「誰」が銃を構え「誰」を撃つのか

著者: 内田弘 うちだひろし : 専修大学名誉教授
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[1] 湾岸戦争の兵士の証言=「敵」の喪失

[「敵」概念の仮象化] 湾岸戦争に参戦する兵士が出撃する直前に、従軍記者に「なぜ戦うのか」と問われて、「自分がやるべきことをやるだけさ(I will do what I have to)」と答えた。もう、向こう側にいる人々が標的=「敵」なのではない。自分の義務が銃の引き金を引かせるのである。その答えを聞いて、「ああ、ベトナム戦争以後、アメリカ兵から敵が消滅したのだ」と確認した。そこには、兵役に就けば大学に入学できるから、そのために、戦場に派兵された者もいたかもしれない。貧困が「敵」を創り、「敵」を殺戮させる。「敵」なる存在は、もはや「祖国愛」の外部の者への射影なのでもない。政策的に技巧的に創作された「仮象」である。「仮想敵」を容認すると、軍事予算が組まれ膨張し、「仮想敵」は情報操作によって「実在敵」に変換され、銃を持たされる。持たされるのは、貧しい青年たちである。この一連の洗練されたシステムは、すでに構築され作動している。リベラルも狡猾である。

[コッポラ映画] コッポラの映画『地獄の黙示録』はベトナム戦争を描く。兵士を載せたヘリコプターが、プロペラのバタバタ、バタバタという回転音を伴奏に、ワグナーの壮烈な『ワルキューレ』のメロディーを拡声器で放出しながら、ベトナムのジャングルの上空を旋回し、ヘリコプターの風圧で樹木が波打ち揺れる。群をなし飛来するジェット戦闘機からナパーム弾が投下され、雨霰のように轟音を立てて炸裂する。戦争自体が狂気の快楽となり、密林奥深くに「千年王国」を建設する。夜な夜な、カジノのように煌々たる照明の中で、ロックを奏で踊りまくる。

 

[2] 中国大学生の軍事教練

[中国の軍事] 学術研究交流で中国の大学に或年の9月に訪問したことがある。キャンパス内に武装した大勢の若者が人民解放軍の軍人に軍事教練を受けている。「10月入学の前に、必ず訓練を受けることになっています」とその大学の研究者は説明してくれた。「中国のどの大学でもそうです」という。人民解放軍の軍人だけでなく、中国の大学生・大学卒業生は、銃を撃つ経験を含め軍事を経験している。日本の大学生・大学卒業生にそのような経験はほとんど無い。あるのは、自衛隊員・旧自衛隊員、防衛大学校在学生・卒業生、警察官・旧警察官の他、猟銃使用者ぐらいであろう。ほんの僅かである。

「3・11」のときも偶然、中国にいた。或る大学内のホテルの部屋のテレビに、「現在、米軍空母ドナルド・レーガンは日本の東北地方の沖に向かって北上中である」というニュースが字幕で出ている。その空母が日本に向かうのは、(後に明らかになった)「トモダチ作戦」のためである。(管理=制御された)軍事ニュースは、中国では珍しいことではないであろう。日本のNHKなどのテレビ放送は、そのような軍事ニュースが流さない。その空母は現在、横須賀が母港である。

[非軍事化国・日本の明るさ] このように、軍事経験・軍事情報は中国の日常生活に浸透している。建国までの「抗日戦」という歴史的経験が現在も継承されているのである。それに比べて、日本では一般的に軍事経験・軍事情報は縁遠い。テレビでは、昼も夜も、タレントが大勢してワイワイさわいでいる。その「明るさ」は度を越している。とも考えないで、「演技の笑い」の充満である。その裏に控えているのは「シニシズム(冷笑心理)」である。フクシマをほっておいてのお笑いである。日本の夕方から夜にかけての時間帯のプログラムは、特に地上放送は、共謀罪問題・加計問題などまったく存在しないかのような、ただ時間つぶしのおかしさが、おかしいと思われずに充満している。古賀茂明がネットで指摘するように、首相が頻繁にマスコミの社長と会食しその場面を意図的に公開して、現場の取材記者・編集者たちを威圧しているからであろう。

[神社とスポーツ] そういえば、最近のプログラムでは、やたらに「神社」がお出ましである。特に、観光プログラムでは頻発する。かつて戦争中、出征する軍人は神社参りした。東京五輪に国民を動員する体制は、各種のスポーツ番組のテレビ・新聞報道で集中的に展開されている。真冬にトマトが食べられるように、真夏でもスケート競技がある。真冬でも水泳競技の番組がある。プロ野球打撃王・張本氏がスポーツ解説番組で「冬くらい、休ませないと」と苦言した。

[大学都市ハイデルベルクの米軍機] イギリスではBBCに限らず、漫才番組もあるけれども、日本ではミニシアターでしか観られないような質の高いドラマや、教養番組が放映されている。ドイツ滞在中でもそうであった。或るテレビのクイズ番組で『ローマ史』の著者(テオドール・モムゼン 1817-1903)の名前を当てる問題がでた。

まさにそのドイツの、大学都市・ハイデルベルクの中心を流れるネッカー河の上空を、米軍ジェット機が時折轟音を立てて通過する。ネッカー河を挟む対岸の「ハイデルベルク城」を眺めながら「哲学者の路」を散策し、ここにかつて(1922-23年)三木清が滞在していたことにノスタルジックな思いを馳せているときのことである。ネッカー河近くの、三木清が滞在した建物のそばを通るひとに、「ハイデルベルクは空爆を受けなかったようですね」と尋ねると、「戦後、ハイデルベルクを米軍の将校のリゾート地にするために、ここは除外されたのです」とイロニーを込めた笑顔で答えてくれた(内田弘『三木清』の口絵写真を参照)。

 

[3] 九条=日米安保と戦争加害の忘却

[日本の空もアメリカの空] 沖縄に日本の米軍基地のほとんどが存在することは事実である。けれども、「本土は米軍基地と無関係である」と思う者がいるとすれば、それは無論、間違いである。《三沢・横田・厚木・横須賀・岩国・佐世保》など、米軍基地は「本土」にもある。三沢基地は「核廃物貯蔵所の六カ所村」の近くにある。六ヶ所村は、人類の未来を予知するような、無機質の荒涼たる空間である。横浜港には米軍専用のドックがある。西東京と東神奈川の上空は米軍専用の空間である。米国政府の要人は、羽田や大阪国際空港からは入国しない。厚木・横田・岩国から入国し、そこから出国する。2020年の東京五輪で増える乗客に備えて、横田基地と空域の接する上空空間に、羽田飛行場に着陸する2本の空路が設計されている。日本全土が日本の領土であるとはいえない。割譲された空間があちこちにある。このことは「本土」でもあまり話題にならない。意識に登らない。

[日本近代史の広島・長崎] 広島は日清日露戦争以来「軍事都市(軍都)」であった。長崎空港から中国空爆の爆撃機が繰り返し出撃した。呉海軍兵器厰では、沖縄戦への「水上特攻」で轟沈した「戦艦大和」が建造された。三菱重工業長崎造船所では、フィリピン・レイテ戦で轟沈した「戦艦武蔵」が建造された。三菱重工業の名古屋工場では、「ゼロ式戦闘機」が製造された。オバマ大統領は広島の平和記念公園で演説したけれども、謝罪はせず、被爆者を抱き、背中を軽くたたいて慰安した。そのあと米軍岩国基地から離日した。

憲法九条は守らなければならない。しかし、日米安保と九条は、日本を再び軍国主義の国にさせないために、米国が設置した抑制装置でもある。サンフランシスコ講和条約締結の直後、吉田首相ひとりが近くの米軍基地に連れて行かれ、そこで日米安保条約に署名した。戦後体制は占領時代と基本的に変化していない。「日本の占領解除=独立」は「仮象(みかけ)」であって、その実態は「洗練された手法による占領の持続」ではなかろうか。

 

[4] 誰が戦場に行くのか

政治的信念だけでは、軍隊は制御できない。「筆持てば、もの書かる」のたとえのように、軍隊を持てば、軍隊は自立運動を始める。内外の軍需工業資本が鵜の眼、鷹の眼で軍需予算にまといつき、あるいは増額を画策する。

何よりも主要な問いは、《いったい、誰が銃をもち、誰を敵にして撃つのか》である。家庭の貧富の差が子供の進路を決める。アメリカでもそうであろう。アメリカでは、中東戦争経験の帰還兵士が毎日20人も自殺するという。ソマリアにPKOで派遣された自衛隊は青森隊である。「また東北か」と思った。

[戦時に加護されたエリートの息子] 先の戦争末期に、特攻隊の戦闘機群と随伴飛行してきた将官機は、突撃区域に近くに来ると、「諸君の武運長久を祈る」といって、引き返す。将官機は、特攻機が途中で引き帰さないように監視するために、途中まで同伴するのである。「敵前逃亡は許さない」のである。戦争中そのような経験をした、今は亡き年上の旧友の父親は、陸軍大学校の教授であった。旧友は「自分は加護されていた」と述懐した。旧友は日中友好に熱心であった。「いや、償いですよ」と苦笑した。

[現代原蓄の痛覚] 貧しい家庭の友人が自衛隊に、防衛大学校に入る。高校3年の時、防衛大学校に入学することになった友人とそれ以外の友人の間に、言葉にならない気まずい思いの楔が入った。それまでの明るさが急に消えた。両方とも俯いて別れた。友人たちとの仲間関係(コミュニティ)が何ものかに壊わされたのである。あれは、現代でも再生産される本源的蓄積=共同体(コミュニティ)解体の経験、「現代原蓄の経験」だったのだと、のちに考えるようになった。本稿筆者の現代原蓄論には、かつて仲間が切断された痛覚が記憶されている。社会の不合理を、生まれた環境ごとに、あるいは重く、あるいは軽く背負って生きてゆく。

[貧富の格差が子供の世界を切断する] いまにして思えば、本稿筆者の「社会開眼」ともいうべき経験は、中学生3年生のときにさかのぼる。その年(1954年)の5月頃、進学か就職かの進路が決まると、クラスは進学組と就職組に二分した。学級委員であった筆者は両方の仲間関係を復元させようとあれこれ画策した。しかし、特に就職組は頑として聞き入れなかった。誰かが悪いというのではない。「社会の楔」が15歳の子供たちの仲間関係を上から「ぐさり」と分断したのである。楔の正体の分からない筆者は、不安で身震いし、あれこれ模索した。1年後の高校に進学した夏休みに街で、八百屋の父親が引く、野菜を満載したリヤカーを、汗をぬぐいながら後押しする、息子の旧友と出会ったとき、私が声をかけると、旧友は無言で眼をそらした。

自分の無神経な行為を知らされ悔やんだ。しかし同時に、彼を黙過する行為も、いやな行為と思った。両面否定の事態に立たされたのである。実業の重要性を実感するようになって、ようやくその葛藤から解放された。大学卒業後、工場の生産管理を経験したときである。そこは、生きるために必要な物を生産する真剣な現場である。旧友の後を追いかけるような気分に満たされた。

 

[5] 記憶の中の軍隊

1939年2月生まれの筆者は、昭和20年4月に満洲で国民学校1年生になった。戦争末期に関東軍軍人、敗戦後にソヴィエト赤軍兵士将校、中国国民党軍兵士、中国共産党八路軍兵士を幼子の眼で見て知っている。

[軍歌を歌う幼児] 敗戦の前も後も、日常生活は軍隊と戦争で充満していた。国民学校入学前の4~5歳のころ、関東軍将校のひざに抱かれ、ひげ面で頬ずりされ、チクリと痛かった。酒臭い口臭を嗅がされた。宴席の最中であった。「坊や、歌をひとつ歌ってくれないか」と頼まれたので、立ち上がって、声を張り上げて歌った。

《今日も学校にいけるのは、兵隊さんのおかげです。御国のために、御国のために戦った、兵隊さんのおかけです》

「いいぞぉー」と将校たちは手をたたいて喜んだ。幼子のわたしは、得意満面であった。

安倍昭恵夫人を戴く森友学園が行ってきたことは、この経験と似ている。安倍夫人の秘書役のノン・キャリアの公務員が財務省のキャリア組の幹部にコンタクトできたのは、安倍夫人の威光なしにはありえないと、元経済産業省のキャリア・古賀茂明氏はネットで証言する。その安倍夫人は、いま籠池氏を急に避けている。「いざ」というときの、エリートの冷徹な基本行為である。1945年8月9日、ソヴィエト赤軍が満洲に侵入してきたとき、真っ先に日本に逃げたのも、将校たちである。ソ満国境に残されて、自決しあるいは、餓死したのは、満洲開拓民である。

[残酷なソ連赤軍] ソヴィエト赤軍は残酷であった。敗戦国日本人に対して、強盗・強姦・略奪をほしいままにした。赤軍兵士の多くは、両方の腕に日本人から奪った腕時計を三つずつ巻いて、自慢げに日本人に見せた。「土産にする」という。後に研究職になって、「赤軍はすばらしかったでしょう」を確認しようとする、日本軍入隊経験のある研究者に、「そうではありません。事実はまったく反対です」と応えた。レーニンの民主集中制を重視するその人は、それ以上私を問い詰めなかった。肝心な経験知が欠落していたのではなかろうか。

[八路軍を笑う日本人] 八路軍はもちろん、国民党の軍隊も、赤軍のようなことはまったくしなかった。新京(長春)の南部を占領する国民党の日本語が出来る兵士に話し合ってもらったことが何回かある。優しい青年であった。装填してある銃弾をみせて、その違いを説明してくれたこともあった。そのときは、別に危険なこととは思わなかった。薬莢があちこちに転がっていた。ソ連軍が引き上げていったあと、国民党と八路軍が内戦を始めた。機関砲の弾が家のレンガ壁を貫通することもあった。

八路軍は近くの砂利道をボロの服をきて、不揃いの武器を担ぎ、軍歌を歌いながら通りすぎていった。敗戦国民となった日本の大人たちは、八路軍のその姿をみて、「あれ見てぇ、乞食の部隊みたいねぇ」と冷笑した。進行する事態をまったく理解できなかった。4年後に中華人民共和国を建設するなど、夢にも思わないで、見掛けだけで判断していた。今にしておもえば、八路軍が歌う歌には「三大規律、八項注意」があったかもしれない。

[歌声喫茶の夢の国] 1960年安保のころ、学生たちは「歌声喫茶」でソヴィエトを夢の国のように説かれて憧れていた。眼を潤ませながら、互いに腕を組み、アコーデオンの伴奏に合わせて、ロシア民謡「黒い瞳」などを声高らかに合唱した。しきりにソヴィエト共産主義を吹き込んだ上級生は、のちに同窓会で《そう言われれば、そんなこともあったねぇ》といって話題を変えた。

 

[6] 希有な語られる戦争体験

かつて、ある研究会で戦争体験者が旧日本軍の内部の経験を語ろうとしたとき、別の同じ経験をもつ者が、「戦争を煽ることになるから、そのようなことは話さないでください」と制止したことがある。話そうとした研究者はその制止に従った。このようにして戦争体験は隠蔽され、タブーになってきた。

15年戦争(1931-45年)の戦争体験は、ほとんど語られなかった。その主な理由の一つは、残酷な殺戮体験が残した精神的後遺症(いわゆる心的外傷後ストレス障害PTSD)のためであろう。イラク・アフガニスタンに派兵された元米軍スナイパー(狙撃兵)は、その殺戮経験で精神的不安定になり、自殺する者が多い(『東京新聞』2017年6月26日朝刊7頁)。

[希有な作家・辺見庸] 辺見庸の『1★9★3★7(いくみな)』は、寡黙な父親の戦場体験をめぐる思索の記録である。その寡黙も無残な戦場体験のためかもしれない。その本のなかに、武田泰淳の『汝の母を!』が引用され論じられている。その小説は『武田泰淳全集』(講談社、第5巻)や『武田泰淳中国小説集』(新潮社、第巻)に収められている。その小説で武田が描写する場面から眼をそらさずに最後まで読むには、人間がどこまで堕落するか、その地獄図を直視する忍耐力が必要である。中国人の母と息子にそのような行為を強要する日本兵を武田はいくつも目撃してきたに違いない。

[戦争文学の成果『神聖喜劇』] 戦後日本の戦争文学には、武田のその作品の他、野間宏『真空地帯』、五味川純平『人間の条件』『戦争と人間』、大岡昇平『野火』『俘虜記』、大西巨人『神聖喜劇』などがある。会田雄次の『アーロン収容所』と比すべき大岡昇平の『俘虜記』は、戦争における人間の冷静な観察として貴重である。大岡昇平は数学書を好んで読んだ知性的な作家である(『成城だより』)。

野間宏の『真空地帯』は、もっぱら旧日本陸軍の内務班の地獄図を被害者として描写する。これに対して大西巨人の『神聖喜劇』は、軍隊内で軍規をテコに人間としての理性に断固として訴え続ける軍隊内部で理性を追求する兵士、そのことによって非合理な兵士も理性的な側面が存在することを開示するという実践的理性の可能性を探究する、画期的な力作である。野間戦争文学は大西によって克服されたと思われる。『シナリオ 神聖喜劇』があるが、まだ実現していないのではなかろうか。

『聞け、わだつみの声』が学徒動員の記録であるのに対して、大村良の『農民兵士の手紙』は東北の農民の戦争体験である。東北の農民兵は、自分たちが作った米・麦を軍隊に入隊して始めて、たらふく食べられたと実感したことであろう。学生と農民とでは入隊経験の評価が180度違う。

[記録映画『日本鬼子』] その日本兵たちは中国大陸で何をしたのか。ほとんど語られない。その全くの例外が、武田泰淳の先の小説の他、竹内好たちとの同人雑誌『中国文学』へ送稿した武田の中国便りである。絶品と思われる書画が泥濘に縺(もつ)れて田畑に散在する現場を報告するなど、武田が知らせる中国戦場は生々しい。竹内が『魯迅』を、武田が『史記の世界』を遺言として書いて中国に出征した。記録映画『日本鬼子(リーベン・クイズ)』も日本兵の戦争体験告白として特筆すべきものである。旧日本陸軍兵士はつぎのように証言する。

[根こそぎに収奪する日本軍] 日本陸軍兵士は中国の農村地帯に一列横隊になって銃剣を構えて、眼に入るすべての資源を略奪してゆく。畑の野菜・芋類、農家の豚・鶏、倉庫の穀類などを奪い尽す。「それは来年春に蒔く種麦ですから、勘弁してください」と縋る農婦を銃剣でぐさりと刺し殺す。略奪兵隊の遙か背後には、蒸気機関車が長い貨物列車をつないで、略奪物資を満載すべく「シュー、シュー」と蒸気を吐いて、待っている。略奪物資は旧軍閥=財閥の懐に入って、闇の中である。何冊かの研究書は、アヘン栽培・密売で日中戦争の戦費の大半がまかなわれたという。ソ連赤軍は満洲から満鉄の鉄道などの資源などを略奪して引き上げた。

[九条が真実になるとき] 『日本鬼子』は、かろうじて忘却を免れて記録された戦争経験である。そこに証言された経験と同類の経験を、近現代日本の負の精神史的遺産として堅実に継承する作業が欠落させてきた。その欠落に九条改憲の策動が侵入してきているのではなかろうか。「九条を世界記憶遺産登録に」という前に、そのような継承作業が不可欠である。

日本の代表者が南京に行って、謝罪することは不可欠な行為である。南京のあの記念館に漂う鎮魂の沈痛な静寂に身を浸すことで、少しは歴史ということがらを知ることが出来るかもしれない。ヒロシマ・ナガサキを謝罪せよ、東京空爆を謝罪せよ、と明言できるようになることと、重慶空爆を謝罪することとは切り離せない。日本人は忘れていても、東アジアの人々は記憶している。

[なぜアフリカに関与するのか] 戦争はほとんど、資源・富の収奪のための残虐行為である。なぜ、欧米中日はアフリカに関与するのか。なぜソマリアに行くのか。

海外に滞在中、或る大学の学生食堂で、アフリカから来ていた学生が私の席の前に来て、「座っていいですか」と許可を求めたので「どうぞ」と応えた。彼は小声で語る。「彼らは、アフリカの共同体を分断して、両方に武器を与えて戦わせ、その自作の紛争を解決すると称して、国連軍を派兵してくるのです。彼らのやり方は狡猾です」。密やかにこう語って、彼は去って行った。アフリカで進行する現代原蓄の実態を告げられた、謎めいた瞬間であった。

[日米の沖縄] 加害の経験を語らず忘れ去り、知らせず、あるいは知ろうせずに、ただ被害を記念日に語る。そのような姿勢で「九条」は守れない。加害の忘却史を省み、加害に直面し日米安保から自立するとき、「九条」は真実になる。《共謀法・加計問題》のありようの背後にある、日本の精神的空漠は深く大きい。事が起きては、空漠に忘れ去られる。そのような史観からは、何事も「偶然に」生起するようにみえる。何事も自由に結合する器用な史観である。空漠はさらに深まる。

そのような史観から脱却する路が少し切り開かれている。今年の6月23日、沖縄全戦没者追悼式で、沖縄県立宮古高校3年生の上原愛音(ねね)さんが力強く明晰に朗読した、平和の詩「誓い~私達のおばあに寄せて」(『東京新聞』2017年6月23日夕刊8頁)は、私を励ます。真実を求める路は長く、目的地は遙か遠方にあるとしても、なお歩みつづける者の清々しい心を表現して、私の心を熱くする。

メル・ギブソン監督作品映画『ハクソー・リッジ』(Hacksaw Ridge激戦地)は、沖縄日本軍と激戦したアメリカ軍には、日本兵を「敵」と規定せずに、激闘の最中、日本兵も含め75人もの負傷兵を救助した衛生兵(Desmond Doss,1919-2006)が実在した史実を証言する。人間悪の史実とともに、人間救済の史実も、なお地下に埋もれているにちがいない。私はその地上に生きている。(以上)

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座  https://chikyuza.net/

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