『叢書ヒドラ――批評と運動』第一号が創刊された。
「ヒドラ刊行宣言」には、次のようにある。「わたしたちは、現在の日本の状況を「社会総体が資本のもとへと、排除されつつ包摂されている」ような事態として捉える。本書は、以上のような問題意識を共有した同人たちにより創刊される。ヒドラとは、ギリシア神話に出てくる多頭の怪物である。英国の歴史家ピーター・ラインボウとマルクス・レディカーによれば、ヒドラとは、資本制の本源的蓄積期以来登場する、資本制的に組織された秩序による包摂に抗する者たち、あるいはそこから排除された者たち、そうした秩序に異論を吐く者たちである。その意味でわたしたちもヒドラである。あなたがた読者もヒドラでありうる。目指しているのは、〈三・一一〉により露呈した日本社会の問題点の根本からの歴史的検証と総批判である」と。
今号の目玉のひとつは、評論家の太田昌国とエコノミストの水野和夫の対談(司会・菅孝行)「資本主義――〈外部〉の消費の果てに――コロンブスの「発見」と利子率革命の意」である。
対談の切り口は、四〇〇年ぶりの低利子率(イタリアのジェノヴァ共和国の国債利回りが二・〇%を下回った最初の年が一六一一年)とコロンブスの新大陸発見から五〇〇年という超ロングスパンでの近代世界資本主義の歴史の総括である。近代世界は、この四、五〇〇年の大きなサイクルを終えて、次の時代への移行期にある。そうしたいわば文明史的な転換期としての現在の行方を展望する対談になっている。
そしてまた、九月に国会で強引に採決された安保法制や、TPP交渉に見られるように、日米関係が劇的に再編されつつあるこんにち、極右反動イデオロギーに依拠する安倍政権が「対米従属」を推進するというねじれ現象をどう見るべきなのかについて、興味深い討論がなされている。
もうひとつの目玉は、中山智香子「世界システム論の潜勢力:ヘゲモニー論を超えて」だ。中山は、二〇世紀の経済学派のひとつオーストリア学派の研究者だ。その中山が従属学派として知られたA・G・フランク、G・アリギ、S・アミンらの理論を再検討している。従属学派は、第二次世界大戦後の南北問題を、貿易を通じた先進諸国(中枢)による発展途上諸国(周辺)の搾取・支配の結果とみなし、第三世界の解放闘争にコミットした。しかし第三世界諸国の政治的分岐や混乱、さらには途上国とみなされてきた国々の経済成長などの現実の変化により再考を迫られた。その結果、日本の経済成長や中国の経済大国としての台頭を分析できる世界システム論へと転回したのである。
しかし、世界システム論は、単なる世界経済の分析枠組みなのではない。世界経済の歴史的変遷をヘゲモニー国の推移として捉えることで、帝国主義的な世界支配の盛衰を批判的に分析・展望する政治的な潜勢力を秘めているのだ。中山は言う、「世界中に広がる植民地に危機を転位することで成立していたイギリスのヘゲモニーがまさにそれゆえに衰退し、次に植民地をもたずに世界中を「保護」するという大義名分でヘゲモニーを握ったアメリカが保護の変質とその露呈によって衰退したこと、これらは世界システム論における「世界」支配が、それ以上の広がりをもてなくなったことを意味している」と。こんにち米国のヘゲモニーの衰退は明らかであり、それが対日要求の収奪的な性格を強めているのだ。
三つ目の目玉は、内藤酬「核をめぐる構造の起源――三・一一以降の核」だ。内藤は、素粒子物理学から核兵器と核戦略の研究へとシフトした研究者だ。その内藤が米国の原子爆弾開発計画「マンハッタン計画」に見られる「科学の体制的構造」の成立と展開を分析して、戦後日本の原子力政策を批判している。内藤は言う、「三・一一が暴露した核と科学の構造は、マンハッタン計画に源流をもつものであり、核物理学とともに始まった科学の体制的構造は、生命科学の目覚ましい発展によって、今や物質的自然と人間の関係にとどまらず、生物的自然と人間の関係をも深く蝕むものになっている。現代の科学者たちが示す醜態には目を覆いたくなるものが少なくない。このような科学と科学者のあり方に対して、広重〔徹、科学史の研究者〕は「科学の前線配置を変え」なければならず、そのために「科学のコントロールの主導権を資本や国家からわれわれの手にとりもどす努力が必要である」と指摘し、科学は「全人民的なコントロールのもとにおかれねばならない」と主張する。「科学の前線配置を変え」なければならないという指摘は、三・一一以降においてこそ喫緊の課題であるといえよう。そしてそれは現代の科学と科学者をグローブス〔マンハッタン計画の責任者〕の呪いが込められた体制から解放することでなければならない」と。この四年半の時間は、反原発運動をはじめとする「科学の前線配置」を変えるための時間であったのだということがわかるだろう。
ほかにも、ベテラン批評家で編集責任者の菅孝行、そして中堅および若手世代の友常勉、山家歩、伊吹浩一、清水唯史、大岡淳、中村勝己ら編集同人たちによる意欲的な論考が揃っている。編集責任者の菅孝行は、「〈組織戦〉論ノート」を執筆している。戦後日本の左派政治運動の瓦解、市民社会の変容(「アジール(避難所)」の消滅)、労働運動(生産管理闘争)の遺産、九州の大正炭鉱労働運動から生まれた文化活動「サークル村」の未発の可能性について論じている。
日本思想史の友常勉の「資本主義的複合体と空間支配」は、米国ロサンゼルスのスラム「スキッド・ロウ」における、もはやプロレタリア(無産者、賃金労働者)でさえないようなアンダークラスの人々の生活と彼らに対する行政の施策を「産獄複合体」や「本源的蓄積」の観点から描いている。フーコー研究者の山家歩の「統治性とグローバリゼーション」は、七〇年代以降明らかとなった「福祉国家の危機」、グローバル化した二〇〇〇年代に入り露呈した国際金融システムの崩壊的危機を背景に、資本と国家にとり「統治性」という課題が前景化しているとする。アルチュセール研究者の伊吹浩一の「無意識の政治」は、新自由主義がグローバルに接見する現代において、私たちは本当に自由であるといえるのかという問いをして、その答えをカント哲学とフロイト精神分析のなかにさがそうとしている。
演出家の清水唯史の「来たるべき水俣病」は、沖縄米軍基地問題、在日朝鮮・韓国人への差別・排外主義、福島原発事故による棄民政策などに共通してみられる暴力により「鎮圧状態や拘禁状態に置かれた多くの人びとを柔軟に貫く『異質的統一戦線』の可能性を探ってみたい」とする。劇作家の大岡淳の「劇詩 帝国」は、二〇一〇年に上演された戯曲を活字化したものである。五年前の〈三・一一〉により、それ「以前の自分の仕事が本当に風雪に耐えうるかどうかも、審問されている気がしてしまう」が、「本当は、三・一一などなかったかのように――そのような危機的事態など当然ながら織り込み済みであったという気概で――創作に臨みたいもの」だと述懐している。イタリア政治思想史研究の中村勝己の「イタリア・オペライズモ群像」は、これまでグラムシの陰に隠れて日本にはほとんど紹介されてこなかった感のある新左翼理論潮流のオペライズモの系譜を紹介し、その現代的義を問う論考である。
いずれも力作揃いであると思われる。これからの二年半で五冊の叢書を刊行する予定だ。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study705:160208〕