個人的な記録というよりも、誰にとっても起こり得る貴重な体験談として、簡単にご報告させていただき、皆様方のご参考に供したいと思う。
突然の発症と救急車での搬送
今年の夏は、コロナのせいで23年目にしてドイツ行きを中止し、久しぶりの日本の夏を味わうことになった。日中の暑さ(直射日光の強さ)は、おそらくドイツの方が上だろう(実際に私は43℃という猛暑を経験している)。しかし、空気の乾燥度は比較にならないほどなので、日陰にいてそよ風でも吹けば、たちまち睡魔が襲ってくるほど気持ちがよくなる。
8月11日、外は相変わらずの酷暑(私の安アパートの部屋は、午前5時頃にはすでに30℃くらいに達している)。この日、連れ合いは地域の寄合があり、午前10時頃、一緒に近くの図書館まで出かけた。もちろん私の方は本を借りてすぐに帰宅した。
あまりの暑さと、猛烈な発汗にいたたまれず、シャワーを浴びた。水シャワーだったが、ほとんどぬるま湯状態だ。
それから散歩がてらに少し歩いて(片道約15分程度)、八百屋に買い物に行き、帰りはすぐ近くの大型店の通路のベンチで10分ほど涼んでから帰宅した。
もちろんそれだけでも既に汗だくだったため、再度水シャワーを浴びようと浴室に入り、ぬるくなっていた水道の水を足にかけた。途端に、今まで経験したことのない痛み(というよりも息苦しさ)に襲われた。
背中から胸部肋骨にかけて息が止まりそうなほどの締め付けが起きたのである。よく七転八倒の苦しみという表現がされるが、この場合は、動けないためそれすらできずに、ただひたすら息が止まりそうだ、どうすべきだろう、という状態だった。
連れ合いに電話すること、そして救急車を呼んでもらうこと、もし間に合わなかったら、この日が自分の命日になるだろうということ、そんなことを薄々考えていた。
その後はさすがに素っ裸ではみっともないので、やっとの思いで下着だけをつけた。
連れ合いが帰ってきてすぐ、救急車が来てくれた。担架にのせられて、我が家の狭い石段を、繰り返し「絶対に落ちることはないから安心してください」と言われながら慎重におろされ、車に乗せられた。すぐに、「おそらく心臓関係の病気だろうから、このまま公立昭和病院に行きます。約20分で着きます。」と告げられた。
私の方はただただ息苦しくて、言葉にもならないまま病院へと搬送された。
入院と治療―医療関係者の献身的介護に感謝
「急性大動脈解離」という病名だった。CTスキャンやX線やら、いろいろな検査をやられながら、最後は心臓・血管センターの集中治療室(ICU)のベッドにくくりつけられた。まあ、ひもで縛られることはなかったものの、点滴の管や尿道管の管や酸素吸入器や足首にはマッサージ器(足に出来る恐れのある血栓予防)などをつけられて、自分ではやはり「くくりつけられている」感じしかしなかった。
なかでも、一番の苦痛は、尿がひとりでに流れ出る様に、陰茎の先端の尿道からゴムの管を差し込まれることだった。うわさに聞いたことがあったがこれ程の苦痛とは思わなかった。看護師の若い女性が、これを差し込みますと言って見せてくれたが、先端が無気味に太くなっていて、こんなものが本当に入るのだろうかと、一番不安だった。
寝返りも打てず、起き上がって自分でトイレにも行けない状態では(尿瓶は使えるが、極めて不便なため)我慢してこの尿道管を使うしか手がないのが実情なのであろう。
大きく息を吸い、ずっと吐きつづけてくれといわれ、猛烈な痛さを我慢した。しかし、その翌日にはその違和感にも慣れた。ずっと尿が出きらないとの思いは残っていたが。
寝返りがうてないのも大変な苦痛であった。恐らく眠れないのではないかとの不安があった。しかし不思議なことに、なんとなく眠ってしまい、しかも日中もあまり時間の長さを感じることもなく、眠っていたようだ。この間、本は勿論のこと、テレビなども全く禁止されていたので、時間つぶしは専ら眠ることしかなかった。携帯ラジオを聞くことは許されていたようだったが、あいにく、手元にはない。
この状態で3,4日留められた。私自身は、痛み止めを施されれば、すぐにでも帰宅できるものと勝手に思い込み、医者に「いつ帰れますか」「明日ですか」と聞いたのだが、その返事は「早くて2週間後、多分3週間ぐらいかかるでしょう」「それぐらい重大な病気ですから、ゆっくりお付き合いしましょう」ということだった。
コロナ禍で、病室への一般人(家族も含めて)の立ち入りは一切認められていないといわれたが、無理に頼み込んで、連れ合いに来てもらい、医師、看護師の立会のもとで、ちきゅう座の仲間たちへの連絡などをお願いした。
「大動脈解離」とは、心臓に繋がる血管の壁が破れたり、ひび割れしたりする病気で、高血圧、動脈硬化などで血管壁が脆くなっていることから起きる病気だそうである。
壁が破れていて、血液が外に漏れだしていれば、偽腔という別の流れ(袋)ができる恐れがあり、それが固まれば「動脈瘤」になる。その際はすぐに外科的手術が施されるようで、そうしないと突然死の恐れが高まるということだった。私の場合は、幸いにして血管のひび割れということだったので、外科手術を受けずに済んだようだ。
こういう状態でベッドにくくりつけられた患者の苦痛はともかくも、担当医師、看護師の献身的な介護には全く頭が下がる思いがした。ここまで丁寧に面倒を見てもらえるのかと感動した。おしめの取り換えから、毎日の陰部や体の清拭、冷たい水(やたらに喉が渇いていた)をひっきりなしに要求する私のような患者のわがまま、中には「ナース・コール」を夜中だろうとかまわず鳴らし続ける患者もいたが、それらに嫌な顔をせずに丁寧に応対していた。「俺のようなずぼら人間には医療関係への従事は無理だな」とつくづく思わされた。
若いお二人の担当医師は、毎日二回ずつ回診してくれた。少しでも異常があれば報せてもらいたいとのことだった。若い看護師(大半が20代)の女性は朝も昼も夜も絶えず病状や点滴などの状態をチェックしてくれた。
4日目ぐらいしてやっと一般病棟(フクロウEuleの203号)に移ることができた。この病室名からすぐにHegelと廣松さんを連想し含み笑いした。この間ほぼ24時間の絶食と、「おもゆ」をすすり、ほんのわずかのおかずを食べるだけの生活を送っていたため、おもゆから「おかゆ」になっただけでも大変うれしかった。
トイレも尿道管の管を抜いた(これも痛かった)直後だけは携帯トイレだったが、すぐに病棟内のトイレ使用許可が出された。
読書とテレビの許可が下りたのもこの段階からだ。連れ合いに早速本(『中国の歴史03』講談社)の差し入れを頼み、毎日50頁のペースで読んだ。続いて『資本論』(大月書店)を乱雑に机の上に山積みした中から探し出してもらい、退院まで、250頁ほど読んだ。
リハビリテーションの重要さを再認識する
リハビリテーションは、専門の理学療法士がきて指導してくれた。ほぼ一日おきにリハビリの程度を強めながら、運動の前後、時には途中でも必ず血圧のチェックをやりながら進めた。シャワーを15分で浴びるリハビリや入浴を同じく15分で済ませるリハビリなどもあり、こちらは看護師の女性が指導してくれた。
何だか拘置所の生活みたいだな、と途中で思える余裕も出た。そういえば、最初のベッドへの拘束は、やはり懲戒房だったかな、などと考えて一人で笑ってしまった。
歩行や自転車こぎをクリアーし、リハビリの最終は、階段の下りと昇りであった。わずか一階だけの階段の昇降がひどく堪えた。息が詰まりそうなほど心臓が激しく動悸した。リハビリ士が、これは確かに負荷が大きいですから、と教えてくれた。
それでも、何とかその直後の血圧検査に合格した。
入院の途中では29日退院予定だと言われていたのだが、リハビリの結果が良かったのと、ABI検査という「動脈硬化」の程度のチェック(こんな病気で入院される人は、間違いなく動脈硬化が進んでいますので、今後十分気を付けてくださいと言われた)、また血液と尿とX線の検査結果がそれなりに良かったため、一日早く、28日退院と決まった。
その日の朝の血圧検査に看護師と同席した担当医の一人が、「もう少し血圧が高ければ、このままストップをかけて入院延期をしようと思っていたのですが、まあ合格ですね」と珍しくジョークを言った。「いや、これ以上の入院は勘弁してもらいたいですね」と私。これは全くの本音である。
午前9時過ぎに「デイルーム」と呼ばれている部屋で、最後の読書をしている時に、もう一人の担当医が訪ねてきた。入院の途中で缶コーヒーを飲みたいと言って許可をもらったり(そのため、彼はわざわざコーヒーが無糖であることをチェックしてくれた)、検査のつどその結果を教えてくれた方であるが、退院後に自宅近くのクリニックに「循環器内科」があることを調べてくれた上で、丁寧な手紙を書いてくれた。「くれぐれも無茶をせず、血圧の維持に注意してほしい」と最後の注意をされた。
薬剤師の若い女性、また前日には男性の薬剤師が病室(そのころは、ゾウの208号に移っていたのだが)に来て、いろいろ薬に関する注意を受けた。「お酒を飲む前に服用するのがいいのか、それとも飲んだ後の方がいいのか」などとわがまま勝手な質問にも嫌な顔をせず、「薬の効き目は長い時間持つため、どちらでも同じですね」と答えてくれた。
雑感
今回の事態は私には実に不幸中の幸だったように思う。救急車が来るのも実に素早かったし、この病院の選択も適切だった。また、病院の関係者の皆さん方には非常に親身なお世話で、ただただ感謝以外にない。
糖尿病との併発患者、パーキンソン病が悪化して心臓に障害を起こしている患者、腎臓病を持ちながら心臓治療を受けている患者、それとかなり多くの人が、カテーテル治療を受けていること等を身近に見聞きした。
医者も、一日に二件の外科手術をこなしながら、患者の家族との話し合いにも懇切に対応していた。若い看護師たちも、ほとんど休む暇もないだろうと思うくらいよく働いていた。
沖縄出身の看護師がいて、私が故新崎盛暉先生(元・沖縄大学学長)を存じているが、新崎さんはよく「本土の人がどれだけ沖縄に興味があるかをたしかめるために僕はこうして来ているんだよ」といわれていたという話をしたとき、彼女に「沖縄に興味をもってくださってありがとうございます」とお礼を言われた。「沖縄に興味をもたないということは、日本の歴史に興味をもたないことと同じだ」というのが私の応対。
入院経験はやはり、自分のこれまでの人生をそれなりに振り返らせるもののようだ。「俺はこれまで何をやってきたのだろうか」「やはりこれまでの課題を整理すべきだろう」などが頭をよぎる。
担当医とは違う、ある若い医者が、「この病気の治療には、今までの生き方を変更してゆっくり生活するか、それともお酒をやめるかしかないですね」という。「自分の人生を否定することはできないから、お酒を少しひかえるしかないよね」「貴方ならどうします」と私。「僕は周辺に万一そうなったらそのまま放っててくれと言っています」。そうだ、俺ももう少し頑張って課題を整理したうえで、思い切り酒を飲んで「さよなら」しよう。
2020年8月31日記
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion10068:200831〕