「重信房子がいた時代」(情況新書)が浮き彫りにした時代と風俗

 イスラエルに出入国する際のセキュリティ・チェックは厳しいことで定評がある。イスラエルのセキュリティ・チェックの方法にはユダヤ人的な特色がある。同じ質問を時間をかけて何度でも繰り返し、相手の反応を探る。

 筆者が最初にイスラエルに入国したのは、東京――イスタンブールーテルアヴィブ(ベングリオアン空港=以前のロッド空港)というルートだった。航空会社はトルコ航空。イスタンブールに数日滞在したのち、イスラエルに向かった。イスタンブール空港にはイスラエルの係官が2人いた。二人ともアシュケナージ系(ドイツ・東欧系)の金髪のきれいな若いイスラエル人女性だったが、一人は女優ジョディ・フォスターにそっくりの美人だった。白人にしては小柄なことでも似ていた。筆者はジョディ・フォスターのファンなので、場面をわきまえず、不謹慎にも心がときめいた。

 筆者のパスポートを見て、日本人だとわかると、ジョディ似係官の顔色が険しくなった。次から次に質問が飛び出す。だが、日本人のような早口ではなく、ゆっくりした落ち着いたペースだ。言語は英語。

 「入国の目的は」「機内に持ち込む荷物は誰がパックしましたか」「イスラエルでの滞在先は」・・・・。こんな調子の単調な質問が延々と続く。筆者のパスポートにイランのヴィザ(入国記録)があるうえ、筆者がジョディ似係官への好感と関心の表情を浮かべると、さらに表情が険しくなり、質問のペースが速くなる。相手の声もとげとげしくなる。

 筆者は繰り返される質問に少し苛立った。

 だが,20分ほどのち、筆者のスーツケースは機内に運ばれ、筆者も無事に機内に向かうことができた。

 イスラエルの係官が日本人を警戒したのは、理由がある。1972年5月30日に起きた、ロッド空港乱射事件が記憶されていたからだ。

 エール・フランス機で到着した3人の日本赤軍が、ロッド空港でスーツケースから取り出したチェコスロバキア製のカラシニコフを取り出し、空港にいた乗降客に乱射。26人が死亡、73人が重軽傷を負う惨劇になった。
 「パレスチナ人を抑圧するシオニストなら殺されても当然」と考える人が今でもいるかもしれないが、殺害された26人のうち17人は、聖地巡礼に来たキリスト教徒のプエルトリコ人(米国籍)だった。日本政府はこれらのプエルトリコ人に各100万ドルの「賠償金」を支払った。

 筆者の経験の範囲では、一般にイスラエル人はその気質として、日本人やドイツ人のような「細かい警備や配慮」はしない。もともと大雑把な人々だ。ロッド空港乱射事件で、日本赤軍がスーツケースに複数の自動小銃を忍ばすことができた。

 だが、この事件のあと、世界のセキュリティ業界が参照する厳しいイスラエル式のセキュリティ・チェックが生まれた。

 ロッド空港乱射事件の後、約40年にわたり、イスラエルの空港では乱射事件が起きていない。敵対するPFLPなどの国際的ネットワークの力を考慮すると、おどろくべき実績だろう。

 ロッド空港乱射事件のあと、若い日本人への警戒心が高まったイスラエルだが、この事件によって、日本人全体への敵意が高まることはなかった。

 立場を変えて考えよう。1972年ころ、仮に当時国際空港だった羽田空港で、複数のイスラエル人が自動小銃を乱射して、100人前後の人間が死傷したとする。動機は不明だ。なぜ、イスラエル人が日本と関わるのか。

 どこからか、「中国や朝鮮を侵略した日本人への報復」と仮に声明を出されても戸惑うばかりだろう。

 前置きが長くなった。

 ロッド空港乱射事件について、PFLPと重信房子氏が共同で犯行声明を出して、1972年5月30日をもって、日本赤軍が誕生したとされる。

 ロッド空港乱射事件の「金字塔」?をもって、日本赤軍は長くレバノンでPFLPの客分として、居続けることが可能となった。

 1973年には、重信房子氏とパレスチナ人との間の子供とされる長女メイ氏が生まれる。ある意味、重信房子氏の体を張った組織力には驚嘆させられる。ロッド空港乱射事件の主犯とされる奥平剛士氏は重信房子氏の夫である。

 ロッド空港乱射事件と重信房子氏の3人の子供たちが、日本赤軍とPFLPの「絆」になったことは疑う余地がないだろう。

 さて、偶然、公立図書館で、油井りょう子著「重信房子がいた時代」(情況新書 2011年6月30日)を借りて読んだ。

 以下は、思想や理論ではなく、当時の時代と風俗について感じたことを述べた。顰蹙をかう点が多々あるが、お許しください。

 
 1 美人は神の恵みと考えよう

 これからの展開は、きっと多くの読者から袋だたきにあうかもしれない内容だと自覚するが、重信房子氏は、残されている写真を見ると、美人で魅力あふれる女性である。本書、99ページに、駿河台での赤ヘル集会での重信房子氏のスナップがあるが、きれいでスタイルもよく、容姿端麗という言葉がぴったりする。もし、重信房子氏が、永田洋子氏のような容姿であったら活躍できる範囲はもっと狭かったかもしれない。永田洋子氏に粛清された連合赤軍の遠山美枝子氏は、「美人なので永田氏の嫉妬をかって殺された」というのが定説で、映画でも遠山役は小柄な魅力あふれる美人女優が演じているが、本書では、「遠山美枝子氏は重信房子氏とは対照的で、引き立て役だった」という趣旨の記述がある。

 現在の日本の官界、知識人界では、なぜか先天的な才能より、後天的な「努力」のほうを高く評価する傾向があり、特に左翼でその傾向が強い。しかし、ユダヤ教が語るように、「美人だということは本人の意思に関係なく、生まれながらのことで、神の恵み」である。そのことを非難できようか。

 重信房子氏は美人で魅力的であったがゆえに、銀座のバーでアルバイトができて、組織(ブント)に資金的な貢献をしている。

  2 重信房子氏の体力、気力に驚嘆

 当時は良い時代だった。高卒で大企業の一般職OLになれた時代だ。今では派遣社員が関の山だろう。都立第一商業高校を卒業した重信房子氏は、キッコーマンに入社する。一流企業のOLになった。同時期の1965年に明治大学第二文学部史学日本史学科の学生になり、さらに活動家になる。当時の重信房子氏は、東京都町田市にある都営住宅に住んでいた。当時の小田急線での通勤時間は長い。

 6時半に家を出て、8時半から17時までキッコーマンに勤務して、17時30分から22時まで明治大学での授業。その後活動して、「終電で帰る毎日にさすがに疲労困憊した」という。若さを考えても、気の遠くになる体力と気力である。

 OLと学生を兼ねる日々は1年半で終わった。

 3 婚約者の父親の慧眼

 20歳のころ、重信氏には婚約者がいた。婚約者の父親は、「地方の自民党のボス」だった。父親は重信氏を羽田空港で初めて見たとき、息子に「あの女の子は政治家の妻にふさわしい。すぐに手をつけろ。貧乏人の娘だろうが、素性はかまわん」と語ったという。何という慧眼か。

 美貌なうえ、頭が切れ、話し方も上手。この婚約者と結婚していれば彼女の人生も変わったはずだ。その代り、われわれは「重信房子」を知ることはなかった。

 4 「赤軍派になっても担当は救援、カンパ、連絡」

 1969年11月の大菩薩峠事件後、重信氏は公安に監視される。だが、彼女は赤軍派になっても、その中枢にいたわけではなく、「救援、カンパ、連絡」といういわゆるロジスティックスを担当していた。

 5 1971年3月1日 ベイルートに到着

 1971年2月、連合赤軍事件が起きた。重信氏の親友だった遠山氏が犠牲者のひとりになった。その頃、重信氏はアラブに旅立った。

 現在のわれわれは、イスラエルとパレスチナ・アラブ問題について詳細に知っており、関心も高い。当時はそうではなかった。「(ブントの)仲間には、すでに遠い存在になっていた房子のアラブ行きに、現実感はまったくなかった」と、この本では記述する。

 その1年後、ロッド空港乱射事件が起きる。さらに、その後の大規模な事件は歴史が教えるところである。PFLPの資金力と国際的ネットワークと日本人の献身と行動力が結びついたと想像する。

 仮に、重信氏が連合赤軍に参加していれば、遠山氏以上に目立つ重信氏が「総括」されたことは間違いない。

 日本赤軍は、国内で壊滅し、「よど号」で北朝鮮に逃げたグループも、北朝鮮に取り込まれるなど問題の残る結果になった。「アラブに逃げた」重信氏は、革命運動の視点から見れば、良い選択をしたのかもしれない。

 一人の美しく魅力のある女性がなしえた大きさに驚くことが多い。

 だが、そのことがはたして良かったどうかは別だろう。

  筆者は想像する。 アラブに到着した重信氏は、国際関係について、イスラエルについて、PFLPについてユダヤ教やイスラム教について、ほぼ白紙の知識しかなかった。
 結果として、PFLPの一つの駒に使われたと見ることもできるし、一部の人士が評価する「偉業」を残したと見ることもできるだろう。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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