最近、翻訳の仕事で「間テクスト性」(intertextualité)という言葉に遭遇した。私にはほぼ接点のないポストモダン流のテクストクリティークの用語だそうである。そこで、ネットで調べたところ、「おフランス」用語が氾濫する解説にアクセスできた。ネットだけの知識でウンヌンするのは躊躇するが、直感的に「これは、要するに『上手なパクリ』のことだ」と判断した。
「これまでのテクストの歴史は『上手なパクリ』の歴史である」というのは当たり前のことだ。『経哲草稿』はモーゼス・ヘスからの「上手なパクリ」であり、レーニン『帝国主義論』はヒルファーディングとホブソンからの「上手なパクリ」だろう。
しかし、人々はなぜ「当たり前のこと」を新用語の特異性に目をくらませて崇拝するのだろうか?
とある「パクリ大国」にて。中野@貴州