『津波、地震(想定外の戦争)で原発が破壊されたらどうなるのか』
4年前の原発技術者(小倉志郎氏)の恐るべき警告
この原稿は雑誌「リプレーザ」(2007年、夏号 第3号)に掲載された山田太郎氏の『原発を並べて自衛戦争はできない』という論文である。山田太郎氏はペンネームであり、本人は福島第一原発の建設に際し、原子炉系の機器のエンジニアリング(技術取り纏め)に携わった元技術者・小倉志郎氏である。
この論文が書かれたのは2007年であり、当時盛んに論議されていた北朝鮮からのミサイルが発射されるケースなどの有事を想定した場合に日本の原発は「武力攻撃(戦争)は設計思想に入っていない」ことを、原発技術者として、明らかにしたものである。
万一、攻撃された場合の原子炉の安全性や、使用済み核燃料の安全性についても詳細に触れており、文中の武力攻撃を今回の『想定外の津波』におきかえると、驚くべき先見性をもって、その被害の戦慄すべき状況が技術的、原子炉内部の構造面などで正確に描写されている。
今回、原子炉内の状況、燃料棒がどうなっているのかについては、いまだに重度の放射能汚染によって東電自体も内部の把握できていない状態なので、小倉志郎氏の著作権の了解をいただいて、2回に分けて掲載させていただいた。(前坂 俊之)
*本稿は前坂俊之・静岡県立大学名誉教授のご仲介によって転載の運びとなりました。論者の小倉さんおよび前坂先生には心から感謝いたします。(ちきゅう座編集部)
『原発を並べて自衛戦争は出来ない』(上)
小倉志郎著
この頃、新聞やテレビをはじめとするマスメディアでは、「憲法改正すべきか否か」あるいは「第九条は今のままでいいか否か」などという議論でにぎやかである。
実は、このような憲法論議に、私たちの国に原子力発電所(以下、原発)があることが大いに関係しているのだが、その点に触れた議論をほとんど聞いた記憶がない。そこで、原発があるとどういう問題があるのか、それが憲法論議とどうかかわってくるのか、私の持っているイメージを、できるかぎりわかりやすく書いてみたい。
まず、日本の原発は、どれくらい、どこにあるかというと、電気事業連合会のHPによれば、商業用として運転中のものが五五基(二〇〇七年五月一一日現在)ある。その内訳は、日本海側に三〇基、太平洋側に二〇基、瀬戸内海沿岸に三基、東シナ海側に二基である。一九九五年にナトリウム漏れ事故を起こした「もんじゅ」発電所は、商業用ではないので、含まれていないが、日本海側にある。
原発については、安全性が確保されているかいないかが常に話題になる。推進側は「安全だ」と主張し、反対側は「危険だ」と正反対の意見をぶつけ合い、訴訟まで起きている。それらの訴えの内容は、さまざまであるが、それはさておき、これらの意見のぶつかり合いの焦点は、常に「重大な事故が起きるかどうか」ということについてである。
そして、それを検討する前提は「世の中が平和である」ことである。大地震が来ても大丈夫か。あるいは、重要な機器が故障を起こしても大丈夫か、などということを平和であることを当然のこととして議論している。しかも、ほとんどの議論では、原子炉の炉心が破壊されないか、とか、原子炉と繋がるシステムから放射能が原発の外部に洩れないか、と言うことが問題とされている。
たしかに、そのような議論をすることは、大切であろうが、もし、その当然としている平和という前提条件が無くなってしまう事態になったら、つまり、戦争(最近は、これを「有事」と言うらしい)になったら、原発にはどんな問題が生じてくるのだろうか。この私の文章では、この問題を論じることを第一の目標としたい。
◆原発の特徴
ところで、それを論じ、理解していただくためには、原発の原理、構造や仕組みについて、ある程度の基礎的なことを知っておいてもらう必要がある。これが悩ましい。なぜなら、基礎的なことだけでも、くわしく説明するとなると、仮に、私に能力があったとしても大部の本になるだろうし、そんな能力は私にはないのである。
どうしても、その辺のことを知りたいと望む方には、既に立派な教科書がたくさん出版されているので、それらを読んでいただくしかない。ここでは、議論を先に進めるのに最底限必要な、基礎的な知識の中のほんの一部のことにのみ触れておきたい。
まずは、火力発電所と原発との違いである。水を加熱し、蒸気を発生させて、その蒸気でタービン(羽根車)を回し、タービンと結合した発電機を回し電気を起こすという発電については、両方とも同じ原理なのだが、違うのは、水を加熱するための熱源である。火力では、石油、石炭、あるいは、天然ガスなどの、いわゆる化石燃料を燃やして熱を発生させて、この熱で水を加熱する。
それに対して、原発では、ウラニウム(以下、ウラン)を主成分とする核燃料を原子炉に入れて、核分裂連鎖反応(以下、核反応)を起こさせ、その際に発生する熱を使って水を加熱する。
もう少し詳しく述べると核燃料は、ウラン235とウラン238と言う同位元素の混じったもので、核反応を起こすのは、前者ウラン235の方であり、後者ウラン238は、原子炉内でウラン235の核反応にともない発生する中性子を吸収してプルトニウムに変化する。このプルトニウムこそ、原子爆弾の材料になりうる物質であり、且つ、半減期が二万四〇〇〇年と言う放射能を持つ、世界でもっとも危険で、取扱いのむつかしい物質の一つなのである。
核燃料に含まれるウラン235が熱を発生させるのに必要な核反応とは、どういう現象かというと、ウラン235の原子核が、中性子を吸収して、より小さな原子核に割れること、それが次々に連鎖的に起きる現象である。
これは、化石燃料が燃えるのとはまったく違う現象である。同じように燃料という名前がついていても、燃え方の中味がまったく違うことを忘れては議論が進まない。
化石燃料が燃えると主成分の炭素は炭酸ガスに、水素は水蒸気に、不純物は灰や大気汚染の素になるガス(例えば、亜硫酸ガスなど)になる。核燃料が核反応を起こすとウラン235の原子核は、ウランより小さく、ほとんどが放射能を持つ別の物質の原子核になり、ウラン238の一部は、ウランより重い原子核で放射能のある物質・プルトニウムになる。
即ち、核反応を起こすと、実に多種多様な放射能を持つ物質が生まれる。化石燃料のように灰を残して、主成分がガスとなって、大気中に放出されるのとは違い、最初に原子炉に入れた核燃料の中に、核燃料の主成分が変化してできた多種類の放射性物質が溜まるのである。この溜まった放射性物質の量は、核反応が十分起きた核燃料の中ほど多い。
専門外の方なら、ここまで読んだだけで、いいかげんうんざりされると思うが、ここが急所なので我慢をしてほしい。つまり、原発で最も危険なのは、原子炉そのものではなく、核反応が十分に起きた核燃料、特に、原子炉内で核反応をさせた使用済核燃料なのである。原子炉自体も、核暴走事故(例:チェルノブイリ事故。一九八六年四月二六日、ウクライナ共和国─当時はソビエト連邦ウクライナ共和国─のチェルノブイリ原子力発電所4号炉で起きた。)や原子炉の冷却不足による炉心溶融(例:スリーマイルアイランド原発事故。
以下、TMI事故。一九七九年三月二八日、アメリカのペンシルバニア州スリーマイルアイランド(TMI)原発の二号機で発生した。)などの大事故を起こす危険性はあるが、原子炉の外部に取り出された使用済核燃料だけでも、それが破壊されて、その中に溜まった膨大な放射性物質が、万一環境に放出された場合の危険性は言葉で表現することも至難なくらい大きい。
上記のような事実があるにもかかわらず、これまでの原発の安全性論議が、原子炉自体、あるいは、その中心部の炉心の安全性に集中してきたのは、実におかしい話である。多分、原発の運転中、核反応が起きている箇所が、原子炉だけであり、日本に原発が導入される時期(一九六〇年代)に、もっとも難しい技術が、核反応を安全に制御することであったことから、原子炉本体にかかわる技術がもっとも注目を浴びていた頃の思考習慣によるのではないかと私は推測している。
ここでは、原子炉の危険性と共に、使用済核燃料の危険性についても視野に入れながら、平和という前提条件が崩れた場合、原発にどういう問題があるかを考えて行きたい。
◆平和の下での原発の安全性
まずは、平和であるという前提の下での原発の安全性について、発電所が市民向けにつくったPR資料などでどのような説明をしているか見てみよう。そこでは、「放射性物質を封じ込める5つの壁」という表現が使われている。これは、次のようなことを意味している。
第一の壁:ウランは酸化ウランの粉末を焼き固めたペレットの形になっているから、それが分裂した後の放射性物質に変わっても、そのペレットの中に封じ込められる。
第二の壁:ペレットは、金属の管(以下、燃料被覆管。一般にジルコニウムという金属製の管)の中に詰められているので、この管が破れないかぎり、放射性物質は封じ込められる。
第三の壁:核燃料は原子炉圧力容器の中にあるので、この容器が破れないかぎり、放射性物質は封じ込められる。
第四の壁:原子炉は原子炉格納容器の中に置かれているので、この格納容器が破れないかぎり、放射性物質は封じ込められる。
第五の壁:原子炉格納容器は、原子炉建屋の中に置かれているので、この建屋が破れないかぎり、放射性物質は封じ込められる。
これを見て、原発の安全性の要は「放射性物質を確実に封じ込める」ことと発電所の管理者が考えていることがわかる。それにしては、原子炉から取り出した使用済核燃料については何も触れていないのは不可思議である。これについては後ほど触れたい。
平和時の原発の安全性については、その他、次のような条件に対して、設計的に対処している。
1. 地震に対する安全性:地震に耐える強度や機能を持たせるような設計をする。(耐震設計)
2. 単一故障に対する安全性:例えば、原子炉と圧力的に繋がっている重要な配管が一ヶ所破断したと仮定して、原子炉を安全に保てるようにシステムを
設計する。結果として、普段は待機していて、非常事態にのみ使うたくさんの補助のシステム(工学的安全システム)を付属設備として備えることになる。
3. 過渡現象に対する安全性:例えば、発電機の負荷が急に無くなった場合には原子炉を急速にストップさせる必要があるが、そのような場合に原子炉を安全に保てるようにシステムを設計する。このためにも、2に準ずる補助システムを備えている。
4. 発電所を運転するのに必要な電源の喪失に対する安全性:複雑な発電システムを運転するために沢山の機械や計測制御系統が電気で動いているが、その電源が切れても、原子炉の安全が保てるように、バックアップとして非常用電源設備を設ける。特に、2と3の安全にかかわるシステムの電源は全て非常用電源によっている。
◆武力攻撃は設計条件に入っていない
いよいよ、平和という条件が崩れた時のことを考えたい。 まず、一番先に知っておいてほしいことは、原発の設計条件に、武力攻撃を受けても安全でなければならない、などということは入っていないということである。先に記した現在ある商業用原発五五基は、いかに発電コストを小さくできるかという経済性を最優先で設計されているから、武力攻撃を受けた場合、どうなるかは少なくとも設計上はわかっていないのである。
従って、日本に対する仮想敵国から武力攻撃がありうると考えるのであれば、そのような場合に、原発はどうなるかは、今から考えておかねばならないのは当然であろう。
とはいえ、現在、私たちの前に、仮想敵国の武力攻撃にはどんな種類・規模のものがあるのかなどというメニューが揃っている訳ではないし今後、それが揃う保証もない。なぜなら、そもそも、武力攻撃の方法などは、国家の軍事機密であって公表などされるわけがないからである。そういう事情から、以下の検討は、武力攻撃のすべての場合についてではなく、私が思いつくことのみを前提に論じることになる。
◆武力攻撃下の原子炉の安全性
原子炉が安全か否かの評価は、一般には、第二の壁、即ち、核燃料のペレットを詰めている燃料被覆管が破れないかどうかで行っている。原発が武力攻撃を受けた時にもそのような状態が保てるかが問題である。
ここで、また、火力発電所と原発の決定的な相違点に触れねばならない。火力発電所の場合、武力攻撃によって、発電できなくなったとしたら、ボイラーへの燃料の供給を止めさえすれば、発電所の運転は無事に止められる(但し、重油タンクや天然ガス貯蔵タンクなどを攻撃された場合は別である)が、原発の場合、原子炉内にある核燃料は、核反応が止まっても、核反応によって新たにできた放射性物質が、放射線を出すとともに、発熱もするので、その発生する熱を水で冷却してやらねば、核燃料の温度は上がり続け、最後には燃料被覆管が溶けて破れてしまうのである。さらに温度が上昇すれば、管の破れに止まらず核燃料自体が溶け炉心が崩壊するという事態になる(その実例がTMI原発事故)。
TMI事故では、運良く事態がそこまでであったが、もし、崩壊した炉心が原子炉内に残る水と反応して、水蒸気爆発をすれば、原子炉の破裂という事態にもなりかねなかった。原子炉を内部に納めている原子炉格納容器は、こんな過酷な条件で設計などしていないから、そんな想定外の状況では、原子炉格納容器も破損する可能性がある。
その外側の原子炉建屋にいたっては、実際は、気密はそれほど厳密に保たれてはいなくて、原発の運転中は、空調設備の運転制御によって、建屋内部の気圧をわずかに大気圧より下げ、万一内部に放射性の物質が拡散しても、建屋の外部には洩れないように工夫しているが、空調設備の電源が、武力攻撃の際に維持できる保証はない。
ところで、肝心の原子炉が停止の後に行わねばならない冷却は、武力攻撃を受けた場合にできるのだろうか。冷却には、原子炉内の水の循環とその原子炉内の水から熱を海に運び出す、補機冷却システムの働きが必要である。例えば、海水を取り入れ、原子炉水から熱交換器を介して、熱を受け取り、海に戻すには、海水用ポンプ、配管、熱交換器、電動機、非常用電源(多くはディーゼル発電機)、ディーゼルエンジン用燃料(多くは軽油)タンクなどが必要であり、それらの多くは、原子炉建屋の外の補機建屋、あるいは、なんと屋外にむき出しで置かれているものも多いのである。屋外にあるこれらの機器は、おそらく、小さな通常爆弾でほとんどが破壊されるか、機能停止にいたるであろうし、補機建屋などは、機器を風雨から護る目的で、武力攻撃に対する強度など持っていない。
こういう現状を見たら、武力攻撃を受けたら、ほぼ確実に原発の原子炉の冷却ができなくなると考えるべきであろう。すなわち、原子炉の安全が保てないということである。
原子炉が安全に保てない事態が発生するなどということは、もともと設計上考えていないのだから、それから先、どういう事態に発展するかは未知の世界である。
私の想像では、大量の放射能が屋外に放出される可能性があると発電所管理者が認識すれば、公的な機関を通じて、地域住民に避難勧告、あるいは、避難命令が出され、地域の交通機関は大混乱におちいるに違いない。戦時ではなかったが、チェルノブイリ事故時には一〇万人と言われる人口の街が一挙に無人になったというその避難の様子はどうだったのか、私は見ていない。
先日、見た映画「見えない雲」(グレゴール・シュニッツラー監督作品)に原発事故で避難する市民の混乱の様子を示す場面があったが、これも平和な時
であった。これが、「有事」であったら、さらに混乱はひどいものになるだろう。鉄道は、停電のためにストップし、道路はいたるところで閉鎖され、実際には、市民が避難することなど不可能に近いのではなかろうが、誰にも想像がつかないと思う。
(続く)
『原発を並べて自衛戦争は出来ない』(下)
小倉志郎著
◆武力攻撃下の使用済核燃料の安全性(注・今回はどうなったのか)
核燃料は原発が停止する定期検査から次の定期検査までのほぼ一年間、原子炉の中で核反応をした後、原子炉内にある核燃料全体の約四分の一ずつ取り出され、新しい核燃料と交換される。つまり、核燃料は平均すると運転時間で約四年間、原子炉の中で使われ、取り出される。取り出された核燃料は、まだ核反応する能力がゼロになった訳ではないのだが、ウラン235が消費されて核反応の能力が下がり、原発が定格出力の発電ができなくなる恐れがあるために、新しい核燃料と交換するのである。
そのような使用済核燃料は、上に述べたように、極めて強い放射線を出しているので、万一、人が近づいたら、あっと言う間に致死量の放射線被曝をしてしまう。そのために、定期検査停止中の新・旧核燃料の交換作業は極めて慎重に行われている。実際に、原子炉から使用済核燃料を取り出す時は、原子炉の上方一〇数メートルまで水を張り、その水を放射線に対する遮蔽材として利用し、水中で使用済核燃料を扱っている。原子炉の隣には、燃料貯蔵プール(以下、燃料プール)があり、水中を移動させた使用済核燃料を燃料プールに貯蔵する。
燃料プールの中には、プール底に固定された燃料貯蔵ラック(以下、燃料ラック。イメージとしては巨大な傘立)があり、使用済核燃料は、その燃料ラックの中に挿入されて、使用済核燃料の互いの距離がある限度以上に近づかないようにミリ単位の精密さで位置を固定される。
なぜなら、先にも書いたように、使用済とは言えども、これらの核燃料はまだ核反応を起こす能力が残っているから、多数の使用済核燃料があまり接近して置かれると、そこで核反応が始まってしまうからである。
核反応を起こさないために、どの程度の余裕を持たせているかというと、燃料プール内で移動中の新品の核燃料(核反応を起こす能力が高い)が一本、何らかのミスで、燃料ラックの上に墜落した時に、どんな位置に落下したとしても、核反応が始まらないように、設計している。
そのような設計における余裕は、原発導入の初期には相当大きかったが、六ヶ所村核燃料再処理施設(以下、再処理施設。現在試運転中)の建設が大幅に遅れたために、予定では、六ヶ所村に送られるはずだった、使用済核燃料が原発に「足止め」されて、原発内の燃料プール内に溜まり始めるという事態が生じた。
このために、ほとんど全ての原発の燃料プールで、貯蔵容量(収容できる使用済燃料の数量)を増やす改造工事が行われた。これは、即ち、燃料プール内における使用済核燃料の互いの距離を、初期の設計よりも縮めるということであった。言い換えれば、燃料プール内で核反応が起きないための余裕が少なくなったということである。
各電力会社にとって、この燃料プールの貯蔵容量アップの改造は至上命令的なものであった。なぜなら、もし、燃料プールが、先に原子炉から取り出した使用済核燃料で満杯になってしまえば、原子炉の核燃料の交換が不可能になり、結果として、原発が物理的に運転停止に追い込まれるからである。
現在、六ヶ所村の再処理施設は、使用済核燃料を使っての試運転が始まったばかりで、数々の故障を起こし、いまだに、いつ無事に稼動できるか不確かな状況である(「現在、アクティブ試験は燃料貯蔵プール施設耐震計算ミス問題の影響で、第四段階に移行できずにいる」〇七年五月三〇日河北新報)。
そこで、各電力会社では、万一、六ヶ所村へ使用済核燃料を送り出せない場合に、原子炉の運転を続けるために、原子炉建屋内の燃料プールの他に使用済核燃料を貯蔵するための別の設備を原発の敷地内に増設しようとしている。その設備は、プール方式ばかりではなく、冷却装置付きのキャスク(容器)方式のものもある。
非常に放射能の高い使用済核燃料が、そのような形で、各原発の敷地のどこかに溜まり始めようとしている。六ヶ所村の施設が完成しないまま時間が過ぎれば、原発が運転停止に追い込まれるか、さもなければ、使用済核燃料が原発の敷地の中に際限なく溜まり続けるわけである。
先に書いたような使用済核燃料の貯蔵状況の下で、武力攻撃を受けたらどういうことになるか、想像してみる。
まず、原子炉建屋内の燃料プールの場合はどうなるだろうか。燃料プールは、原子炉格納容器(第4の壁)の外側で原子炉建屋の最上階にある。つまり、燃料プールの上には建屋の天井があるのみである。この天井は、その上に機械を設置しないので、天井自体の重さを支える強度しかない(但し、豪雪地帯の原発では、特に積雪に耐えるために強度を増してある)。つまり、ごく小さな通常爆弾に対しても無防備と言ってよいであろう。
天井を突き抜けて、燃料プールに爆弾が落下した場合、どうなるか。爆発の衝撃によって、何が起きるであろうか。
第一に、使用済燃料の破損・破壊が起きるであろう。第二に、使用済燃料が爆発の力によって位置がずれて、核反応が起きるかもしれない。これは、燃料プールが、むき出しの原子炉になってしまうことを意味している。
どの程度の核反応になるかは、燃料プール内の使用済核燃料の位置のずれ方によって、さまざまな様相を呈するだろうが、燃料プールは、そもそも、そこで核反応が起きることなど想定していないから、核反応を停止させる装置を持っていない。即ち、起こってしまった核反応は成り行き任せにならざるを得ない。
予想しない核反応が起きた東海村JCO臨界事故(一九九九年九月三〇日、茨城県那珂郡東海村でJCO〈株式会社ジェー・シー・オー〉の核燃料加工施設において発生)作業員がウラン溶液をバケツでタンクに入れている最中に事故が起きたのだが、燃料プールに溜まっているウランの量は、各原発の出力や運転年数によるけれど、JCO事故のタンクの少なくとも数千倍はあるであろう。おそらく、核反応の規模も桁違いに大きく、被害も甚大になるだろう。JCO事故の場合、作業に携わった作業員は三人とも、核反応による中性子線を浴びて、うち二人が死亡した。
燃料プールで核反応が起きた場合、膨大な量の中性子線が建屋、及び、敷地の内外に照射される。JCO事故の場合でもそうであったが、このような場合、事実上、中性子線を止める方法は無い。従って、原発の敷地内に居るほとんどの人は、即刻避難をしないかぎり、致死量の被曝をすると考えるべきであろうしかし、迷路のような原子炉建屋内に居る人には、即刻避難は至難である。
燃料プールの中では、核反応の熱で高温になった、しかも、破損した使用済核燃料から放射性物質が大量に漏れ出し、天井の破れた原子炉建屋から大気中に放出される。付随して水蒸気爆発が起きれば、原子炉建屋の破壊も進むかもしれない。
JCO事故の場合は、平和という条件の下で、約二〇時間後に核反応を止めることができたが、燃料プールの場合、核反応の規模、平和でないという条件の下で、いったい、誰がどのようにして、いつ、核反応を止めることができるのか、私には考え付かない。
こんな状況で、原発内で、何が起きているかを把握すること自体が、所員ですら至難であろう。原発のある地域の人々にどのような対応をとれと、誰が指示を出せるだろうか。
また、被害発生の直後は、死者や重傷者の救出、人々の避難などでも、大混乱になるだろう。長期的には、その時の気象状況によるであろうが、周辺の広大な土地が永久的に、人の住めない放射能汚染状態におちいるだろう。この結果は、戦時ではないが、旧ソ連のチェルノブイリ原発事故の二一年後の現状を見れば明白である。
原発の敷地内の原子炉建屋とは別の場所に使用済核燃料貯蔵設備が設けられた場合でもそこが通常爆弾で攻撃されれば、上に書いたことと同様なことが起きうるのである。
六ヶ所村の再処理施設が、試運転を完了して、正式に稼動できるのはいつかはわからない(私個人としては、その技術的な至難さから、今後も無事に稼動できないだろうと想像している)が、仮に、稼動して、原発の敷地から、順次、使用済核燃料が六ヶ所村に向けて、搬出され始めても、原発の燃料プールで貯蔵する使用済核燃料はゼロにはならない。
原子炉から取り出したばかりの使用済核燃料は、そうとう長期間、発熱を続けるので、その期間、燃料プールで冷却をする必要があるからである。そして、使用済核燃料が全国の原発から集まる六ヶ所村の再処理施設は、原発よりもはるかに武力攻撃に対しては危険な存在になることであろう。
◆武力攻撃の可能性
二〇〇一年九月一一日に米国で起きた「同時多発テロ」や、現在、イラクで起きている武装勢力による自爆攻撃の有り様を見れば、通常爆弾を原発に落とすことは不可能とは言えない。その「ゲリラ」的であり、「自爆」的であるという両方の性格を持った攻撃には、どんな強力な軍隊にとっても、防ぐことは不可能と言ってよいだろう。世界最強の米軍がイラクの武装勢力の攻撃にお手上げ状態なことがそれを示している。
別のほとんど防御不可能な攻撃は、巡航ミサイルによる原発への攻撃である。これは、レーダーに検知されない低空飛行で飛んで来るもので、防ぎようがないが、韓国が既に、日本の太平洋側を除く日本のすべての原発を射程に収めた射程一〇〇〇キロ級巡航ミサイルを配備したという情報がある(オーマイニュース二〇〇六年一〇月二七日、松本洋光)。北朝鮮が巡航ミサイルを開発したという情報はないが、「自爆」を覚悟すれば、ジェット戦闘機によっても巡航ミサイル的効果は得ることは可能である。仮想敵国の兵士が、「自爆」を覚悟するほどの憎しみを、日本に対して持つとすれば、こういう攻撃も可能性を否定できない。
◆憲法論議との関係
憲法を「改正」すべきと主張する人々は、日本をミサイルで攻撃する可能性のある北朝鮮のような国があるから、正規の自衛軍を保有すべきであり、それならそうと、憲法第九条を書き換えて、そう明記すべきだと言うのである。実際、一昨年秋に公表された自民党の新憲法草案では、現憲法の九条第二項が書き換えられて「自衛軍の保持」が明記されている。
しかし、北朝鮮がどういう動機でそんな攻撃をしてくるか、ということについては、何も検討がされていない。自衛軍を保持したいという考え方の底には、日本人を拉致するような国、金正日独裁の国、即ち北朝鮮は何をするかわかったものではない、と言う北朝鮮に対する「性悪説」があるだけである。
その一方で、いくら戦争になっても、北朝鮮は、原発を攻撃するような恐ろしいことをしないだけの自制心を持っているはずだと考えているのだろうか
そうなら、北朝鮮に対する「性善説」を採用していることになる。これは、明らかに矛盾であるが、自衛軍を保持したいと考える人々が、そのような矛盾した態度を、意識的にとっているのか、無意識的にとっているのか、私は知らない。
北朝鮮「性悪説」を信じ、憲法を変えて正規自衛軍を持てば、日本の、及び、私たちの安全を護れるという主張をする人々は、原発に対する武力攻撃があることを覚悟し、真剣にその場合の原発防護策を検討すべきだし、その場合、原発に対する「自爆」的「ゲリラ」攻撃に対しては、正規自衛軍があろうと無力であることを認めた上で検討をし、具体的にどんな防護策があるか提示すべきである。
もし、北朝鮮に対して、「性悪説」を捨て、「性善説」を採るのであれば、そもそも北朝鮮は脅威ではなくなるので、議論はまったく変ってくる。その先のことはここでは触れない。
北朝鮮ばかりではなく、どの外国とであれ、あるいは、アルカイダなどの国籍不明の武装勢力とであれ、ひとたび武器を使用した紛争に日本が巻き込まれたら最後、原発が武力攻撃をされる可能性を覚悟せざるを得ない。その場合でも、原発を安全に護ることは不可能といって良いことは、既に説明をした。平和の下でなければ、原発は安全を保てないことは、原発の原理的・構造的な宿命なのである。
これ以上、くどくど説明は不要であろう。原発を国内に抱えているわが国の状況では、どんなもっともな理由があろうとも、国家であれ、武装集団であれ、どんな相手からも、わが国に対する武力攻撃を受けるような事態をつくってはならないのである。
そのためには、国際紛争の解決の手段としての軍備を持たずに徹底的に、平和的な手段で国際紛争を解決する努力をするのが国家滅亡を避けるための、もっとも現実的な方法なのである。これは既に、現・日本国憲法(特にその前文と第九条)に書いてあることであり、人類で初めて原子爆弾を投下されるという悲惨な体験をした日本においては、戦争直後も「現実的」な指針であったし、当時よりも武器・兵器が発達し、多数の原発が存在する現時点では、なおさら「現実的」な指針になっているのである。
いよいよ、私の文章は終わりである。ここまで読んでくれた読者に感謝するとともに、最後に、次のことをおぼえておいてくださり、できれば、あなた自身の言葉で、身近な人々に伝えてくださることを期待したい。
A.原発に対する武力攻撃には、軍事力などでは護れないこと。したがって、日本の海岸に並んだ原発は、仮想敵(国)が引き金を握った核兵器であること。
B.一たび原発が武力攻撃を受けたら、日本の土地は永久に人が住めない土地になり、再び人が住めるように戻る可能性が無いこと。
初出:季刊誌『リプレーザ2007№3夏号』掲載
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study388:110420〕