「見えざる手」の解釈をめぐって―相馬氏の疑問に答える

 相馬氏は12月10日の「交流の広場」で、「『国富論』の「見えざる手」は「現代ミクロ経済学での市場メカニズムの元祖である」か?と疑問点を出している。岩田昌征氏はスミス=市場経済論という解釈を奥本正寛氏から引いているようであり、岩田氏が同じ理解をしているのかはっきりしない。でも一般にはその解釈がひろがっている。相馬氏はそれに対して、伊東光晴氏と根井雅弘氏の解釈は違っていて、古典派スミスを新古典派と区別しているのでないかと疑問点を出している。私はまだ自分で新古典派経済学そのものを追っていない。一応の研究をするだけでも数年はかかるであろう。それでも伊東・根井両氏の「見えざる手」の解釈は、補足が必要であるが、大体当たっていると言える。

 経済学の歴史はスミスをどう批判し、摂取するかをめぐって展開してきたと言っても過言ではない。フランス経済学その他の貢献を忘れてはならないが。マルクスはスミスから労働価値論を読みとり、シュンペーターはスミスの均衡価格論を高く評価していた、等々。 

 もう一度、「見えざる手」が出されている文章を見てみる。そこではこうある。「見えざる手」が作用する場合は資本投下の自然的順序論の次元――当該個所では外国商業の場合であるが――だけでなく、「他の多くのばあいと同じように」とある。自然的順序論が一番重要なのだが、スミスは確かにそれ以外のところ、例えば均衡価格論でも当てはまると考えているとみてよい。ではスミスの均衡価格論とは? 以下、その内容を筋書き的にあげておく。詳しくは拙著『社会形成と諸国民の富』を参照してほしい。 

 ――スミスは商品には2つの価値が、使用価値と交換価値があることを述べ、後者の交換価値を分析することに集中していく。交換価値を決めるものは何か。それはその商品の生産に投下された労働量である。それも社会的・平均的な労働量である。(価値尺度の問題は省く。)でもそのことは単純商品生産者の社会であてはまり、階級社会では全面的には当てはまらない。その階級社会とは資本蓄積と土地私有が導入され、地主・資本家・労働者からなる。(スミスは搾取を事実上知っているが、この点も省く。)全面的には妥当しないところを補うものが構成価格論である。構成価格論とは商品の価格は資本主義の3階級の所得である賃金・利潤・地代からなるというもの。価格には生産手段にかかった費用も入るはずであるが、それも究極的にはその生産に要した3階級の所得に還元される。(スミスの労働価値論は近代資本主義の体制原理を客観的・科学的に捉えたものであるが、構成価格論は階級社会のなかで生活し生産する当事者の意識に捉えられた主観的なものである。この客観的知識と主観的知識とを併行させておいたのがスミスであり、それらのいずれかを真理だとして争ったのがスミス後のリカードとマルサスである。それらに対して労働価値論と価格論との関連を内的に把握したのがマルクス。ところで、主観的であるから、通俗的だ、意味がないと言うのではない。体制的議論は社会の危機や変革が問題になるときに大事なものとなるが、それだけでは体制内の、あるいはそれを超える可能性をも秘めた変化を捉えるのに敏感でなくなる。また実際の発展段階や国の違いも知って現実的に政策を提起することもできなくなる。) 

 ――価格は所得の合計である。賃金+利潤+地代=価格。賃金が価格の要素となることは分かるが、利潤や地代が価格を決定するとは? これはスミスの当時でも問題となった。構成価格論は重商主義を批判するうえで意味はあるのだが、この点も省く。では価格の要素である各所得はどうやって決まるか。スミスは所得論と価格論とを関連させている。所得の決定は需要・供給の関係で決まる商品価格の決定と関連する。この点を解明したのが「諸商品の自然価格と市場価格について」の章であり、いわゆる均衡価格論である。スミスは所得に「自然率」があると言う。自然率とは生産要素の資本・土地・労働力が自由に移動する状態のもとで成立する社会的平均率である。その自然率で構成される価格が「自然価格」。したがって自然価格は自由競争価格であり、封建的・重商主義的独占価格に対立する。また自然価格は需要・供給の関係で実際にきまる市場価格が向かっていく中心価格となる。その論理はこう。ある商品の市場価格が自然価格を上回れば、自然率以上の所得が得られるという利益に誘導されて、資本家はより多くの資本を、地主はより多くの土地を、労働者はより多くの労働力を、その商品の生産分門に移す。すると、その部門の生産量は増大して需要量を満たすようになり、所得は自然率まで下がって、市場価格も自然価格まで下落する。逆に市場価格が自然価格以下になれば、生産用素はその部門から撤退し、供給量は減少してやがて市場価格は自然価格まで上昇する。かくして生産要素は価格変動を媒介にして部門間を移動する。(この点で伊東・根井両氏の「見えざる手」解釈は当たっている。ここでは恐慌なし。) 

 注意。自然価格は長期にわたって成立する価格であり、理論的なものである。現実にそのままあてはまることはない。生産要素の移動は自由競争下であっても実際には簡単ではない。労働力の輸送は一番難しい。流動資本は比較的易しいが、固定資本は難しい。また市場価格が自然価格からしばらく離れていることや(特別利潤を得る場合)、かなり長く離れていること(独特な地味から生まれるワイン等)もある。政策はこういうことも考えて立てられねばならない。 

 以上の議論の後で所得論は価格論から離れ、今度は3つの社会状態――発展・停滞・衰退――のなかで動態的に観察される。ここでは以下の注意点のみをあげておく。案外なスミスがいることが分かるだろう。通俗の「見えざる手」論はどこかにふっとんでしまう。 

 賃金について。――賃金は実際には資本家と労働者との間の契約で決まる。両者は自分の利害を通すために団結する。団結と言えば、それは労働者のものとされるが、実はそれは資本家たちが秘密に団結して賃金を引き下げようとするのに対抗するためのもの(スミスの眼の事情精通性! 原子的個人ではない集団的個人!)。スミスは労働組合の意義を認めているようである(労働力の価値通りの販売の制度的保障)。争議はだいたい労働者の敗退に終わるが、それでも賃金にはそれ以下に下げられない「最低率」がある。それは生存費と世帯費の合計で決まる。これは最低保証の「人類愛」基準に合う額。また賃金は消費財の価格と社会の状態で決まるが、問題は後者の、それも発展的社会の場合。発展的社会とは労働者を雇用し、生産手段を買うための資本が年々不断に増大している状態のこと。そこでは賃金は最低率以上の高賃金となる。社会の大多数を占め、社会の生存を支える者が豊かになるのは社会的「公正」基準に合う! この高賃金論には「高賃金の経済」論とか、近代的な労働者の経済倫理と生活倫理、「理性」と「人類愛」をもった資本家の合理的な労務管理・生産管理等、興味深い論点があるのだが、これらも省く。 

 利潤について。――利潤は資本家の行動のインセンティヴとなるもの。その場合、年利潤率、1年間の利潤の資本に対する比率が経営の指標となる。さて利潤率は自由競争下では平均利潤率である。資本家の経営努力による特別利潤は一次的なもので、やがて他の資本家にまねされて平準化する。それが「自然率」であり、資本家はそれが得られなければ、当の部門から撤退する。この利潤は利子と比べればそれの不労所得性は消え、監督報酬となる。したがって利潤は賃金と同じく資本家が自分に対して前払いするものと意識される。この平均利潤率は資本の量とその資本をもってなされる仕事量との関係で決まる。つまり両者の比率の違いによる社会状態で決まる。ここでも問題なのは発展的社会。そこでは仕事量に対して資本量の方が大きいから、資本家同士の競争で利潤率は低下する。部門内でも部門間でも。でも利潤率の低下は国民経済的には望ましい。発展的社会では資本の絶対量が増えているからである。重商主義的独占が輸出産業部門の利潤を高くして総資本の構成比を変えるだけということでないからである。この利潤率の低下は傾向的であるが、しかし、それを阻止する一時的な措置はある。「新しくてもっと有利ないくつかの事業」が開拓される場合である。(資本はダイナミックである!) 

 以上の賃金論・利潤論で、その他留意する点。――「大自治都市」での同業組合的独占よりも自由競争の方が安くて質の良い商品が生産される。良い品が欲しければ、「評判だけを頼りにしている郊外」か「農村」に行け。でも自由競争だけで消費者の利益になるのではない。行政による規制が、商品の純分記標や検印が必要(消費者は完全知識の持主ではない)。これは「見えざる手」を補う「見える手」。 

 また、所得の経済外的決定論にも留意が必要。自由競争下では賃金と利潤は平準化し、独占の場合よりも国内での・対外面での所得格差は減少するが、その平準化は文字通りではない。金銭的には格差が「一定の割合」で生ずる。それは社会学的な作用が加わるから。たとえば、ある部門で金銭所得が高いからといって、人はそこに就職したり、資本を投下するとは限らない。格差を相殺したり補償するさまざまな事情があるから。鉱山労働は汚くて危険な職業であるが、清潔で安全な裁縫労働よりも高い価値評価を受ける、等。 

 最後に地代。――地代論では構成価格論とは異なる議論が出てくる。地代とは地主が借地人から得る借地料のこと。この場合の地主は近代的であって、土地資本の投下者であるから、その部分に対する利潤部分が借地料に含まれる。したがって厳密な意味での地代は借地料から土地資本の利潤を引いたもの。それは土地生産物の利潤を超過する部分である。これが「自然的地代」。これは土地の封建的独占を批判する「自由地代」である。しかし土地は動産と違って自由に供給できないから、一種の独占価格となる。さて超過利潤が生ずるか否かは土地生産物の価格次第。その価格はどうやって決まるか。スミスには供給側の事情による差額地代論的視点はあるが、全体的には需要視点の方が先行している。…… 

 以上の議論の後で、3つの所得の分配関係が分かる。発展的社会ではこうである。賃金は名目的にも実質的にも上昇。利潤率は減少するが利潤量は上昇し、しかも利潤率の低下は蓄積を阻害するほどではない。地代は増大。 

 さて、発展的社会における分配法則に各階級は自分の利害を認めているか? 十分には認めていない。それはなぜか。どうしたら経済学は国民のものになるか。スミスはこう問うて、理論の基礎の基礎部分を終える。 

 ついでに多少思うところを付記しておきたい。理論はその前提として、またその背後に、人間の行動様式を予定している。日本の大学では学生に対してすぐに需要・供給の関係で価格が決まることを精緻な論理を用いて説く。でもそれは頭の中でのことであり、日常感覚では少し(どころか、大変!)ずれていることに注意しない。たとえば、『レモンをお金に変える法』という小冊子がある。これはアメリカで発行された児童向けの経済学絵本であるが、この種のものを日本の学生も大学教授も自分たちが子供のころに親から与えられたことはない。絵本の中のジミー君が雇い主の女の子(名前が出ていない)の労務管理がひどいので、プラカードをもって「彼女はアンフェアだ」とデモをする。また雇い主は店をたたんで決算した後、その儲けをバハマ諸島での娯楽に使う。これらのことは日本の労働者や経営者の感覚や行動様式となっていない。私は大学在任中、経済学史を講義する最初の日にこの絵本を紹介して学生たちに考えさせてみた。われわれの道徳教育では人に迷惑をかけないように、相手を思いやることを説いても、この種の教本を使うことはない。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座  http://www.chikyuza.net/
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