『情況別冊』「思想理論編」発刊にあたって

言説において政治的であることが見失われて久しい。

もとより、政治的発言がないのではない。内外ともに多事多難なこの時代に、政治的言論もまたかまびすしい。であれば、今日流布している政治的言論にたいしてとりあえずはネガティブに、政治が見失われたことを浮き彫りにしてみるほかはないだろう。

政治的であることのあり方は、まずは実践家たちの発言によって覆い隠されている。例えば、湯浅誠がこう言っている――「問題設定をして、それを相手に飲ませる力を持たなければ、合意には達しない。尖鋭的な問いを立てれば、それで状況を変えることができるなら、そんなに簡単なことはない。階級宥和はけしからん、階級闘争で行くんだと、その意見はいいよ。でも、それをどう組織するかを考えて実践してもらいたい。正直言うと、オマエたち、もっとこうしろよ、という他者依存型の『助言』は聞き飽きた。いいと思ったら、自分でやろうよ」(王寺賢太との対談、『週刊読書人』、2012年5月18日号)。

湯浅誠がこんなふうに言いたくなる気持ちはわかるというものだが、気持ちに任せて彼は実践家の禁じ手を犯している。どんな問題でも、当事者の、あるいは実践の現場の具体性と切実さは圧倒的であり、外からの「助言」を拒む力と権利を有しているはずである。この力に依拠して相手に要求を飲ませ合意を得ようとするのも、実践家として当然の対応である。そしてこのような実践家の現場は、あらゆるところに無数に散らばっているだろう。「いいと思ったら自分でやろうよ」と呼びかける実践的な発言が、今日、政治的言説の一方のカテゴリーになっているのは疑えない。識者からのおせっかいは聞き飽きたと、実践家は苛立たしく振りはらいたい気にもなるであろう。

だが、実践家のこうした振る舞いが振り棄ててしまう事柄がある。実践家とはそのことをよく認識している者のはずである。「助言は聞き飽きた」と、喉元までこみあげてくる言葉を禁句とする自覚である。禁句を発してしまえば、助言という名の空理空論と一緒に何か政治的なものを振り棄ててしまう。何故なら、実践とか現場とかは現体制に抗うことを通じて、そこにあたかも新たなもののごとくに、政治が立ち現れてくるのを経験するところだからだ。この政治は実践と外的に対立するのでなく、実践そのもののうちで実践と矛盾する。禁句を発してこの機微を振り棄ててしまうのであれば、政治はもう一度体制的な言説とのたんなる差異や抗争の次元に舞い戻るだろう。実践にとって政治はいわゆる政治過程のこと、あるいは政策の提案と実現のことになる。「弱者を社会的に包摂するには社会の仕組みを組み替えねばならない」と、湯浅誠は強調している。実践とはここでは社会問題であり、他方で社会の仕組みを組み替える政策実現が政治問題となる。実践にとって政治とは、今日、こうした社会問題なのである。

政治的な言説は、実践家たちからやってくる衝迫力に対抗する秘密を握らねばならない。現場の具体性と個別性にたいしてこれを一般化して政治問題にする、政治過程に掬い取る、という意味ではない。個別の切実さに対抗できる普遍、いってみれば世界認識の切迫性をもって対抗する。世界認識なるものがただの空理空論の助言であるかないかを、実践にさしだして実践との矛盾のうちで自ら吟味し腑分けする。政治的であることが実践から自立する。こうして、言説において政治的であることが自覚されてくるはずである。

一方、実践の個別性にたいする助言の一般性といえば、これはもっぱら学術(学者専門家)の任務であるかに考えられてきた。実際、一般理論から政策の提言まで、多事多難の社会問題にたいして学術的な言説がまさしく引きも切らない昨今である。現実の役に立つ研究をせよという学術内部の掛け声と予算措置とが、この言説を駆動していることもあるだろう。明らかに、アカデミックな装いをもって言説は今日政治的なのである。学術の側からもまた、言説において政治的であることの機微が浮き彫りになるはずである。

斎藤純一の『公共性』(岩波書店、二〇〇〇年)はいまも版を重ねている政治理論のマニフェストであるが、ここで斎藤は公共性を「再定義」しようとしている。公共といえば従来は国家国民の公益の意味なのだから、新しい公共性の政治理論を始めたい斎藤としては当然の作業になる。その際、斎藤はハンナ・アレントに依拠しながら、同時にアレントの政治論に削除を加える必要を痛感している。一つは、公共性をアレントが「現れの空間」としたことに関連する。この空間では人びとの「何か」ではなく「誰か」が立ち現れる。男性であるとかホームレスであるとか、各人の社会的地位やアイデンティティ(職業や地位は何か)のことではない。この意味での社会的な差異と多元性は端から問題にもされない。ただ私が誰であるか(個性と識見)だけが演じられ他者に評価される。言論のパフォーマンスの劇的な空間である。一見するところ、それぞれの差異にもとづく多元的な関係を重視する公共性の政治とは水と油である。だからまず、斎藤はアレントが公共空間をあまりに「美的な空間」として描きすぎるとして、これを削除する。

ハンナ・アレントが政治空間を古代ギリシャのアテネの民会をモデルに構想したことはよく知られている。はるかに時を隔てて、この空間は革命のコミューンにおいて、レーテやソヴィエトとして現れ出るという。だから、「現れの空間」はいまも死に絶えていない。いってみればアジテーターたちの言論が氾濫し抗争する空間である。言説において政治的であるとはこのことであり、かつそのような現代批評がアレントにとって政治的なことであった。公共性の新しい定義、今日において政治的であることのためには、これではあまりに美的、劇的、非日常的に過ぎるというのが斎藤の批判である。

斎藤が削除したいもう一つの点は、政治から「社会的なもの」を排除するアレントである。「公共的領域と私的領域は硬直的な二分法で切断され、両者の境界線を書き換えていく政治の可能性はアレントによって廃棄されている」(五三頁)。とりわけ、アレントが公共から人間の生活(生命)の領域を締め出すことによって、政治的なものを救済しようというのだから、新しい公共性の政治にとっては、アレントは天敵である。逆にいえば、新しい政治的な言説は、アレントの意味での政治空間のアナクロニズムを排除したところに形成されねばならない。これが学術の側からの言説の政治である。あらゆる社会問題が公共性の政治理論の例題になる。同時に、関係性の技法とかデモクラシーのテクノロジーとか、実践家にたいする助言と政策提言にもことは欠かない。

もとより、政治的であることについてアレントを護持せよなどとはいわない。アレントは無視しているが、ギリシャのポリスは内外の対立のうちで出現した共同体であった。内部では家族と奴隷そして外国人は論外であった。外部には敵対するポリスが常に存在しており、対応してポリスはまたしばしば戦士共同体であった。内外からするこうした敵対関係を内面化する形で、「現れの空間」としての政治が演じられたのだった。権力関係から政治を切り離して、これを公共性の内部問題(すなわち社会問題)にすることは事実不可能であった。それに、ポリスを構成する市民たちは資格が厳しく制限されていた上に、地区の民会から各種の役職にいたる参与を通じて、まったくのところ政治人間として形成された者たちだった。政治は生活(生命)の必然性から自由でなければならない。アレントにより政治的なものの概念が鋭く限定されていたのであり、以降の歴史が政治的行為の意味を見失っていくのも当然であろう。今日、言説において見失われているのもまた、何かしらこのような狭い政治の概念である。

実践と学術の双方において、政治の言説が置かれている構図を例示したように描けるとしたら、その既視感は圧倒的である。いまに始まったことではないのだ。一九六八年の若者の叛乱は、その敗北の後に、「新しい社会運動」に引き継がれたといってもかまわない。実際、今日活動的な組織といえば各種のNPOだといわれている。多事多難に対処すべく自助努力と相互扶助の集団が生まれている。若いオピニオンリーダーたちも一斉に、「各人がやれること、いいと思ったことをやろうよ」と呼びかけている。だがこうして、いつの間にか関係は逆になり、かの叛乱が社会運動であったかに見なされるようになっている。そして他方で、叛乱を知的に収奪するようにして、ポストモダンな学術分野がいくつも誕生した。

こうして、実践家も理論家も、叛乱のなかに政治的なものの生起を見る目を失った。実践と学術とを政治的に架橋すると称したマルクス主義(の諸党派)が退場したのは、この現れだった。いまでは、実践と学術の両側から侵食されて、言説において政治的であることは瘠せ尾根のようにしか見出すことができない。時折、文飾を頼りにしてこの尾根を渡ろうとするアクロバットが演じられて、尾根道が存在することがかろうじて知られるといった有様である。

それゆえ、政治的な意見か学術的な理論かという区分によって、言説の政治を見分けることはできない。そのどちらについても、政治的であることの嗅覚を評価することが必要である。「情況別冊(思想理論編)」はこの意味でオピニオン誌かつ学術誌という構えを取るだろう。もとより天下り的に両者を架橋する立場があるのではない。一党一派の機関誌だとか、旧左翼の同窓会の会報にするつもりはない。政治的意見であれ学術論文であれ、書き手は一匹狼として書くのである。しかしそれでも、この雑誌を通じて政治の瘠せ尾根の輪郭が姿を現わし、いってみれば消去法的に思想集団としての「われわれ」が浮き彫りになっていくことを願っている。

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『情況別冊』「理論思想編」第1号・2012年11月1日発行

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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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