椎名重明『カタリスとアモール』(御茶の水書房)の「Ⅴ.自己愛 友愛 隣人愛」に言う。日中戦争を「侵略」と見なし、検挙され、教団から資格剥奪されたまま2007年に至り「名誉回復」された真宗大谷派僧侶「竹中彰元が生きていたら、『名誉回復』までの教団の措置をすべて赦したであろう。赦すということは忘れることであり、それが彼の真宗であるに違いないからである。『アムネスティ・インターナショナル』のアムネスティamnesty(大赦)の語源が“amnestia”(忘れること)であり、『忘れる』ことは恨みを残さず、赦すことであるように、真宗においても、赦して忘れることは、大慈・大悲の教えだからである。」(p. 242)
またルターも「諺にいうように(赦せど忘れず)ではなく、親愛なるキリスト者の皆さん、あなたたちは(赦して忘れる)べきであり……。」(p. 253-254)と説教していたと言う。
私は1991年から1995年に至る旧ユーゴスラヴィア多民族戦争の時代、毎年夏休みと(あるいは)冬休みの間、戦域をボスニア・セルビア人、ボスニア・ムスリム人(ボシニャク)そしてボスニア・クロアチア人の常民達とバス旅行した。国連UNの保証なしの完全な一人旅であった。そんな中でしばしば聞かれた感動の声は、「嬉しい。コムニストの子供達も、チェトニック(セルビア王党派ナショナリスト。岩田)の孫達も一緒になってセルビア人を守るために戦っている。」であり、「良かった。パルチザン(ほぼコムニスト。岩田)の子供達も、ドモブラン(第二次世界大戦中のクロアチア独立国軍、親独。岩田)の孫達も、ウスタシャ(反セルビアのクロアチア民族主義激派、親伊、親独。岩田)の孫達も一緒になってクロアチア独立のために闘っている。」と言う質を有していた。しかし、かすかではあったが、凛乎として「赦そう。しかし忘れまい」の声が正教会(≒セルビア人)とカトリック教会(≒クロアチア人)の上の方から聞こえて来たことがあった。それを耳にして、私は、素直に納得した訳ではなかった。「そうかなあ……。赦すのであれば、忘れることが筋だろうが……。」とかすかに思ったことであった。椎名重明先生の一文を見て、20年昔の想念がもどって来た。
何を赦すのか。何を忘れるのか。
自分達宗教集団・民族グループが現在と過去において他宗教・他民族から受けた苦しみ、いわれなき虐殺、強姦、幼児殺し、放火、盗奪、強制改宗、墓地破壊、集落一掃、集団搬送、集団死体埋没等々、今日「民族浄化」として知られるようになった歴史的・現実的悪夢のことである。私は、正教徒からも、カトリック教徒からも、イスラム教徒からも自分達の親族がなめつくした悲惨を直接聞くチャンスが何回かあった。かかる悪夢は、20世紀に3回大規模に現実化した。1910年代後半(第一次世界大戦)、1940年代前半(第二次世界大戦)、そして1990年代前半(東西冷戦終結期)における兄弟殺し的戦争である。
この地域におけるオスマン的封建遺制の崩壊、初期資本主義的原蓄の圧力、先進的・文明的帝国主義列強の衝突、ナチズム・ファシズムの進出と敗北、ソシャリズム革命の成功と自壊、チトー主義解体工作としてのアメリカによる諸民族主義の過剰活用、そして現代資本主義的再版原蓄・階級形成闘争。かかる社会経済的嵐を現地の諸民族常民が駆け抜ける渦中における兄弟殺しである。かかる身遠の枠構造は大きすぎ、複雑すぎてよく分からないし、よく知らない。赦すも忘れるも範囲外である。
しかしながら、身近で、自分達の行った他者達の教会・モスクの爆破や墓地こわしはよく知っているし、よく憶えている。それについては、自分達の良心が痛むが故に沈黙する。同時に他者達が自分達の教会・モスクや墓地を冒瀆したことに沈黙しているのは、他者達の良心の欠如であると感じる。自分達の被害については他者達の良心に訴えるべく発話しながら、他者達の同じ質の発話を自分達の良心への攻撃と受け止める。
「赦す。しかし忘れない。」は、不忘が赦しをむしばむ力を軽視している。「赦して、忘れる。」は、首尾一貫しているように見えるが、赦=忘がただちに不赦=不忘となる面を見ていない。現代は、宗教の復活の時代であるからと言って、科学の時代でなくなった訳ではない。科学知は、事実を求める。遺骨のDNA鑑定は死者の身元を明示する。「どうせ忘れて赦すなら、知らないで済まそう。」という知恵はもはや有効ではない。知の深化は不忘を困難にする。赦→忘は不忘→不赦に等しい。現代社会は、大慈・大悲からまだ遠いらしい。とすると、「赦そう、しかし忘れまい。」の煉獄を当分生きるのであろう。
メールでクロアチア国営テレビを見ていたら、8月2日に、ヤセノヴァツ強制収容所跡の石花記念碑の前で、第二次世界大戦中にクロアチア人ウスタシャによって虐殺されたロマ人(いわゆるジプシー)達を忘れまいとする記念集会が開かれていた。ヤセノヴァツはクロアチアとボスニアとの境界、サワ河沿岸の地であり、バルカンのアウシュヴィツに当たる。ナチス開設の死の収容所ではなく、クロアチア人ウスタシャ設立のそれである。セルビア人の主張によれば、そこでセルビア人50万人、ロマ人4万人、ユダヤ人3万3千人、反ファシストのクロアチア人等12万7千人、総計70万人が殺されたとされる。これは誇張と見なされ、これまで氏名が公表された犠牲者は、7万3千人とされる。しかし最近、ある研究者は、14万6千人の犠牲者リストを公表している。8月2日のニュース映像では、ロマ人代表が「これまで判明した限り、ウスタシャは、1万6173人のロマ人、そのうち14才以下の子供5608人を殺した。」と挨拶で指摘していた。従来、世の中で忘れられかけていたロマ人の犠牲者たちが「忘れまいぞ! 忘れないでくれ!」と名乗り出たのだ。
ヤセノヴァツ強制収容所に関して知っておくべきことは、第一に、あれほどユーゴスラヴィアと全世界をまわった故チトー大統領が一回もヤセノヴァツを訪問しなかった事実であり、第二に、ポーランド人教皇ヨハネ・パウロ2世は、日本まで訪問した教皇であり、クロアチアを3回、ボスニア・ヘルツェゴヴィナを2回訪ねていたにもかかわらず、ヤセノヴァツを訪れたことがなかったと言う点である。私見によれば、すくなくとも、故チトー大統領がヤセノヴァツを記念訪問していたならば、1990年代の西ボスニアにおける民族衝突の激症度は小さかったであろう。
複数の社会が同時に被害者でもあり加害者でもある場合、「赦」と「忘」の問題は、高等数学の未解決問題以上に複雑のようである。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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