、金を出した。実際の支払いはそこで行われる。

ゾラン・ジンジチとあなたのブタペスト事務所をセルビア民主主義の心臓に向けられたナイフとよんだヴォイスラフ・コシトゥニツァの評価は?ジンジチは友人だと書いているが…。

―コシトゥニツァは、法の支配と法的手続きを熱烈に主張していた。彼と最初に合った時、ユーゴスラヴィア憲法、国連安保理決議1244、そしてデイトン和平協定、これらが三つのバイブルだと私に語った。彼に答えて私は、「悪い憲法だ。ミロシェヴィチが書いたものだ。変えるべきだ。もっとも変えられるまではその手続きに従うべきだが」と彼に言った。

ジンジチはコシトゥニツァと違って、極端にラディカルな変革をするつもりだった。それが、実行されたならば、大変なカオス、犠牲・・・。あるいは、より早い民主化か。

岩田評。1999年、78日間の大空爆をやってもミロシェヴィチ政権は倒れなかった。そこでブタペストからの遠隔操作をするとミロシェヴィチ政権を打倒することができた。これは古代中国の兵書の教える所とは順序が逆である。そこでは文伐が先行し、武伐が仕上げとしてやってくる。アメリカの場合、セルビアでも、イラクでも、アフガニスタンでも武伐が先である。私たち日本人が米中の間に立って心に留めておくべきことであろう。

ハーバーマスの弟子を自称したジンジチが「極端にラディカル」だったとは!!

アメリカ資金の使われ方のコントロールの問題にも歴史を感じる。日露戦争時の明石大佐のヨーロッパにおける対露工作において、ロシア、ポーランド、フィンランドの革命家たちに渡った日本資金のどれほどが本来の目的に使われたのか、歴史家もこの問題を調べていないようだ。

アメリカ大使がセルビア憲法は「ミロシェヴィチが書いた。変えるべきだ」と堂々と語っていた。日本国憲法に関してこんな発言がアメリカ大使の口から聞かれないのは、アメリカ人が書いたので「日本人の何がしが書いた」と語れないからかもしれないと「邪推」させる。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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