斎藤幸平著『人新世の「資本論」』(集英社新書、令和2年・2020年)を一読した。
資本主義の圧倒的生産力と言う形をとった人間活動が新しい地質時代、人新世を形成しつつある。すなわち、資本主義のエネルギー・物質使用量が地球の物質代謝容量を超えてしまった。そんな時代にこそ本来のマルクス共産主義、脱成長コミュニズムが必然化しなければならないと説かれている。
気候変動を招く程にエネルギーと言う「奴隷」を酷使して、その生産力に頼って豊かな生活を享受する帝国的生産様式を脱成長コミュニズムによって乗り越えねばならぬと説かれている。「奴隷」解放=エネルギー過剰使用の廃止。
私=岩田は、ここで市民生活におけるエネルギー消費の相当に大きな部分を占める冷房と暖房について考えてみたい。
冷房は、自己周囲の温度を自分にとって快適なレベルまでに下げるために、自己周辺の熱エネルギーを外部へ排出するべく、新しくエネルギーを使用する技術である。当然外部の温度は上昇する。外部とは他者周辺であるから、他者は他者周囲の温度を他者にとって快適なレベルまでに下げるために、更に多くのエネルギーを消費しなくてはならない。すなわち、冷房は、自己と他者の間で効果相殺的技術である。
それに対して、暖房は、自己周囲の温度を自分にとって快適なレベルまで上げるために熱エネルギーを使用する。そのエネルギーは外部にもれて、他者周辺の温度を上昇させるから、他者は、他者周囲の温度を他者にとって快適なレベルまで上げるために、より少ないエネルギーを使用するだけでよい。すなわち、暖房は、自己と他者の間で効果相乗的技術である。
こういう訳で、何十年も前から夏場の電力使用量が冬場のそれを上回っている。
冷房と暖房の間にかかる本質的な差があるにせよ、ともに熱エネルギーを使用して、地球環境に放出している事に変わりない。斎藤氏の言う帝国的生活様式における冷暖房エネルギー使用量もまた気候変動の大要因であろう。
ここで、私=岩田の個人的体験を語る。1980年代末か1990年代初か、記憶が定かではないが、勤務先の大学で研究室に空調機器(エアコン)が設置され出した時、特に必要を感じないので設置しないで来た。最後には私の所だけエアコンがないのは不自然だと言うことで、学部長命令で工事されてしまった。しかし、その設置された空調機器を動かしたことはない。夏休みの研究室で額の汗が原稿用紙に落ちるのを鉢巻で止めて書いている方が気持良かったのだ。
1990年代のある夏、私が属する小研究会が環境問題NPOの部屋の一角を借りて研究会を開いたことがあったが、その部屋は冷房が効き過ぎて私にとっては決して快適ではなかった。環境問題NPOの人達は、冷房の効果相殺性格をどのように考えておられるのか、と不愉快な質問をしてしまった。
暖房に関して言えば、私=岩田は、火鉢や炬燵だけの時代を20歳台始めまで経験している。冬季室内で厚着をしない生活を知ったのは、そうそう、水洗便所を知ったのも、昭和40年・1965年から昭和42年・1967年、ベオグラード留学時代の下宿生活であった。また日本の生活では、昭和54年・1979年に北海道の札幌で公務員宿舎に入ってからだ。それも空調暖房ではなく、東京では見られなかった大型の強力ストーブのおかげであった。
現在、東京都世田谷の自宅には空調(エアコン)がない。従って、夏の冷房にも冬の暖房にもエアコンを使用する事はない。但し、効果相乗性格の暖房を拒否している訳ではないから、ガスストーブはある。玄関先に霜柱が全く立たなくなって久しい時代、ガス・ヒーターを点火する時期が相当に遅くなっている。今年はまだガス・ヒーターによる室内暖房を使用していない。
気が付いてみると、今現在、外出するときよりも自宅にいる時の方が厚着である。12月も中旬に入ると、暖房のない室内の方が陽が射している外気よりも寒いことが多いからだ。それに、外出と言っても、いつも外気の中にいつづけるわけではなく、電車の中や何等かの建物の中にいるのだ。そこは暖房が効いていてあたたかい。
夜ねる時は、昔流の湯たんぽを愛用している。布団の中は快適である。難題は、朝目覚めて、寝着から普段着に着替える時に、その普段着がものすごくつめたくなっている事だ。これはつらい。中々寝床から出られない。それも、普段着を湯たんぽにくるませてねることで解決した。こういう次第で、屋内や室内全部の空気をあたためるガス・ヒーターより局所身体だけをあたためる方が冬場の熱エネルギー使用量が減っているだろう。
私=岩田の日常生活に車もなければ、ガラケイもスマホもない。テレビ、固定電話、卓上パソコンはある。『人新世の「資本論」』が批判する「生態学的帝国主義」の生活様式からは、若干ずれている。それも、大東京なる帝国的生活の中にいるからこそ可能な贅沢であって、地方に行けば、車もスマホもなければ生活が成りたたないであろう。
最後に、脱成長コミュニズムの文化生活を考えるに、江戸三百年の京都貧乏公家の精神生活が参考になるかなと思い付いた。成長する士農工商からはずれて、富と権力を奪われた中下位の公家衆が雅楽や歌学や天文の道を保存して来た生き方は、脱成長への一つの対応であったろう。
本書第6章「欠乏の資本主義、潤沢なコミュニズム」に描かれているワーカーズ・コープと〈コモン〉中心の社会経済像、例えば、「〈コモン〉を通じて人々は、市場にも、国家にも依存しない形で、社会における生産活動の水平的共同管理を広げていくことができる。」(p.266)において、〈コモン〉をSIZ(Samoupavna Interesna Zajednica、自主管理利益共同体)にかえれば、旧ユーゴスラヴィア共産主義者同盟の1974年憲法・1976年連合労働法体制の鍵理念像そのものである。
本書の社会経済像と連合労働法体制の間にある決定的差は、脱成長の有無だ。脱成長コミュニズムと成長コミュニズム。旧ユーゴスラヴィアのコミュニスト達は、資本主義的物質的豊かさへの成長接近を国民に約束して、脱成長コミュニズムの社会経済体制をデザインしていたと言う自己矛盾を犯していた事になる。それは、1950年代後半と1960年代の市場社会主義追及の諸結果、失業増と格差急増に対するチトー・カルデリ指導部による理念論的・制度論的対応であった。旧ユーゴスラヴィアにあっては、コミュニストは、体制のデザイナーとして社会的位置を確保していた。
本書には、コミュニズムは描かれているが、コミュニストは明示的に登場していない。市民一般と労働者一般が脱成長コミュニズム社会を自然と生み出すのであろうか。姿を見せない本書のコミュニスト像を想像してみると、江戸時代の公家衆が思い浮かぶ。
令和2年12月25日
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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