「 吉本隆明氏の反核異論という正論におもう 」

著者: 大木 保 おおきたもつ : 心理カウンセラー
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( 吉本隆明氏の科学= 文明史観への日常性からのまなざし!)

さて今回は、いまの日本の社会に住んでいても、なおも原発稼動に反対どころか
肯定するひとたちのなかでもとくに科学文明史観から徹頭徹尾肯定の立場をみせる
吉本氏の核肯定論についてお話をすすめてみようとおもいます。

かつて、かれの著作を読むものを畏怖させずにはおかないすぐれた思索家であり、
いまだにわたしなどは著作の恩恵に浴している吉本隆明氏が
こと「原発」に関しては現在も、かつての「反核異論」とおなじ構えでいることに
「さもありなん」とおもう半面、
その言葉たらずの頑迷さにはいらだたしいおもいをいだかされる。

(吉本氏)「核エネルギーの「本質」は自然の解明が、分子・原子(エネルギイ源についていえば石油・石炭)次元から一次元ちがったところへ進展したことを意味する。
この「本質」は政治や倫理の党派とも、体制・反体制とも無関係な自然の「本質」に属している。
(略)自然科学的な「本質」からいえば、科学が「核」エネルギイを解放したということは、
即自的に「核」エネルギイの統御(可能性)を獲得したと同義である」(「反核異論」)-

として、
科学信仰ぶりを公言している。もちろん、思索に命をかけてきたひとだから、
議論や論争における正確な概念立てを要求されているのは理解できるところなのだが。・・

さらに氏は、
「宇宙はあらゆる種類と段階の放射能物質と、物質構成の素粒子である放射線とに充ち満ちている。
半衰期がどんな長かろうと短かろうと、
放射性物質の宇宙廃棄(還元)は、原理的にはまったく自在なのだ。」(反核異論)
とも述べている。

吉本氏の「科学= 文明」論はいささか困ったもので、
科学フェチとおもえるほどの単純明快さが他の者を困惑させる。
氏の明快さが「原理的には」という留保をともなっているところに
門外漢のわたしを不安にさせる。

たしかに反核運動の人たちだけでなく、
聴くものにとっては高度にすぎる(文明論として)「正論」なのだが、
その口調は「都市論」でもみられたように
そこにはもう、若い頃の切実さはうしなわれ、
みずからの主体性が判然としない観覧席にすわっているようにみえる。

その吉本氏が3.11東電原発事故のあとにインタビューにこたえている。–

(吉本氏)「人間が自分の肉体よりもはるかに小さいもの(原子)を動力に使うことを余儀なくされてしまったといいましょうか。歴史はそう発達してしまった。
時代には科学的な能力がある人、支配力がある人たちが考えた結果が多く作用している。

そういう時代になったことについて、私は倫理的な善悪の理屈はつけない。
核燃料が肉体には危険なことを承知で、少量でも大きなエネルギーを得られるようになった。
一方、否定的な人にとっては、人間の生存を第一に考えれば、
肉体を通過し健康被害を与える核燃料を使うことが、
すでに人間性を逸脱しているということでしょう」・・

老いてからの氏はいささか主張をトーンダウンしているようだが、
かれは徹底して歴史の具体性のなかに踏み入ることを拒もうとするかのようである。
それはまた、あたかも「科学をも支配する」側を肯定さえするように。・・・
(吉本氏)「人類の歴史上、人間が一つの誤りもなく何かをしてきたことはない。
さきの戦争ではたくさんの人が死んだ。
人間がそんなに利口だと思っていないが、歴史を見る限り、愚かしさの限度を持ち、
その限度を防止できる方法を編み出している。今回も同じだと思う」・・

もちろん、わたしなどが思考する位相をはるかに超えたところから、
吉本氏は歴史についてかたっている。・・

わたしたちの矮小な異論などはいいから、
「最後には「大衆」が歴史の流れをえらんでゆくのだから」
ごちゃごちゃ言うなと、おっしゃりたいのかもしれない。

だがわたしは吉本氏のように、悠々たる文明史観にたっていられない。
わたしの凡庸たる日常からでも、
一寸の虫のまなざしで、世界をみて、かかわりたいというおもいがどうしても消えない。
氏がいうような、「倫理的な善悪」に抵触する社会状況が
いやでも、わたしを<切実に> 問いつめてくる。

ひどくあからさまな日本的な夜郎自大が支配権をもつ状況や、
さらに強大な世界マネー市場主義のマフィアぶりは
歴史的にも看過できがたい事態だと理解されるゆえに
わたしにとっても<切実> な関わりをもってくる。

氏が、その切実さもふくめて、良くも悪くも時代は究極の資本主義にさしかかっており、

社会はおおきな怒涛となって時代をうつろっていくものだというのであれば、
時代の先のきざしを嗅ぎつけようが、たいして意味の無いことになる。

すでに世界を読みきってしまった吉本氏ならではの境地なのかもしれないけれど、
あとにのこされたことは、それこそ昆虫好きとおなじ、
ただの観察マニアの高級趣味三昧でしかないのではないだろうか?

「ヒトとは、そういうものだ」というニュアンスをもつ文明史観には
わたしたちの主体性がどこにも問われることさえないようにおもえる。

吉本氏はそれでいいのだと、つまり、
おまえらはもっと日常の真ん中に立って日常をそっくり生きてみろという、
氏一流の大衆史観こそが、
いつも言葉たらずのこの「思想の巨人」のいわずもがなの遺言なのかもしれないが。・・・

その日常がわたしたちにとっていかにも「生き難い」ゆえに
こころの病が社会にあふれかえるようになってきていることから
みずからを問い、社会を問いかえすことをあきもせずつづけているのだが。・・・

ひとは快感原則にてらして選択してゆくのだという
しゃらくさい脳生理学的史観など、
いまさら聴きたくもないが。・・・

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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