そもそものきっかけは、訳者湯川が仏語新聞紙上に、偶然見つけた絵本の書評でした。その著者デイディエ・デニンクスはフランスの推理小説大賞を取ったこともある作家で、受賞作『記憶のための殺人』は、1961年10月パリで起こったアルジェリア人のデモに対する大規模な弾圧を題材にしています。アルジェリア人の犠牲者数など、今なお真相が知らされていない、この事件の謎の解明に挑戦した著者が、新たに “絵本”を書いたということに興味をひかれたのです。早速原書を注文、入手して読んでみると、タイトルの「父さんはどうしてヒトラーに投票したの?」という主人公の少年が発した問いは、過ぎ去った時代のものではなく、まさに今日の世界に生きる私たちにも問いかけられていて、この絵本をぜひ日本の読者に紹介したいと思いました。
今、世界では、第二次世界大戦後の民主主義と社会福祉の時代が深刻な危機を迎えています。貧富の格差が拡大した社会では分断と亀裂が深まり、人々の不満と憤りを移民など弱者や近隣諸国への嫌悪へと転嫁させようとする政治家たちが支持を集めています。ヘイトスピーチやフェイクニュースが飛び交い、偏り誤った情報の中で人々は目先の利害を優先し、危険な一体感を煽る政治家に票を投ずるように流されがちです。
この本は、家族の中にヒトラーに期待し全てを委ねてしまおうとした父と、自分で考え判断しようとした母の両方がいるという設定で、ナチ時代12年間の日常の変化を主人公の少年の目で描いて、私たちに強い問いかけをしてきます。
共訳者となった「戦争ホーキの会」は2003年のイラク戦争と自衛隊派遣に反対する意思を表す”戦争放棄”をもじった小さな箒に、九条の条文タグをつけて手渡す活動を始めたグループです。このミニホーキは反戦・反核や憲法集会のワークショップで作られたり、デモで配られ、お店やカフェのカウンターにカンパ箱と共に置かれたりして、日本各地に広まりました。2007年以降は、三鷹・武蔵野地域のホームレス支援団体「びよんどネット」の事務所で月例会を開き、ミニホーキの製作を続けてきました。この支援団体の代表者が仏語翻訳家の湯川なのですが、絵本の訳は初めてのことで、ヨーロッパ史の専門家や、オーストリアやドイツ在住体験者もいて、子どもや絵本にも関わりの深いホーキの会メンバーに、翻訳出版への共同作業を呼びかけたのです。
こうして、湯川の粗訳をもとに、本文を絵本の文章に編み直す作業と写真と資料の史実チェックと解説文の検討作業を進めながら、出版元探しも始まりました。心当たりの数社の編集者を頼って持ち込みをしても、良い返事がもらえず、途方に暮れていたときに、同じくびよんどネットの友人から紹介された解放出版社が引き受けてくれたのでした。その後も版権を得るのに時間がかかったり、いろいろなプロセスで思いがけない問題が起こったりしましたが、原書にはない、「若い読者のみなさんへ」という私たちの訳者からのメッセージと、「絵本の舞台になった時代のできごと」としたドイツと日本の動きを対照した年表も追加して、遂に2019年7月に刊行されました。
この間に、日本のみならず世界の状況も混迷の度合いを急激に深めていたため、一層今日の世界への問いにマッチしたタイムリーな刊行になってしまった感もあります。そして今、戦争への道がいかに短絡しやすいかを実感する日々のなかで、ぜひ家族と友人と、この本を材料に戦争と平和と個人の選択について話し合ってほしいです。また、これから選挙権を行使する若い人たちにもこの本が届き、自らの投票行動が持つ責任について考え、自分たちが生きていくこれからの社会を考えるきっかけになってくれればと望んでいます。
私たちは「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有する」(憲法前文)ことを今また確認し合いたいと願っています。
(表紙)
(裏表紙)
初出:「月間書評誌 子どもの本棚」№617 2020.3.より許可を得て転載
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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