一 概観、そしてEntfremdung概念の特異性
1 「精神」章の流れと、B「Ⅰ」の位置
「精神」章の展開には、古代ギリシア・ローマ、ついでアンシャン・レジームからフランス革命へいたるフランス、そしてドイツという歴史的社会が背景におかれています。「精神」章Bは、とくにフランスを背景においた精神史的展開を念頭においています。
さて、すでに扱われた「法状態」は、<自己>がみずからのありかたから離反することをとおして、流動化していきます。「精神」章Bで、この〈自己からの離反〉は、抽象的普遍に生気を吹き込み、自己と世界を独特の仕方で結びつけます。〈自己からの離反〉による形成と転倒をとおして、自己が現実世界にあまねく刻印されていきます(「自分から離反する精神の世界」)。伝統的価値秩序は崩壊し、近代啓蒙が姿を現わして、それは、天上、つまり信仰の批判へと向かい、絶対的なものを地上へと引きずりおろし、個別と普遍のぴったりとした統一を地上に実現しようとします(「啓蒙」)。
近代啓蒙の意識、「純粋明察」にとって、彼岸性をもつものは何もなく、世界は自分の意志のうちにあります。個別的意志がみずからの普遍性を確信し、それがそのまま普遍的意志となり、主権を打ち立てます(「絶対自由と恐怖」)。自己の実現となるはずのものが、一転してその徹底した否定を生みだす。ここに、精神の展開の一大転機があります。ここでは、近代啓蒙の光と影があますところなく描きだされます。
さて、『精神現象学』には生成の意識が働いています。序文の「現代は誕生のとき」であり、「精神は新たに自分を形成しなおす仕事にとりかかっている」(GW9.14,上十一) は、それを伝えています。「精神」章Bもこのコンテクストのなかにあります。〈自己(自己意識)〉は、「A 真の精神、人倫」(ギリシア的人倫)を出発点として世界経験を重ねて、「C 自己自身を確信する精神、道徳性」、その完成としての「良心」にいたります。
「精神」章の冒頭に、
「精神は、直接無媒介のありかた(ギリシア的人倫)を越えてその何たるかの意識にまで進んでいかなければならない」(GW9.240,下七三八)
とあります。ヘーゲルは、「理性」章B冒頭で述べていた、積極的な意味での「人倫的実体とは何かの意識」(GW9.196,上三六〇) の成立を、つまり近代の立場に立つ人倫についての知の成立を、「良心」においています。
『精神現象学』のなかで、意識は自然的意識から出発して、教養形成をへて、「精神の自己知」(絶対知)に進んでいきますが、このなかで「外化(Entäusserung)」概念が重要な役割を果たします(G.Lukács,Der junge Hegel,Bd.2,Suhrkamp Taschenbuch Wissenschaft33,1973,Ebner,Ulm.『ルカーチ著作集十一 若きヘーゲル』(下)生松敬三・元浜清海・木田元訳、白水社、一九七二年)。ヘーゲルは、そのなかで二つの方向が必要であると言います。
それは、「自己意識が自分を外化して、自分を物つまり〈普遍的な自己〉となすこと」、そして「実体が自分自身を外化して、自己意識となること」(GW9.403,下一〇九三) という二つの方向の「外化」です。
このとき、〈実体の外化〉は、「神的実在が人間となること」(GW9.405,下一〇九八) 、つまり受肉(incarnatio)の哲学的意味を問う「啓示宗教」論の場面でテーマになります。それに対して、〈自己意識の外化〉は、おもに「精神」章Bで、自己意識が対象的世界とかかわるなかで、その対象性を止揚する過程を主宰しています。このなかで、
意識は「対象の個々の規定を各々自己として把握することによって、対象が意識に対して真に精神的な実在となる。」(GW9.422,下一一三八)
この〈外化〉概念とともにはたらき、とくに「精神」章Bの「Ⅰ」で、公的なものを善とし、私的なものを悪徳視する伝統的な固定した価値観、諸関係を突き崩していくときに、中心的な役割を果たすものが、Entfremdung概念です。
2 Endfremdung概念の特異性
ヘーゲルは「精神」章Bに「Der sich entfremdete Geist. Die Bildung」というタイトルをつけています。そこに、主体が自分の本質的諸力を喪失して、それが対象的な力に転じて逆に主体をたんなる物としてしまうという意味はありません。しかしマルクスないしヘーゲル左派的な疎外論のイメージがこれまであまりにも強すぎたために、「ここでのヘーゲルの叙述は紆余曲折してまことに理解困難である」(クーノ・フィッシャー『ヘーゲルの精神現象学』玉井茂・宮本十蔵訳、勁草書房、一九九一年、二一七、訳者の注)というため息も出てきます。あるいは「教養は自分に自分を対立させることによって自己疎外となるが、云々」(同前)というように、ヘーゲルが一度も使っていない「自己疎外Selbstentfremdung」概念が、おそらくマルクス的な含みで持ち込まれたりします。マルクスやヘーゲル左派というプリズムをはずしてヘーゲルにそくして読むならば、概略に書きましたように、すっきりと読み解くことができます。sich entfremdenはヘーゲル固有の意味で理解しなければなりません。ヘーゲルはこの章でsich entfremdenをおおよそ三つの意味で用いているのですが、それは、「二 4」、「二 5」、「三 3」に見ることができます。
疎外(Endfremdung)概念は、ヘーゲル左派の思想圏に、時代批判のキー・コンセプトとして登場したものです。ながらく思想史の表舞台に登場することはなかったのですが、マルクス『経済学・哲学草稿』(一八四四年執筆)が公表(一九三二年)されて、あらためて思想界に「疎外」概念が登場します。そしてマルクスが『精神現象学』の「疎外」論を標的にしていたこともあり、ヘーゲルのEntfremdung概念が、ヘーゲル左派的、ないしマルクス的疎外論から理解される、そんな傾向が生まれたのでした。
ここではEntfremdungを「離反」と訳します。「疎外」という訳は、この「精神」章Bを読む上で障害になりかねません。「精神」章BのEntfremdung概念は、基本的な枠組みとその働きという点で、ヘーゲル左派のB・バウアーやL・フォイエルバッハそしてマルクスなどの疎外論と大きく異なるものです。この辺の事情については、最後に述べることにします。
二 世界を形成し、転倒するEntfremdung
1 分裂は、自己意識のあり方に支えられている
「法的状態」は、個人を法的に平等に承認するという近代に通じるものをもちながら、個人と実体との間に実によそよそしい関係を生み出していました。世界は、一方に砂粒のようにばらばらになった群衆、他方に個人の生活から遊離した抽象的普遍(法- 権利)に引き裂かれています。個々人は、共同のきずなを離れ、偶然のまっただなかに放りだされています。かれらは、互いに冷ややかで、むきだしの「排他的な自己」(264-14 、下七八五) となり、共同体は、もはやかれらの生きるよりどころではありません。共同体は、それどころか、「世界の主〔皇帝〕」の「巨大な放埒」(263-12、下七八三) という「よそよそしい現実」(264-22 、下七八六) となって、かれらをもてあそびます。「自然的元素のように原始的なもの」(264-25 、下七八六) が、猛威をふるいます。
しかし、この外面的な現実は、何よりもまず、個人を自然のままにしながら、その個人が<法的人格>として承認されることと引き替えに成立しているものでした。「自己意識自身の放棄(疎外化、Entausserung)、存在剥離(Entwesen)を通して」(264-27 、下七八六) 、自己意識は、およそリアリテイ をもたない法的人格に引き下がっていました。現実は、この自己意識のあり方と相関的です。自己意識のこのようなあり方こそが、この現実を支えています。対象的世界のありようと、個人のありようとは通じ合っています。
「この世界は即自的には〔潜在的には、世界という対象的な〕存在と個体性との浸透である。世界のこのような定在は、自己意識のふるまいの帰結(Werk)である。」(264-20 、下七八六)
ロ-マ帝政末期を思わせる法状態のなかで、個体は、根無し草のようによるべない。しかし、個体のありようと、それによそよそしい現実とは、分かちがたく結びついています。ヘーゲルは、個体が変わることのなかに、世界の変貌する可能性を見いだします。
この現実の「否定的本質は、まさに自己にある。自己がその主体であり行為であり、生成である。」(264-31 、下七八六)
個体が法的人格にとどまるならば、何も変わりません。個体が本当に己れを託せるようなよりどころ、つまり実体が現実のものとなるためには、「人格からの離反」(264-33 、下七八六)、人格としてのありかたからの離反がおこなわれなければなりません。
「したがって、自己の実体は、自己の外化(放棄)そのもの〔から現実化するもの〕であり、そうして外化が実体である〔実体にリアリテイ を与える〕。つまり、一つの世界にまで秩序づけて、自分を維持する精神的威力である。」(265-2、 下七八七)
2 価値の転倒を通して近代が生まれる
この自己は、伝統的なきずなや価値観にしばられていません。自己と本質存在(実在、Wesen )、対自と即自(自体)、あるいは個別的なものと普遍的なものが、たしかに分離していました。しかし、そのかわり、「それだけで遊離した対象的現実」(265-7、下七八七)と、それについての意識が登場しています。
さらに、「この外面的な現実は、自己の労働によるものである」(264-26、下七八六)という意識が誕生してきました。分離が生じたからこそ、自己は対象に自由に働きかける。分離・分裂に、ヘーゲルは積極的な意味を見いだします。ここで、近代世界に目を向けて、すべてを懐疑にかけるデカルト的コギトや、新しい共同体や価値観の基礎になるホッブズ的な自己保存を本性とする個人を思い浮べてみてください。もちろん、違いがないわけではありません。ここに姿を見せた〈自己〉は、人倫的共同の経験(「精神A」) をくぐりぬけ、個別と普遍との調和のとれた一体性に思いをはせています。
さて、伝統的社会には、それに見合う秩序意識や価値観があります。それらは、なんら確固としたものではない。そこに生きる意識にとって、このことは必ずしも自明ではない。これらの自明性を解体してはじめて、自己は、世界のうちで自由にふるまうことができます。「離反(疎外)」には、これらの固定した秩序をたえず流動化し、反転させていく独特の働きがあります。いくつかの局面をもつ「離反(疎外)」を通して、あらゆる価値が転倒され、意味を失っていきます。このめまぐるしい価値の転倒を通して、ヘーゲルは近代的啓蒙(「純粋明察」)を登場させます。
この事情をヘーゲルは次のように述べます。
「この精神は、二重の世界を、分離し対立する世界を、自ら形成する。・・・ 〔現実世界の〕実在としての各契機は、その意識を、したがって現実性をある他方の契機から受け取る。この契機が現実的になると、その実在は、その現実性と違うものになってしまう。何一つとして、自己自身の内に根拠をもった精神をそなえていない。かえって自己の外にでて、よそよそしい〔自分とは異なる〕精神の内に存在する。・・・」 (265-16、下七八七- 八)
3 離反(疎外)のさなかから近代啓蒙理性が生まれる
現実的な意識と純粋な意識、現実的な意識がかかわる国家と富(経済)、現実の世界と純粋意識の国(信仰の世界)、これからこの舞台に登場してくるものは、すべて二重化してきます。いずれも自分のうちに根拠をもたず、そのありようから離反していく。「純粋意識」は確固たるものが何もない現実世界・此岸を逃れ、救いを求めて、彼岸の国(信仰の国)を立てます。しかし、彼岸への逃避は、かえって此岸にとらわれていることを示しています。此岸の感覚的なものが、そおっと信仰のうちにまぎれこんでいます。離反(疎外)は、この世界をも巻きこんでいきます。
「この〔純粋意識の〕世界は、かの〔現実世界の〕離反(疎外)に対立しており、そうだからこそ離反(疎外)から自由ではない。かえって、離反(疎外)の別の形式なのである。」(266-28、 下七九〇)
「純粋明察」(近代的啓蒙の意識)は、信仰が感覚的なものと超感覚的なものとをごちゃまぜにしている点を衝き、天上のものから感覚的なものをひきはがし、天上のものを空虚なものとして、地上へと引きずりおろします。こうして、現実の世界そして信仰の世界で、教養をつんだ自己にとって、世界のうちに自己の刻印を帯びていないものはなくなります。啓蒙理性は、離反(疎外)のさなかから姿を現わします。
ヘーゲルは、フランス啓蒙思想を念頭において、こう述べます。
「この第二の自己は、自分がおこなう外化から自分に立ち返り、普遍的な自己、概念を把握する自己となるであろう。・・・ 純粋な明察〔第二の自己、啓蒙理性〕は、あらゆるものを自己として把握する。あらゆる対象性を消し去り、あらゆる即自存在を対自存在に変える。・・・ あらゆる現実が実体性を喪失して、信仰の国も実在的世界の国も崩壊してしまう。 このような革命を、絶対自由がもたらす。」(266-4、下七八九)
4 離反(疎外)は個人を社会的存在にする(用法1)
人は成長する途上で、じつにさまざまなかたちで社会性を身につけます。しかるべき振る舞いが身についていなければ、その人は変り者扱いを受けます。ここには〈自己〉の自然性から身を引き離し、社会性を身につけるという一連のプロセスがあります。「離反(疎外Entfremdung) 」ならびに「外化(Entausserung)」は、社会と個人とを独特の仕方で結びつけます。
「自己意識は、自己自身から離反(疎外)するかぎりで、ひとかどのもの(Etwas) になるし、実在性をもつ。自己意識は、こうして普遍的なもの〔社会で認められたもの〕として自分の〔身を〕立て、そしてこの普遍性が、その自己意識を通用させ現実的なもの(sein Gelten und Wirklichkeit)とする。」(267-22、 下七九一- 二)
自然的存在からの離反(疎外)には、自己を洗練する働きがあります。さまざまな資格を張りめぐらす社会では、教養形成(Bildung)がものをいいます。ヘーゲルがここで想定するサロンは、その典型といっていいでしょう。
「個人は教養をもてば、それだけ現実性と威力をもつ。」(267-33、 下七九二- 三)
〈知は力なり〉(F.ベーコン)なのです。自然の種をもちつづけている人には軽蔑の言葉が投げつけられます。
「〔フランス語の〕エスペ-ス(種)は、『あらゆるあだ名のうちでもっとも恐るべきものである。それは凡庸を意味し、最高度の侮蔑を表わす。』(デイ ドロ『ラモ-の甥』からの引用)」(268-12、 下七九三)
教養は、自己からの離反(疎外)を通して生まれます。このような離反(疎外)を通して、自己は、あるがままの自己を否定し、普遍性をそなえた自己になります。
5 離反(疎外)は観念に生気を吹き込む(用法2)
自分の主体的本質が外在化する。そして対象化されたものが主体と化して、自分に支配的威力として向かってくる。「疎外」は、ふつうこんなふうに理解される。この用法は、ヘ-ゲル左派の思想圏にまで下る必要があります。ヘーゲル固有の疎外論を理解するには、この用法をわきにどけておきましょう。
この「精神」章Bの舞台では、タテマエ・観念にすぎないイデア-ルなもの、あるいは本分としての「本質(実在)」が、自己から離れて自己のそとに存在しています。その間に必然的つながりはありません。「離反(疎外)」、「外化」には、自己の自然性からの離反もしくは放棄をとおして、イデア-ルなものに自己を適合させ、それに生気を吹きこむ働きがあります。イデア-ルなものとレア-ルなものが結びつき融合します。
「この世界では、自分自身を外化するもののみが、したがって普遍的なもののみが現実性を手にする。・・・ 個々人とのつながりで教養形成として現われるものは、実体における思想上の普遍性が現実性にそのまま移行することである。それは言いかえると、実体の単純な魂であり、ここから即自〔抽象的普遍〕が承認されたものになり、現に存在するものとなる。」( 268-9、 下七九三- 四)
「離反(疎外)」は、自己を自然性から離反させ、普遍的なものの担い手とする。そのときすかさずタテマエとしての実体が、現実化して諸個人に担われる、という回路を、ヘーゲルは描き出しています。世界が動きだします。
「自己意識は、動かしがたい現実が自分の実体であると確信して、この現実を我がものとしようとする。」(268-26、下七九四)
そこには、個別と普遍との生きた統一という思いが、息づいている。
三 反転する価値、近代啓蒙の生成
1 国権と富、高貴と下賎 ― 舞台の設定
「精神」章Aの「人倫的世界」には、調和のとれた国家と家族がありました。ところが、それらはばらばらになって、生気のない「かたまり(群、Masse)」と化してしまいました。ひとつは、あくまで個別的なものの根拠として、普遍(即自)を本領とする本質(実在、Wesen )と、もうひとつは、普遍的なものを個別的なものに差し出し、個別(対自)を本領とする本質(実在)です。
それぞれ、思想の上では「善」と「悪」とみなされます。そして、それぞれ、現実の上では「国権(国家権力)」と「富」にむすびつきます。ここには公共的普遍を善に、私性を悪に固定する、前近代の考えが働いています。
近代人は、みずから物事を判断し、物事を推理的に結びつけます。このあり方は、伝統的なきずなや価値観から自由な意識です。ロ-マ的「法状態」に登場した「自己」にはその萌芽がありました。
「自己意識は、これらの対象〔かたまり〕から自分が自由であることを知っている。それらのうちのいずれかを選べると思っているし、何も選ばないこともできるとさえ思っている。」(271-6、下八〇〇)
「精神」章Bで、自己意識は、国権に善を、富に悪を見ます。こうして、いったん自己意識が対象的本質について判断を下すと、一気に場面が動きだします。
「国権は、そこで諸個人の本質が表明され、かれらの個別性が端的に、かれらの普遍性の意識になる絶対的な〈事そのもの〉である。国権は、諸個人の作品〔仕事〕であるが、かれらの行為から生まれたものということが消え去り、単純なものとなった結果である。・・・ 〔国権は〕変わらざる同一性によって〔オミコシとしてかつがれてオミコシの面目を保って〕存在する以上、〔他に依存する〕対他存在である。国権はそもそもそのまま自己自身の反対、つまり富である。(270-13、 下七九八- 九)
富もすかさずそれ自身とは反対の顔を見せます。
「各個人は、享受という契機において利己的にふるまっているつもりでいる。・・・ と ころが、各個人は享受〔消費〕において、万人に享受すべく与え、労働〔生産〕においても自分のためだけでなく、万人のために労働し、また万人が彼のために労働している。」(270-28、下七九九)
富の側では、「見えざる手」(スミス)が働いて、個別が普遍を生みだしています。個別を生みだすだけではありません。
しかも「自己意識は、即自的〔普遍的〕であるとともに対自的〔個別的〕でもある。だから、国権と富に、二重の仕方で関わらざるをえない。」(271-19、 下八〇一)自己のうちなる即自を尺度にするか、対自を尺度にするかで、国権と富は-それぞれ即自と対自という二重の顔をもつ-、自己にとって善くもなり悪くもなる。この関係をト-タルにとらえるとき、典型的な二つの意識が明らかになります。
一方は、二つの本質に広い心でのぞみ、国権におのれの本分を見、富の恩恵に感謝を見る。もう一つは、国権に束縛と抑圧を見、富に執着しながら、その恩恵に軽蔑の念をいだく。「高貴な意識」と「下賎な意識」です。一方で、人格豊かな騎士・封建貴族、他方で、せせこましい商人を思いうかべていいでしょう。国権と富、高貴と下賎、これらには、善と悪というレッテルが張られています。しかし、これらは、世界に動きが生じれば、図と地が代わるだまし絵のようにひっくり返っていくでしょう。
2 貴族の奉公と絶対君主の誕生
高貴な意識は、人々の尊敬に何にもまして誇りや名誉を感じます。正義に身命をかけ、自己犠牲をいとうことがありません。そのような行為は、とても庶民には手がとどかないものです。天下国家という大義におのれの本分を見る意識にとって、国権は「絶対的な根底」(270-18、 下七九八)であり、善なるものです。貴族は、自発的で熱烈な「奉公のヒロイズム」(274-17、 下八〇七)をとおして、身すぎ世すぎへの埋没から離反し(疎外)、私事を捨てて(放棄‐外化)、大義にふさわしい人士たらんとします(教養形成)。
国権は、熱心な担ぎ手がいなければ、ただの「思想の上での普遍」にすぎません。しかし、ひとたび人の心をとらえるや、ひとたび熱心な担ぎ手を見いだすや、「存在する普遍的なもの、つまり現実的な権力」(274-26、 下八〇八)に転じていきます。「離反(疎外)」の行為をとおして、イデア-ルな思想上の本質が、それにふさわしい担ぎ手に担がれて、いわば〈受肉〉します(おみこし担ぎ)。
この〈奉公のヒロイズム〉をとおして、国家がリアリティをもって姿を現します。しかし、さまざまな意見があっても、それを裁き「決断する主体」が国家には欠けています。
「対自存在〔私心〕は、諸身分〔三部会や民会〕の腹にかくされた本心であり、それは、公共の利益を口にしながら自分のために自分の特殊な利益を確保しておく。」(275-15、 下八一〇)
これは、「誇り高き封臣」(275-5、 下八〇九)にもあてはまります。人々の称賛を意識するところ、自己へのこだわり(私心)があります。ただし、公共的普遍への献身と、したごころという、意識の内なる分裂は、封臣の本意ではありません。もしそうなら、この意識は、つねに、したごころ、ひいては謀反の意志をもつ下賎な意識と少しも変らない。対自存在(私的個別存在)の外化(放棄)、この〈自己からの離反(疎外)〉は、「奉公」から「追従(へつらい)のヒロイズム」(278-1、下八一五)に進みます。このことが、とりもなおさず君主を担ぎあげ、絶対君主とします。
「追従の言葉は、君主に固有の名前を与えることによって、・・・ その個別性を純粋な 存在にまで高める。・・・ 個別者〔君主〕は、自分の意識においてのみならず万人の意識のうちで、純然たる〔絶対的な〕個別者として通用する。」(278-12、下八一六)
精神の「言葉」は、それを外に発することで、心の内を表にさらけだします。そして、そこで発せられる君主の名は、万人に聴き取られるに値する名前として天下に広まります。
「高貴なもの〔貴族〕たちは、装飾品のように玉座のまわりに群がり、玉座に座るものに向かって、彼が何であるかをいつも口に出して言う。」(278-23、下八一七)
君主は大きな吸引力になり、貴族は宮廷貴族になりさがります。ここに、〈朕は国家なり〉(ルイ一四世)という自覚が生まれます。
3 国権は富に転倒する( 物事を反対に転じる―用法3 )
こうして、高貴な意識の徹底した献身から、国権は絶対君主において岩盤のように堅固になりました。ところが、このことは、〈献身〉という担ぎ上げがあってはじめて、成り立っています。国権は、それ自体で堅固なものから、いともたやすく、〈他に依存する〉自立性に反転してしまいます。
「国権は、〔一転して〕自己から離反した〔疎外された〕自立性となる。そもそも国権固有の精神〔君主〕は、高貴な意識の行為と思いの犠牲に、自分の現実と栄養を得ているからである。」(278-32、 下八一七)
国権は、もはや彼岸性をもつ崇高な大義ではありません。それどころか、高貴な意識は、誇りと引き換えに物質的な手当てや恩賞を「取りもどしている(zuruckerhalten)」。「権力の外化(放棄)」(279-11、 下八一八)が生まれます。つまり国権は空洞化して、貴族の側に実権が移っていきます。国権の外皮は残るものの、今や「自己意識の契機」に反転、つまり高貴な意識が自分の身を肥やすものに反転します。
「それゆえ国権は今や、〔個人の享受するものとして〕犠牲に差しだされることを、その本領とする実在となっている。すなわち国権は富として実存する。国権は、富に対立しつつ一個の現実として存立してはいるものの、概念〔核心〕から言えばいつでも富になる」(279-6、下八一八)
反転するのは、これだけではありません。「名誉〔体面〕をたもちながら我執をにぎりつづける」(279-22、 下八一八)高貴な意識と、下賎な意識との間には、さして違いがなくなっているのです。高貴は下賤である。アンシャン・レジームの価値秩序は大きく揺らぎます。
4 高貴は下賎、下賎は高貴
これらうわべの背後では、新たな世界が動き始めています。富にとっては、個々人のために用いられること、個人の享受(対自)が本領です。富は、これまでの世界を飲みこむように、独自の威力となって、日陰から日なたに躍りでてきます。「富は、〔個人の享受のために〕自分を犠牲にするという使命を果たした。そのことによって、・・・ 富は、〔自立的な〕普遍性あるいは実在となる。」(281-13、 下八二二- 三)即自(普遍、公共)の顔をもつ富に〈悪〉というレッテルは、もはやふさわしいものではありません。
この富を舞台に、これまでにはなかった新しい意識形態、富める者とそれに寄食する者が登場します。かれらは、賎しい点では変わりありません。ただし、前者は「おごりたかぶり」、ものごとのうわべしか見ません。「富める者は、他の自我の内面的な反抗を見落としてしまう。」(181-29、 下八二三)後者(寄食する者)の〈自己〉は、この他者(富める者)にすっかりにぎられて、まったくのきまぐれに晒されます。与える・与えないは、「たまたまの偶然やきまぐれ」にすぎません。「この意識は、自分の自己がよそよそしい意志に支配されているのを見いだす。」(280-18、下八二〇)内面が深く引き裂かれていきます。感謝のうちには憎悪がこもり、「心の奥底から反抗の感情」が立ち上がる。「この人格は、すっかり引き裂かれている。」(282-22、 下八二五)自己は自己でありながら、他者の自己となって自己でない。この自己における端的な反転ないし転倒は、じつはこの世界のありようを、最もよく映しだしています。
「〔現実世界の〕精神は、現実〔国権と富〕と思想〔善と悪〕における絶対的な余すところなき転倒であり離反(疎外)である。・・・ これらの契機は、いずれも互いに他方のものに転倒し、自己自身の反対になる。」(282-31、 下八二五)
屈辱と分裂のまっただなかで反抗に立つ意識は、現実世界のこれらの転倒を、だれよりもよく知る者です。「類いまれなしなやかさ(Elasticitaet)」(281-4、下八二二)をもって、引き裂かれては抗いつつ自己を回復する。「下劣さは、自己意識がもつ最も教養ある自由の高貴さへと転換する。」(283-10、 下八二六)
5 ラモ-の甥の分裂した言葉
ヘーゲルは、ゲ-テが訳したばかり(一八〇五年)のデイ ドロ『ラモ-の甥』の主人公のうちに、この意識を見た。身をもちくずし寄食するこの道化者は、自分にかぶせられる規定をするりと抜けだしてしまう。
「その語り口は、『慧眼と狂気ごちゃまぜのたわごとであり、あれほどの老練と下劣、正しい観念と虚偽の観念、感情の完全な倒錯、まったくの恥知らず、底抜けの率直さと真実、それらが入り混じったもの』(引用)として現われる。」(284-5、下八二八)
ここにヘーゲルは、「精神(エスプリ)豊かな言葉」(286-14、下八三三)を見いだします。 むしろ、この道化者の話し相手になる「誠実な」哲学者の方が、善や高貴の固定観念にとりつかれ、価値の転倒にたじろいでいます。「没精神的」なのは、じつは「精神豊か」に見える哲学者の方でした。
あらゆるものが価値の転倒におそわれます。本当に自立的であり、よりどころたりうるものは、もはや「純粋な自己」(286-16、 下八三三)以外にはありません。この自覚が生まれます。今や、この世界にこだわるに値するものは何も見いだせません。
「あらゆる事物が空であることは、〔とりもなおさず〕自分自身の空である」(285-31、 下八三一)
四 近代的啓蒙の意識は、信仰(宗教)批判にむかう
さて、「Ⅰ 自分から離反する精神の世界」の成果は、「二 啓蒙」、「三 絶対自由と恐怖」へと引きつがれていきます。「Ⅰ」の成果の確認をして、まとめとしましょう。
この自己と普遍的本質(実在)とがぴったりと合一する。これは、<自己>の変らざる思いでした。純粋意識は、混沌とした現実を逃れて、「純粋意識の非現実的な世界」(286-29、 下八三四)を立て、これをはたそうとします。「絶対実在についての純粋意識」(288-2、下八三七)、つまり信仰の境地です。しかし、「意識は、現実から純粋な意識に歩みでたが、いまだ概して現実の領域と限定のうちにいる。」(286-33、 下八三四)この意識は<逃避>とというかたちで、現実と対立しながら、現実をそのままにしています。せっかく思惟の境地に入りながら、無意識に五感の働く現実を信仰のうちに受けいれてしまっています。
純粋意識は、すかさず自分自身の反対にとりつかれます。
「純粋意識は、本質的に自分自身において自分から離反している〔疎外されている〕。信仰は純粋意識の一方の側面にすぎない」(288-7、下八三七)
教養の世界の<成果>、つまり「純粋自己意識」です。この「普遍的な自己」(288-16、 下八三七)は、自己の普遍性を確信し、自己にとってよそよしい対象から対象性を剥奪して、あらゆるものに自己の刻印をしるそうとします。これは、「純粋な明察」(reine Einsicht)とも言います。
「ここには二つの側面がある。〔一〕対象的なものはすべて、ほかならぬ自己意識という意義をもつ、そして、〔二〕自己意識は、普遍的なものであり、純粋な明察がすべての自己意識自身のものになる〔共有される〕べきだという。」(、291-20、下八四五)「純粋な明察は、すべての自己意識にこう呼びかける。・・・ 理性的であれ。」(292-12、下八四六)
ここに近代「啓蒙」の積極的要求が掲げられて、啓蒙は、信仰に戦いを挑み、信仰との戦いをへて、地上の批判へと進みます。フランス革命です(「絶対自由と恐怖」)。
五 疎外論― 思想史的回顧
最後に、Entfremdung(離反、疎外)をめぐり、思想史的な回顧をおこなっておきましょう。
1 フォイエルバッハ―神と人間の本性の同一性にもとづく自己対象化論
フォイエルバッハはどうでしょうか。マルクスは『キリスト教の本質』(一八四一年)がでた当時さほど関心を示しておりません。彼が積極的な関心を寄せたものは、『将来の哲学の根本命題』(一八四三年、序文日付七月)や「哲学改革のための暫定的提言」(『アネクドータ』所収、一八四三年三月)でした(たとえば一八四三年三月一三日づけルーゲあて書簡)。そこでフォイエルバッハは、ヘーゲル哲学を、キリスト教神学を合理化した「思弁的神学」、「汎神論的観念論」としてはっきりと決別し、真に現実的なものから出発する「新しい哲学」を提唱していました。それは自然を土台とする感性的現実的な人間を基礎とするものでした。
フォイエルバッハは『キリスト教の本質』で、神の本性と人間の本性を同一のものと見るヘーゲル宗教哲学を評価し、その上で宗教を「人間が自分の本質についてもっている知」として示そうとした。宗教の秘密は「人間が自己の本質を対象化し、それからふたたび自己を、このように対象化されて主体に転化した本質の客体とする」(5.71、九・八六)点にあると言います。
フォイエルバッハは、この解明にあたって「自己対象化」、「自己外化」をキーワードとして使うのです。そこには神の本性=人間の本性という前提があります。なお『キリスト教の本質』初版の「疎外」の用例は、「感性から分離され自然から疎遠になった有神論的悟性」(5.88、九・一〇〇)、「人間は自然から疎遠になればなるだけ、自然を前にしていっそう大きな恐れをいだくことになる」(5.242、九・二四九)にほぼ尽きるでしょう。また『将来の哲学の根本命題』(三三節)、「哲学改革のための暫定的提言」(9.249、二・三七)に二例ほど見えます。「疎外」はフォイエルバッハの術語と言えるものではありません。
なおフォイエルバッハの「類的存在(本質)」としての人間には、本質という理念的性格と我と汝という経験的な場面があります。「自己対象化」、「自己外化」はとくにこの前者と結びつく術語でした。そのため感性の立場を強く打ちだす『将来の哲学の根本命題』や「哲学改革のための暫定的提言」では、そして後期には、影をひそめることになります。
2 バウアー―実体的なものはすべて自己意識の疎外にもとづく
ところで、マルクスはベルリン大学の学生時代に講義の出席についてさほど熱心ではなかったといわれます。しかし講師バウアーの講義には熱心に出席していました。二人の関係は、のちに共著を考えるほどでした。バウアーはヘーゲル宗教哲学方面で将来を期待されていましたが、しだいに宗教批判に転じていきます。そしてキリスト教批判を手がけるときのキーワードが「自己意識の疎外(Entfremdung)」なのです。
「疎外」は『共観福音書批判』(一八四一‐四二年)の後半、『無神論者・反キリスト者ヘーゲルを裁く最後の審判ラッパ』(一八四一年)第六章「宗教の解体」以降)でキーワードとして登場してきます。
歴史の発展のなかで「宗教的意識は、自己意識自身の普遍的本質が自己意識にとっては彼岸的な力・その実体として現れてしまう、そういう自己意識の形態なのである。」(『ラッパ』159、一八八)
その極限がキリスト教です。自己意識は普遍性をそなえているが、この普遍性は歴史のなかで自己意識の外部に絶対的なものとして固定されてしまう。このなかで
「疎外は、人間的なものをすべて包括する全面的なものとならざるをえなかった。」(『共観福音書』第三巻、309)
自己意識の本質的諸力が自分から失われて、疎遠な力に転化し、それを前にして自己意識が身震いするようなあり方がここに生じるというのです。この倒錯性をバウアーは暴露しようとします。なお、バウアーは「自己疎外(Selbstentfremdung)」を用いていませんが、この思考様式を「自己疎外」としてもよいでしょう。マルクスは、バウアーの近くにいて「自己疎外」論による宗教批判に精通していたはずです。
3 バウアー、フォイエルバッハそしてマルクス
さて、マルクスの背景には、ヘーゲル、フォイエルバッハ、バウアーなどの個性的な立論がありました。『経哲草稿』のマルクスは、「自己疎外」、「自己外化」、「自己対象化」などを基本的な術語とします。これらはほぼ同じ意味で用いられている場合もありますが(たとえば584、二一七)、それらの含意の違いはさほど定かではありません。用語の形式面では、「自己疎外」はバウアーに通じていて、あとの二つはフォイエルバッハに通じています。これらには主体の本質的諸力の自己喪失と、そうして外在化したものが主体に転じて逆に本来の主体が客体と化してしまうという共通の枠組みがあります。
これまでの検討から分かるように、これはヘーゲルのものではなく、フォイエルバッハやバウアーに固有のものと見てよいでしょう。またフォイエルバッハの立論が人間の本性と神の本性の同一性を前提にしていたことを思い起こすならば、主体とその疎外態との異質性を強調するバウアーがマルクスに影を落としているといってもよいでしょう。
もちろんマルクスは、疎外とその止揚の過程を担う主体をヘーゲル的なそしてバウアー的な「自己意識」ではなく、フォイエルバッハをふまえた自然を非有機的な身体とする現実的な人間とするときでも、それを自己活動つまり労働の主体として、マルクス独自の視界から捉えなおしています。またフォイエルバッハが用いなくなる「自己対象化」、「自己外化」に、個としての労働とともに、人間的類としての労働から新たに内実を与えようとしています。またマルクスは宗教的疎外論がそのままでは現実世界に通用しないということをわきまえています。「実践的な現実的世界では、自己疎外は、ただ他の人間たちに対する実践的な現実的関係を通じてのみ現れることができる。」(519、一〇一)その上で「人間の自己疎外としての私有財産」や「疎外された労働」にメスが入ります。マルクスは疎外論に解明すべきたくさんの課題を背負い込ませているのですが、ここでは、マルクスの自己疎外論がヘーゲル左派のコンテクストのなかにあるということ、そしてヘーゲル『精神現象学』の“疎外論”の世界は、これらヘーゲル左派的な疎外論の世界とは端的に異なるということを確かめるにとどめます。
注
『精神現象学』の引用は、G.W.F.Hegel Gesammelte Werke,Bd.9,in Verbindung mit der Deutschen Forschungsgemeinschaft,Hrsg. von der Reinisch-Westfälischen Akademie der Wissenschaftten,Hamburg,1968ff.金子武蔵訳『精神現象学』(下巻、岩波書店)のページ数を、アラビア数字、漢数字で示す。なお、アラビア数字の後半は、行数を示す。
(Ⅰ) 表題の訳には、次のようなものがある。「自分から疎遠になる精神」(金子武蔵訳『精神の現象学』下巻、岩波書店、一九七九年)、「自己疎外的精神」(樫山欽四郎訳、『世界の第思想十二 精神現象学』、河出書房新社、一九六九年)、「疎外された精神」(長谷川宏訳、『精神現象学』、作品社、一九九八年)。
初出: 日本ヘーゲル学会公開セミナー 第3期第4回 2013年4月21日 於跡見学園女子大学
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study579:130511〕