(1)
鈴木邦男は不思議な存在だった。これは他でも書いたことだが、1970年代の半ばから新左翼も含めて左翼が影響力を減衰させていく中で、その空白を埋めるように現れた刺激的な人物だったからだ。彼は伝統的な右翼から決別した「新右翼」を創り出した。彼は民族派を名乗る存在であって、右翼という範疇を引きつぐ存在だったが、伝統的な右翼が体制や権力にいうならそれと癒着した存在だったに対して反政府・反権力の言動を展開した。政府や体制に対して反抗的な立場にあるのは左翼あるいはそれと親和的な関係にあるリベラリストと見られていた時代に別のところから反体制や反権力を立場とする存在が出現したからだった。鈴木邦男は左右の立場を超えた類まれな思想家と言ってよかったのだった。僕はトークライブなどで彼と何度が談義をしたのだが、印象にのこるのは爽やかさだった。そういう人物には出会うことが稀有だった時代に幸運にも出会えた存在だった
彼とはここ何年間は合う、また、討議したりする機会はなかった。それは彼の病気によったのだが、その彼が僕らに向けたメッセージとして、また、彼の思想を集大成したものが『天皇陛下の味方です』である。この本は2017年に発刊されているのだが、なかなか手に入りにくく、僕は最近、やっと手にいれた。この本を論評することには彼に対する追悼もまれているが、それは僕らが、僕なりの国家についての現在的考えを提示することでもある。この書は鈴木が自己を天皇主義者として自己規定しながら、現在的な国体論を提起しているのだからだ。それに応えることになっているかどうかは別にしである。
(2)
左翼が社会的な影響力を喪失、あるいは減衰させてから多くの時間が経った。この時期は日本の政治が劣化状態にあることを露呈させた。安倍晋三が長期政権の座にあり、酷い政治を展開したことがそれを端的にしめしている。俗にいう安倍政治が支配した時代である。いつも三の日(月の初めの三日)に澤地久枝さんが提唱した「安倍政治を許さない」というポスターを一斉に掲げる行動があったが、本当にひどい政治が横行していた。この安倍は特定秘密保護法や共謀罪、安保法案(戦争法案)を国会での強行際決を取って成立させたが、憲法の改定を目論んでいた。この安倍政治に対する反抗と抗議の行動は展開されてきたが、それは散発的ものに終わった。この要因にはいろいろのことが指摘されるだろうが、その根本的な要因として、戦後の反体制・反権力の中心に位置してきた
左翼が基軸的な理念を失い、混迷状態にあることだった。憲法改定の動きや
原発推進に対する闘いがあったのだが、その中で僕らは基軸的な理念の空白、あるいは不在を埋めることはできないできた。反体制・反権力の基軸的な理念が力を失っていく事態の中で左翼は理念の中心をリベラリズムや民主主義に移行させ、自己の理念の空洞化に対応しようとしてきた。しかし、そうであるにしても、リベラリズムが空洞を満たすには何かが足りないことも実感してきた。
鈴木は安倍政治の酷さを指摘しているが、この安倍政治の現象を右向け右の時代として取り出している。具体的には「ヘイトスピーチ」が横行する時代として。安倍政治と「ヘイトスピーチ」は連関するものであり、同じ政治的現象である。安倍は安全保障の名のもとに日本を戦争のできる国にすることを目論見、それに呼応するのが「ヘイトスピーチ」活動である。これは愛国運動として展開されてきたのだ。鈴木はこの安倍政治にどう立ち向かおうとしてきたのか。
(3)
安倍政治に対して出てきたのは「立憲政治」を対抗理念とする立憲民主主義であるが、鈴木は天皇リベラリズム、その国体として対しようとしてきた。ここには象徴天皇としての今上天皇(平成時代の天皇)の評価がある。安倍は憲法9条を中心に対する憲法改正を提起しているが、それには天皇条項の改正も含まれている。天皇の地位を象徴から元首にするというものである。ここでは天皇の位置については明瞭な概念規定はないがゆえに曖昧なものであり、天皇の政治的利用が危惧されるが、この憲法改正の動きに対して最も抵抗してきたのは平成時代の天皇(上皇)である。
これは天皇のあるべき姿から現天皇の言動を批判する権力保守、あるいはそれにつながる連中の行為であるが、彼らは一般に天皇を象徴天皇から戦前の天天皇に戻そうとする天皇主義者とみなされている。それに対して最も抵抗したのは平成時代に天皇(上皇)であった。鈴木はこの天皇(上皇)を評価し、安倍らの権力保守の面々を反天皇主義者とする。安倍らは天皇をかつての天皇に戻そうとする天皇主義者とみなされているが、現在の天皇に反する反天皇主義とみている。ここの評価はおもしろい。平成時代の天皇の存在と言動を左右のいずれも評価できずに、曖昧に対していたのに対して踏み込んだ評価をしているのだ。権力保守の側から天皇の憲法擁護も含めたリベラルなところを評価できず、
左翼の側からは伝統的な天皇批判(天皇制批判)ゆえに評価できないというところへ鈴木は切り混んでいる。平成時代の天皇(上皇)の言動をリベラリズムという観点と天皇主義という観点で積極的に評価しているのは興味深いところだ。
ここはおもしろいところである。これは何故だろうか。安倍などの権力保守(一般的な規定としては国家主義者いうべき)は天皇の擁護論者と見られているが、鈴木は彼らを反天皇主義という。ここには何があるのだろうか。戦後の保守派では天皇の政治的規定(思想的規定)が定まらないいできたことがあり、保守派の内部には戦前の天皇への回帰の動きもあるということだ。戦前の天皇位置については統治権力の主体者(統治の主体者)という規定があり、それは国体という概念として規定されていた。統治権は天皇にあり、国家は天皇の国家と言われたものである。これはいろいろな議論をよんだものであるが、戦前の国体(国家規定)とともに、それなりに明瞭なものだったと言える。戦後の憲法の改正は明らかに天皇の位置を変えた。天皇は統治権力の主体から国民統合の主体に替えられた。具体的には政治的関与が禁じられ、法的中枢からも排除された。平成時代の天皇はこの象徴としての天皇とは何かを模索し、それを誠実にこなそうとした。戦前から天皇の存在位置の転換は明瞭であったが、統治権の総覧者(統治権の主体)から象徴への転換を保守派はどう位置づけるのか曖昧に終始してきた。これがアメリカ占領軍からの押しつけであったことは明確であったが、天皇の位置づけは曖昧にしてきたのだ。
かつて天皇制の批判者であった津田左右吉やオールドリベラリストともいうべき和辻哲郎などが民主主義と皇室の存在は調和する、本来の天皇制に戻ったと位置付け、これが戦後の保守派の天皇観になった。戦前・戦中の天皇は例外状態での天皇だったという考えもここに定着した。だが、実際のところ象徴天皇制は曖昧な規定しか持たなかった。戦前の憲法下の天皇に戻るべきという意見から、天皇を象徴から元首にすべきという意見まで象徴天皇を変えるべきというのが伝統的保守や右翼の見解であり、そこには幅があったのである。そして安倍派が象徴するように象徴天皇のあり方を追求する平成天皇(こういう呼び方はふさわしくないいのだが、平成時代の天皇という意味で語っておく、上皇でもいいのだが)の言動に批判的だった。女系天皇問題などがその例だが、もともとはこの天皇が憲法擁護を語ったことに端を発しているのだろうが、天皇観の違いに根拠があるのだと思う。ただ、安倍派らの保守派は象徴天皇制に批判的であることは明瞭だが、戦前のような国体下の天皇に復帰ということを主張はしていない。彼らは国家主義の方向に天皇の存在を位置付け直したいという欲求はあっても曖昧さをそこは脱してはいないのである。決局のところ国家主義者は天皇の政治的利用から離れられない、鈴木から言わせればそれは反天皇主義者だが、そういう言動となる。
鈴木は現在の上皇と活動の評価をすすめ、保守派の天皇観を批判しながら、和辻らの民主主義と皇室(天皇、あるいは天皇制)は矛盾しないという考えを「国体としての天皇リベラリズム」として発展させ、提起している。これに対する評価はもう少しあとにしてその前に左翼の天皇観に語っておこう。
(4)
鈴木の言ではないがかつて左翼の全盛期があった。そこでは天皇制はどうとらえられていたか。支配的な統治権力としてとらえられ、打倒(革命)の対象として認識されていた。それは戦前の1932に出された日本共産党の三二テーゼと呼ばれるものが代表的なものだった。これが資本制権力であるか、その前段の権力であるかの認識が含まれ、革命戦略に大きく影響する要素をはらんでいたとはいえ、天皇を統治権力としてき規定し、打倒の対象としてことは明快なことだった。その規定や構造分析に多くの問題があったとはいえ、この明快な規定は左翼の天皇観として大きな影響を与えたし、それは今日も続いていると言える。
ただ、この天皇論には天皇の統治権力としての構造と本質がどこにあるかを明瞭にしえなかった欠陥があったが、天皇を国家権力の当体として規定したことだけはすぐれた提起であった、と言える。この天皇論は、戦前は権力の弾圧にさらされて、獄中に封じこめられたが、戦後には復活した。日本の国家権力もアメリカ占領軍も天皇を国家から排除するのではなく、象徴として残した。日本の支配権力は「天皇護持(国体護持)」を降伏の条件としたため、象徴としての天皇を受け入れたし、アメリカは日本の統治(支配)のために天皇を利用することを考えたからである。こうした中で天皇は象徴天皇として残ったのであるが、日本共産党は三二テーゼを復活させ天皇制の打倒を掲げた。そして、それは左翼の人気の秘密にもなった。
よく知られているが、戦後共産党に入り活動した渡辺恒雄(読売新聞の統領)は共産党への参入を天皇制に対する態度が明瞭であったため語っている。渡辺は戦中に軍の独裁的な横暴な振る舞いに怒り、これと結びついた天皇制を打倒しょうと考えられたというが、これに応えられる天皇観を持っていたのは共産党だけだったという。渡辺は戦中派の連中の持った天皇観を象徴する存在だったと言ってよいし、左翼で共産党が影響力を持てた理由だった。だが、渡辺は直ぐに離党する。これは戦後左翼に、とりわけ共産党に参入し、離反して行った膨大な存在の先駆けと言ってよかった。
これは何のためか。三ニテーゼで示された天皇観の明快さの裏に持つ欠陥に気がついたためである。渡辺の時代と違ってのちには日本共産党に存在的に反抗する左翼(新左翼)があらわれるが、天皇制に対する態度も含めた政治革命観の欠陥に人々が気付きはじめたためである。共産党の天皇制打倒論(廃絶論)の背後には社会主義権力論(プロれたり独裁による統治)があり、そこから天皇論は導かれている。この政治権力論(政治革命論)は近代的国家権力を超える国家権力論として影響力があった。この「プロレタリア独裁による統治」が民主主義を超える統治権力として喧伝されながら、民主主義以前の専制的・独裁的な権力であることを露呈させた。スターリン万歳からスターリン主義批判の動きはこれだった。左翼は資本主義から社会主義へと経済社会の変革と国民国家という国家の変革。つまり社会の変革と政治の変革を綱領として持っていた。天皇制の打倒や廃絶は社会主義権力の樹立の中に組み込まれたものであったが、この社会主義権力論(政治革命論)に根本的な欠陥があり、それは天皇制諭の欠陥につながっていた。新左翼はこれに気づかされるところからでてきたのであるが、レーニンの統治権力論(政治革命論)に起源を持つスターリン主義の政治革命論(プロレタリア独裁による統治)への批判というところまで歩を進められなかった。新左翼が伝統的左翼とともに影響力を失い、減衰して行ったのはこのためである。天皇制について新左翼は天皇制の打倒。権力からの排除という伝統的左翼の考えの影響下にあり、その枠組みから逃れないできた。象徴天皇の浸透に対してはその存在形態に反対するように。例えば、象徴天皇としてある条項を憲法から排除する憲法改正を主張するよう。ただ、象徴天皇制が浸透する中で、天皇や天皇制への関心が薄められ、それは無関心ということが浸透してきたといえる。天皇が統治の主体であることから排除され、統治(政治)に関わらなければさしあたってはいいというような対応になってきた。天皇の国家からの排除、つまり国家権力の主体としてあることからの排除という意味では,天皇が国家制度のうちに残ることに反対であるが、象徴天皇制については曖昧な評価を多分に遺してきたということである。僕らの天皇や天皇制への関心を大きく変えたのは1970年の三島由紀夫の事件だった。市谷での自刃という事件のもたらした衝動だった。これは象徴天皇も含めて天皇や天皇制を考え直す契機になった。
(5)
三島由紀夫の事件はどう理解していいのか、複雑なものをのこすものだったが、僕らの天皇観に大きな変化をもたらしたものであった。というよりも、あらためて天皇、天皇制への認識、あるいは政治権力(統治権力)のあり方についての認識の再検討を強いたと言える。三島由紀夫は文化概念としての天皇の復権を提起したのであるが。これは権威としての天皇の復権の提起であった。ただ、天皇が戦前の国体下の天皇のように、権力が天皇の権威を前面にしての振る舞ったような天皇の権威ではなかった。権力が天皇を権威として使った天皇を官僚天皇制として三島は批判していたからだ。三島の文化概念としての天皇の復権論は戦前の国体下での天皇の復権という側面とそれの批判を含んでいるという複雑なものだった。ただ、戦後の天皇(象徴)としての天皇の変革を提起していることであり、複雑なものだったが、天皇の見直しをせまるものだったことは確かだった。鈴木はこの事件のもたらした衝撃について、彼が勤め人をやめ一水会を創る運動に復帰する契機になったという。彼はその後にこの三島の文化概念としての天皇を継承しそれとリベラリズムと結合させ天皇リベラリズムという概念を提起したのであるが、それは三島が文化概念としての天皇と官僚天皇制として批判していた近代天皇制をリベラリズムと結合させたものである。
僕は三島の文化概念としての天皇から、日本における統治権力の構造として
権威と権力に独特の関係ということを学んだ。これは権力が「権威と権力」の構造に成り立つのであり、暴力的権力論(暴力的国家論)が一面的であり、レーニン国家論が一面的であることをあらためて確認した。権威というのは共同の意思(国家意思)を提示し決定する存在とそれに隷属する関係のことであり、国家統治には暴力(強制力)で意志を実現する側面と権威に対する隷属での同意をえるという側面がある。この権威とは宗教的なものでもいいが、一般的にいえば
共同幻想であると言える。三島由紀夫は吉本の共同幻想論から文化概念としての天皇ということを学んだのだろうが、これには権威の復権ということがあった。吉本の共同幻想論は権威の否定としてあったが、三島の場合は逆にこれを肯定した。むき出しの権力、暴力装置的な権力には幻想的権力(権威と隷属)が媒介されてあるが、権威という力が権力としての力である点を認めていたのである。
日本社会で権力は(統治権力)は権威と権力が中国などのように一体化するのではなく、分離的に存続する形態を持ってきた。権威は幻想ということでいいが、幻想と権力は分離しながら存続してきたが、権力と権威を一体化して権力の構造(存在様式)としてとらえ批判することを難しくもしていた。権威と権力は権力の構成という中で関係的にあらわれるのであるが、権力を構成的に把握することの難しさでもある。
三島由紀夫の提起が衝撃的だったのは戦後の日本の国家権力において権威の不在(空白)を僕らに突き付けたことだった。戦後の憲法改正と新憲法の成立は
天皇の変わりに自由や民主主義を権威にするはずだった。憲法が象徴天皇とともに国民主権ということを打ち出していたのは権威を天皇から自由と民主主義に変えることだったが、それはならなかった。左翼は社会主義権力を権威にしようとした。国民的な、つまりはナショナルな思想(権威)とはならなった。左翼の内ではそれは権威であったが、権威としては失墜していくものだった。三島の行動に日本では権威の不在(空白)を突き付けられた、という衝撃が僕にはあったたが、この点は鈴木邦男にもあったと思う。ただ、この空白や不在を天皇の復権で埋める、それが未来から視線だということに肯定的でないのは天皇の持つ権威は民主主義や自由と矛盾するものであると僕は考えているからだ。三島は天皇は自由を保障する存在だというが、天皇の権威は自由と矛盾し、敵対するものである。天皇という権威(幻想的力)は自由を抑圧するものであり、矛盾するものである。民主主義や自由もまた権威であるとすれば、それは天皇制的な権威(権威と隷属)を否定するものである。権威を幻想といかえれば、天皇制も民主主義も自由も幻想であり、宗教を起源としている、と言える。しかし、リベラリズムは天皇という権威と矛盾するのであり、天皇リベラリズムとは矛盾的な概念のように思う。鈴木邦男の天皇リベラリズムということは刺激的な思想だが
疑念も避けられない、と思う。鈴木の天皇主義者という自己規定には自由が無矛盾の存在可能だという点があるのだろうが、そこはやはり疑念がある。このところに問いかけをするとすれば、鈴木にはキリスト教に起源を持つ自由や民主主義に対してアジア的自由というこだわりがあるのかもしてないと推察するときである。鈴木が日本の古代の民衆が持った自然意識に天皇の起源的なものを求める浪漫主義にはアジア的自由という幻想があるのでは、と推察できるからだが、ここはもう少し時間をかけて探求してみたいと思う。
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〔opinion13171:230808〕