『精神の現象学』第八章 絶対知(その2)

著者: 滝口清栄 たきぐちきよえい : 大学教員
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【第12段落】

この絶対知の本性、そのもろもろの契機と運動はどのようなものであるか。それは、この絶対知が自己意識の〈純粋な自覚存在〉である(自己意識が絶対知をしっかりと知を通して把握するにいたった)というかたちで明らかになっています。

すなわち、絶対知は〈自我〉です。(といっても)この〈自我〉は、〈この(個別的な)自我〉であって、他のいかなる自我でもありません。それは同時にそのまま直接的に媒介されています。言い換えますと、〈(個別的なあり方が)止揚された普遍的な自我〉となってもいます。

絶対知は内容をもっています。絶対知はその内容を自分から区別します。というのは、絶対知は〈純粋な否定性〉であり、言葉を換えますと、〈自分を二分する〉ものだからです。

(こういうように二分化がおこなわれますと)絶対知は〈意識〉です。

この内容は区別のさなかにおいても〈自我〉のままです(対象として疎遠になることはありません)。

内容は自分自身を止揚する運動だからです。言い換えますと、自我と同じく純粋否定性だからです。

〈自我〉は(自分から)区別されたものとしての内容においても自分のうちへと反照しています。

内容は、〈自我〉が自分の他的存在のうちにありつつ自己のもとにあることを通して、概念的に把握されています。

この内容がいっそう明確に述べられますと、それは、今しがた述べた運動そのものにほかなりません。

なぜなら、内容は自分自身を、しかも自覚的に精神として遍歴する精神です。この精神は、自分の対象性のうちで概念の形態をもつことによって、そうなのです。

 

 

【第13段落】

しかし、この〈概念〉が(いつ)現に存在するようになるのかという点について言いますと、(体系的)学は時間と現実態のなかに、〈精神〉が今述べたような自己について意識に到達して初めて立ち現れるのです。

〈精神〉が、(余すところなく遍歴を通して)自分が何であるかを知るのはいつか。自分の不完全な形態を克服して、自分の意識に対して自分の本質存在の形態(イエス)を作り出し(受肉、啓示宗教)、このようにして自分の自己意識を自分の(対象)意識と一致させるという労働を完成させたときに初めて、〈精神〉は現に存在するようになり、そういう地点で初めて現に存在するようになるのです。

〈即かつ対自的に(つまり絶対的に)存在する精神〉は、そのもろもろの契機に区別されているときには、自覚的に存在している知るはたらき(デカルト的われ思う)であり、(ものごとを)概念的に把握しようとするはたらき一般です。

このはたらきそのものはまだ実体に到達していません。あるいはそれ自体とみても絶対知ではありません。

 

【第14段落】

さて、実際には、知的な実体(知に支えられた文化的ないとなみ、慣習、考え方)は、〈実体〉のもつ形式あるいは〈概念の形態〉よりも先に存在します。

なぜなら、〈実体〉はまだ展開されていない〈それ自体Ansich〉、まだ運動をもたない単一態のうちにある根底であり概念だからです。したがって、〈精神〉の(まだ外に明確な姿を現していない)内面性であり、〈精神〉の、まだ現に存在するにいたっていない〈自己〉だからです。

眼前にあるものは、まだ展開されていない単一のものであり、直接無媒介のものです。言い換えますと、(自分の外部に立てることを本性とする)表象する意識の対象一般なのです。

(それに対して)認識するはたらきとは、(ものごとを全体として知のはたらきによってとらえる)精神的な意識です。〈潜在的にあるところのもの〉が、〈自己〉にとっての存在、〈自己〉の(知るはたらきが浸透した)存在、あるいは(しっかりと自己によって把握された)概念となるかぎりで、認識するはたらきは、この〈潜在的にあるところのもの〉にとって存在するのです。(〈認識する働き〉とこの〈潜在的にあるところのもの〉との関係はこういうものです。)

こうわけですから、認識するはたらきは、まず最初は(意識章)、ただ(内容の上で)貧しい対象をもつにすぎません。

それに対して、(表象の上では)実体と、この実体についての(表象する)意識の方が豊かであるということになります。

実体は、このような(表象する)意識のうちで〈明らかな姿〉をもつのですが、それは、実際には、〈まだ隠されている姿〉なのです。

なぜなら、(ここでの)実体は、まだ〈自己〉を欠いた存在です。(まだ自己意識の知るはたらきに貫通されていません。)そして、自分にとって明らかなのは、自己確信だけです(実体を自己として確信する良心)。

だから、まず最初に自己意識に(知るはたらきを通して)属しているのは、実体(かたちづくるものの)のうちで抽象的なもろもろの契機だけです。

しかし、これらの契機は、純粋な運動なので、自分自身をさらに前へと進めていきます。そうすることで、自己意識はしだいに自分を豊かにしていきます。ついには、自己意識は、実体の全体を意識の方へと奪い取り、実体の本質的あり方の構造全体を自分の方へと吸い取るにいたるのです。

そして、このような、(意識とは別個という)対象的あり方に対する否定的なふるまいは、同時に肯定的であり、明確に立てるはたらき(Setzen)です。そうであるからこそ、自己意識は、これらの本質的なあり方を自分から産みだして、そうして意識に対して(自覚的に)再び打ち立てるのです。

概念であることをみずから知るにいたった概念においては、もろもろの契機の方が、内容充実した全体よりも先に立ち現れます。

このような全体が生成することが、もろもろの契機の運動というものなのです。(全体は、このような契機の運動の成果にほかなりません。)

それに対して(表象する)意識においては、全体は、まだ概念的に把握されていません。それはもろもろの契機よりも先にあります。

 

時間とは、概念そのものです。それは、現に存在して、空虚な直観として意識に表象されます。

それゆえ、精神は、必然的に時間のうちに現象します。

そして、精神は、自分が自分の純粋な概念を把握しないかぎりで、つまり、時間を消去しないかぎりで、時間のうちに現象するのです。(それは、これまでの意識の経験が示してきたとおりです。)
時間とは、純粋な自己ですが、外面的な自己であり、自己によって(しっかりと)把握されていない自己です。それは、ただ直観された概念にすぎません。

概念が自分自身を把握するようになると、自分の時間の形式を廃棄して、直観のはたらきを概念的に把握します。概念は、概念把握された直観であり、概念把握する直観です。

 

【第14段落】続き

それゆえ、時間は、自己のうちで完成していない精神の運命であり、必然性です。

(それはどのような必然性なのでしょうか。)それは、自己意識が(対象に外側からかかわる対象)意識においてもっている分け前を豊かにするという必然性です。

〈自体存在(即自存在)〉の直接無媒介のあり方―これは、実体が意識のうちでとる形式です―を動かす必然性です。

あるいは逆に言いますと、〈自体存在〉を内面的なものととりますと、最初内面的にあるところのものを、(外に)実現し、明るみに出す必然です。つまりそういうものを、自己自身であるという確信への返還請求する必然性です。

 

 

【第15段落】

(今見てきましたように、〈精神〉は時間のうちに現象して、直観されたり表象されます。)この理由から、次のように言われなければなりません。経験のうちにないものは何一つとして知られない、と。

同じことは次のようにも言えるでしょう。感覚でとらえられた真理、内面に啓示された永遠なもの、信仰にもとづく聖なるもの、あるいはそのほかのどのような表現が用いられてもよいのですが、そういうものとして現に存在しないものは、何一つとして知られない、ということです。

なぜなら、経験とは、内容―それは精神です―それ自体としてあること、つまり実体であること、したがって意識の対象であるということだからです。

しかし、この実体は(潜在的に)〈精神〉なのですが、実体とは、〈精神〉が本来(潜在的に)あるところのものに生成していくことです。

そしてこのように自分が自分のうちへと反照するものとして初めて、〈精神〉は、それ自体として本当に〈精神〉となるのです。

〈精神〉はそれ自体として、認識であるところの運動です。つまりあの〈潜在態)〉を〈顕在態〉に、実体を主体に、意識の対象を自己意識の対象へと変えることですが、同時に止揚された対象に、言い換えますと、概念に変えることです。

このような運動は、自分に立ち返る円環をなしています。それは、自分の始まりを前提として、ただ終わりにおいてのみこの始まりに到達する円環です。

 

したがって、〈精神〉は(実体として意識の対象になるものですから)、必然的に(対象と自分というふうに)自分のうちで今述べたような区別を作るのです。

そのかぎりで、〈精神の全体〉は直観されて、自分の単一の自己意識に対して現れるのです。

こうして、〈精神の全体〉は区別を備えたものですので、この〈全体〉は、その直観された純粋な概念つまり時間と、内容、言い換えますと〈それ自体〉に区別されます。

実体は(本来的には)主体ですので、自分自身において、自分が潜在的にあるところのものを〈精神〉として実現する必然性をもつのですが、最初内面的な(潜在的な)必然性をもつのです。

それは対象的な姿をとって表現されるのですが、それが完成したときには、初めて同時に実体の(自分への)還帰が生まれ、実体が自己へと生成するのです。

 

したがって、〈精神〉はそれ自身において完成し、世界精神として完成する以前には、〈精神〉は自己意識的精神として自分の完成に到達することはできません。

だから、宗教の内容の方が、時間のうちで学に先立って、精神とは何かを表現するのです。

しかし、学こそが、精神が自分について真に知ることなのです。

 

 

【第16段落】

精神が自分についての知(絶対知)を現われ出させようとする運動は、精神が現実的歴史として遂行する労苦(労働)です。

宗教的な教団は絶対精神の実体(支え)ですが、そのかぎりで、教団は粗野な意識です。それは、その内面の精神が深ければ深いほど(禁欲、苦行など)、ますます野蛮で過酷な生活(Dasein)をおこないます。この意識のぼんやりした自己は、、自分の実在(神的存在)や、自分の意識がもつ自分にとって異質な内容とますます過酷に取り組むことになります(「自己意識」章「不幸な意識」)。

 

この意識は、外面的な仕方で、よそよそしい仕方(中保者による贖いの死)で、自分と異質な存在を止揚することをあきらめます。

このよそよそしい仕方を廃棄するとき、その意識は自己意識へと立ち返り、初めて自分に向かうようになります。つまり、自分の固有の世界である現在に向かうようになります。世界を自分の所有するところのものとして発見し、そうしてその意識は英知的世界から降りて下る第一歩を踏み出したのです。言い換えますと、世界の抽象的な局面を現実の自己で精神を吹き込む第一歩を踏み出したのです。

 

 

【第16段落】続き

一方では、その意識は〈観察〉によって〈現に存在するもの(Dasein)〉を〈思想(思考によるもの)〉として見出します。そしてそうしたものを概念把握します。そして逆に、自分の思考のなかに〈現に存在するもの〉を見出しもするのです。

こうして意識は(デカルトに見られるように)思考と存在の直接的統一を、抽象的な実在と〈自己〉との直接的統一を、それ自身抽象的に言明しました。そして(スピノザに見られるように、東方の)最初の光をより純粋に、すなわち延長と存在の統一として呼び起こし―なぜなら延長のほうが光よりもいっそう純粋思考に同一的な単一態だからです―、このようにして、思考のなかで(東方の)日の出という実体をふたたび呼び起こしたのです。

このとき同時に、精神はこの抽象的統一や、自己の欠けた実体性から身震いして退いて

、(ライプニッツに見られるように)このような実体性に対して〈個体性〉を主張するのです(モナド論)。

しかし、精神は(「精神」章Bの「自分から離反する精神」、つまり)教養において、この個体性を外化し、そのことによって、個体性を〈現に存在するもの〉として、すべての〈現に存在するもの〉のなかに個体性を貫徹させたのです。また(近代的啓蒙つまり『純粋明察」にいたると)〈有用性〉の思想に到達し、絶対自由においては、〈現に存在するもの〉を自分の意志として把握します。

そのようにして初めて、精神は自分のもっとも内なる深みの思想を吐きだして、(フィヒテに見られるように)「自我=自我」として実在(本質存在Wesen)をはっきりと語るのです。

この「自我=自我」は、しかし、自分自身のうちで反照する運動です。というのも、ここに見られる同等性は、絶対的な否定性として、絶対的な区別ですから、自我の同等性にこのような純粋な区別に対立することになります。

そして、この純粋な区別は、純粋な区別であるとともに、自分自身を知る自我にとっては対象的な区別ですので、〈時間〉としてはっきりと語られるべきものです。

こうして、前に実在(本質存在)が思考と延長の統一としてはっきりと語られたように、実在(本質存在)は、思考と時間の統一として把握されるべきでしょう。

しかし、自己自身を委ねる区別、安定と支えを欠いた区別は、むしろそれ自身のなかで崩壊するものです。

(そのようなとき)そういう時間は延長の対象的姿をとった静止です(自我と非我)。しかし、この静止は純粋な自己同等性であり、自我です。

あるいは、自我はたんに自我であるばかりではありません。自我は自己の自己との同等性です。

しかし、この同等性は自己自身との完全な、直接無媒介な統一です。

あるいは(シェリングに見られるように)この〈主体〉は、同時に〈実体〉なのです。

〈実体〉は、それだけで見られますと、内容のない直観でしょうし、あるいは、(内容のある直観であるとしても)こうした直観は、限定性をもつ内容として、たんなる偶有性にすぎないものでしょう。また必然性を欠いたものでしょう。

あるいは〈実体〉は、それが絶対的統一として考えられ、直観されるかぎりで、絶対的なものと見なされるにすぎないであろう。

そしてあらゆる内容は、その差異の面からすると、実体の外部に、実体に属していない(外面的な)反省に属していると言わざるをえないでしょう。

なぜなら、実体は主体ではなく、自分自身について、自分自分のうちへと反照していくものではないからです。言い換えますと精神として把握されていないからです。

それでもある内容について語るとしますと、一方では、この語ることは、内容を絶対的なものという「空虚な深淵」のうちに投げ込むためのものにすぎないでしょう。

これに対して、他方では、内容は外面的なやりかたで、感覚的な知覚から拾い集められることになるでしょう。(そのとき)知は、事物に到達し、知自身とは異なるものに、多様な物の区別に到達したように見えます。

人はそこで、このような区別がどのように、どこからやってきたのか知ることはないのです。

 

【第17段落】

しかし、精神は、〈(観望者としての)われわれ〉に次のことを示しました。(すなわち、精神とは)ただたんに自己意識が自分の純粋な内面性へとしりぞくことでもなく(フィヒテ)、また自己意識をただたんに実体のうちへと沈み込ませて、自己意識のもつ区別をないものとすることでもありません(シェリング)。

そうではなく、精神は、〈われわれ〉に、(精神が)みずから自己自身を外化し、自分を実体のうちへと沈み込ませ、そして同時に実体から主体として出て、自分のうちへと立ち返っていて、そして実体を対象とし、内容とするとともに、対象性と内容の(自己にたいしてもつ)区別を止揚する〈自己の運動〉であることを示したのです。

直接無媒介のあり方から(内面性へとしりぞくという)前者の第一の反省は、主体が自分の実体から自分を区別することです。言い換えますと、(統一体をなす)概念が自分を二分する(という意義をもつ)ことであり、純粋な自我が自己のうちへと向かい、(非我を介した上で)純粋な自我が生成することです。

このような(概念の二分化による)区別は(非我を介した)〈自我=自我〉の純粋な行為(として成立しているもの)です。

だからこそ、(自分を二分化する)概念は、(一方では)実体を自分の本質としてもち、そして自分だけで存立する〈現に存在するもの(Dasein)〉が必然的に立ち現れること(を示すもの)なのです。

しかし、〈現に存在するもの(Dasein)〉がそれだけで存立することは、概念が限定を受けた姿で立てられていること(を表しているの)です。そして、そのことによって、単一の実体へと沈み込んでいく運動を〈現に存在するもの(Dasein)〉が身につけていることでもあるのです。

こうしたときに初めて、実体は、(〈現に存在するもの(Dasein)〉を否定する)このような否定性として、そして運動として、主体(と言えるの)です。

(こういうわけで)自我はあたかも自分を外化することに不安をいだくかのように、自我は、実体と対象性の形式に対立する自己意識の形式における自分に固執する必要はないでしょう。

精神の力は、むしろ自分を外化しながら自己同等性を保つことにあります。そして、〈即かつ対自的に存在するもの〉として、〈即自存在(普遍)〉とともに〈対自存在(個別))も契機として立てる点にあります。

(それから)自我は、もろもろの区別を、〈絶対的なものという深淵〉へと投げもどして、この深淵のうちではそれらは同じものだと言明する第三者でもありません。

そうではなく、この知(絶対知)は、(限定されたものである)区別態がそれ自身において運動し、自分の(他者との)統一のうちへと立ちかえっていくさまを、ただながめているだけの、一見したところ何もしないということなのです。

 

 

【第18段落】

精神が自分を形態化する運動には、意識における克服しがたい区別(知と真、知とその対象、実体性の形式と自己意識の形式)がついてまわっています。

精神は、(絶対)知において、そのかぎりで、(以上のような歩みをへて)こうして自分を形態化する運動を完結したのです。

精神は自分が現に存在する上での純粋な境地、(以上のような二元的区別を止揚するような)概念(の立場)を手にしました。

内容は、精神が存在する(ときに身につけている)〈自由〉という面からいいますと、〈自分を外化する自己〉(が貫いているの)です。

言い換えますと、〈自己知〉に成り立つ直接無媒介の(何の隔たりもない)一体性です。

この外化の純粋な運動がその内容に即して見られると、この運動は内容の必然性をかたちづくります。

相異なる内容は、関係のうちで限定された内容であり、それ自体としてあるわけではありません。そうではなく、自分自身を止揚する不安定、この内容がそなえる不安定、言い換えますと、否定性です。

自由にもとづいて存在するものがそうであるように、(内容の上での)必然性ないし差異性も同じく、〈(自分を外化する)自己〉(の運動によってなりたつ)のです。

そして必然性ないし差異性が〈自己〉の形式をそなえるときに、内容は〈概念〉(の境地でしっかりと把握される)のです。

精神は(前にあげたような二元的分離を克服する)〈概念〉(の立場)を手にしました。このことによって、精神は、(その内容をなす)現に存在するものとその運動を、精神の生命をなすこうした〈エーテル(概念)〉のうちで展開するのです。

こうした精神が〈学〉なのです。

 

 

【18段落】続き

〈学〉においては、精神の運動をかたちづくる諸契機が、意識における特定の限定性をもった形態として表現されることはありません。

むしろ、意識においてなりたつ区別は、〈(二元的区別を克服する)自己〉のうちへと立ち返ったのですから、このことによって、精神をかたちづくる諸契機は、限定性をもった諸概念として、そして、諸概念の運動、それも自分のうちに根拠をもつ有機的な運動として表現されるのです。

『精神の現象学』においては、どんな契機も知と真という契機をそなえています。そして、どの契機もこうした区別が止揚される運動です。

それに対して、〈(体系的)学〉は、(もはや)こうした区別とその止揚を含みません。

そうではなく、契機が〈概念〉の形式をそなえることによって、契機が、〈真理という対象的な形式〉と〈自己を知る形式〉を合一して、直接無媒介の〈一体性〉へともたらすのです。

契機は登場するときに、意識ないし表象から自己意識へと進む運動、また逆にこちらからあちらへと進む運動というかたちをとりません。

そうではなく、契機がそなえる、純粋で、契機が意識のなかで現象することから解放された形態、(つまり)純粋な概念とその運動は、ひとえに概念が純粋に限定されるあり方にかかっています。

反対に、学(Wissenschaft)のそれぞれの抽象的な契機に、現象する意識一般のひとつの形態が対応しています。

(現象して)現に存在する精神は、学ほど豊かではありませんが、そういう精神は内容の点で(学よりも)貧しいわけではありません。

学のもろもろの概念を、意識の形態の形式のなかで認識することは、これらの概念の(たんに架空のものではない)実在性の側面をかたちづくります。

この側面からすると、これらの概念の本質、(つまり)学のなかで、単一の媒介(さまざまな媒介の止揚のうえに成立する直接性となった媒介)のなかで、思考(Denken)としてはっきりと立てられている概念は、これらの媒介のもろもろの契機を分散させ、そして内なる対立にしたがって表現されるのです。

 

 

【432】第19段落

学は、自分自身のなかに、純粋な概念の形式を外化するという必然性を含んでいます。そして概念が意識へと移行することを含んでいます。

なぜなら、自分自身を知る精神は自分の概念を把握するものなのですが、こういう精神は、だからこそ、自分自身と直接無媒介に同一(再建された同一性)です。(ただし)この同一性が区別の相をもつと直接的なものについての確信になります。言いかえると、感覚的な意識になります。

(それは)われわれ(読み手)がそこから出発したところのものです。

このように精神が自分の自己という形式から自分を立ち去らせることは、精神が自分を知ることにかかわる最高の自由であり、最高の安全保障なのです。

 

【433】第20段落

しかし、この外化は、まだ不完全なのです。

この外化は、自分自身の確信が対象にかかわることを表しています。対象は、それがこの関係の中にあるというまさにその点で、その完全な自由を手にしてはいませんでした。

知(Das Wissen)は、ただ自分を知るだけではありません。知はまた自分にとっても否定的なもの、言いかえると自分の限界を知るのです。

自分の限界を知るとは、自分を犠牲にすることを知るということです。この犠牲が外化(の意味するところ)です。

この外化のなかで、精神は、自由な偶然的な出来事という形式をとりながら、自分が精神となることを表現するのです。

(そのとき精神は)自分の純粋な自己を、自分の外なる時間としてまじまじと観ているのです。そして同じように、自分の存在を、空間としてまじまじと観ているのです。

このなかで後者の生成は、自然です。それは、精神の、(それが表に出てくるわけではない)直接的な生成です。

自然は、外化した精神です。自然は、それが存在するときには、自然が存立するうえでの永遠の外化にほかなりません。そして主体を再興する運動なのです。

 

 

【433】第21段落

しかし、精神の生成のもうひとつの側面は、歴史です。それは、知をともなう、自己媒介的な生成、時間へと外化された生成です。

しかし、この外化は、外化そのものを外化(放棄)するものです。否定的なものは、自分自身を否定するものなのです。

この生成は、もろもろの精神がゆっくりと動き継起するさまを表現します。この生成は、もろもろの画像がならぶ画廊であって、だからこそそのそれぞれが、精神の豊かな富をそなえていて、ゆっくりと動くのです。

そうなるのは、自己Selbstが、自分の実体の富全体に浸透しなければならないからです。そしてそれを消化しなければならないからです。

精神の完成は、精神が何であるかを、つまりその実体を申し分なく知るという点にあります。

そういうとき、このような知は、〈自己のうちに入っていくことInsichgehen〉です。そうして、精神は、自分の現にある存在を見捨て、そして自分の形態を(内面化して)想い出Erinnerungにゆだねるのです。

精神がおこなう〈自己のうちに入っていくこと〉のなかで、精神は、自己意識の夜のなかに沈み込みます。精神の、消え失せた現にある存在は、この夜のなかで保存されます。そして、この保存された存在は、― これは以前のものですが、知ることから新たに生み出されたものです ― 新しい存在、ひとつの新しい世界、精神の形態です。

精神は、この新しい世界、精神の形態のなかでも同じように何にもとらわれることなしに、そうした形態がもつ直接態のもとで新たにやり始めて、そこから再び大いなるものを目指さなければなりません。

それは、あたかも、精神にとって先行するものがすべて、失われているかのようです。そして、精神が、それまでのいろいろな精神の経験から何ひとつ学ばなかったかのようです。

しかしながら、〈内‐面化Er-Innerung〉は、これらそれまでの精神を保存しているし、〈内なるもの〉であり、実際に実体のいっそう高次の形式なのです。

こうして、この精神は、自分の教養形成を、ただ自分から出発しているという外観をとりながら、再び最初から始めるのです。そうしたときに、精神が始めていることは、同時により高次の段階にあるのです。

このような仕方で現にある存在のなかで形成される〈精神の国〉は、ひとつの継起をかたちづくります。

この継起のなかで、ひとつの精神がほかの精神にとって代わりました。そしてそれぞれの精神は、先行する精神から、世界の国を受け継いだのです。

この継起の目標は、(精神の)深みの啓示にあります。そしてこの深みは、絶対的概念です。つまり啓示は、こうして精神の深みを止揚すること、言いかえると、精神の広がりであり(精神が広がりを見せることであり)、自己内存在する自我を否定すること― この否定は精神の外化であり、実体(精神を実体として示すこと)です ―です。また精神の時間(精神が時間のうちに現れること)です。

それは、このような外化は外化そのものにおいて自分を外化するということです。そして、外化(から生じる)広がりのなかで、同じようにその深みのなかに、自己のなかにあるということです。

目標となる絶対知、あるいは自分を精神として知る精神は、自分の目標にむかう道程として、もろもろの精神がそれら自身においてどのようなものであるか、そしてそれらがどのように自分の国の有機組織を成しとげるかについて、これら精神の想い出をもっています。

これらの精神を保存することは、偶然性の形式のなかで現象する存在の側面から見ると、歴史です。しかし、それらが概念的に把握された有機組織という側面から見ると、現象する知の学です。二つはいっしょになって、概念把握された歴史となり、絶対精神の想い出を、「頭蓋の場」(ゴルゴタの丘)をかたちづくります。

言いかえると、精神の玉座の現実性、真理性、そして確実性をかたちづくっているのです。こうしたものが欠けるならば、絶対精神は、生気のない孤独なものになるでしょう。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1019:190218〕