情況出版から『脱原発 経産省前テントここに在り!渕上太郎遺稿集』が贈られてきた。表紙裏の最初のページに裏表二枚、渕上がアジっている写真が掲載されていた。懐かしさというよりも、ついこの前別れた友人と再会したような感覚を覚えた。「よう!」といつも通りの挨拶を交わして、・・・。
記憶が極めてあいまいなのだが、最初に彼を見たのは(会ったのではなく、「見た」のであるが)、おそらく1965,6年頃、現在の高層ビルに建て替える前の明治大学の古い建物の一階大教室で行われた都学連だったか全学連(三派全学連)だったかの結成集会で、彼(あるいは望月彰だったかもしれない?)が東京学芸大学の闘争報告をやっていた時だったように思う。その時の彼の印象は全然覚えていない。ただ、闘争報告をやっていたことを記憶しているだけだ。
そのあとは、お互いに活動領域が違っていたこともあり接触はなかったか、仮にあったとしても顔見知りではなかったため、素通りして済ませてきたと思う。
はじめて彼を意識したのは、90年代の半ば過ぎに廣松渉さんに誘われて『情況』を手伝い始めてからだ。そのころ彼は自前の小さな会社を作り、「版下」の制作を生業にしていたようだ。当時の『情況』編集長の古賀さんに言われて何度か彼の会社に足を運んだことがある。汚いビルの二階の狭い部屋で作業しているのを何度か見かけた。
その時の印象は、やせた小柄で、人のよさそうな人物というぐらいだったが、古賀さんから「あいつがML派をマルクス・レーニン主義派から毛沢東・林彪派に転向させた張本人だ」と聞かされて「まさか?」と驚いた記憶はいまだに鮮明に残っている。その後、彼に直接そのことを聞いたことがあった。あの人の好い笑顔で「事実だよ」と笑いながらうなづいていた。
60年代のML派は、われわれの一般的なイメージから言えば、理論的な中身はないがゲバルトの強そうな体育会系の猛者たちの集まりで、「こいつら、どこで間違えて学生運動をやり始めたのか」と訝るような集団だった。もちろん、何人かの「理論家」もいたようだ。渕上はその理論家のうちの一人だったのかもしれない。
そのあとも何度か顔を合わせてはいたが、「よお!」という挨拶程度で、それほど親しく話をしたことはなかった。
2011年3月11日の福島第一原発事故の後しばらくして、中野駅近くのマンションの一室にあった事務所(正式な名前は失念した)での活動者会議に出ることになった。20~30人程度の小さな集まりだったが、渕上たちはすでに福島の被災者あてに定期便で食料や飲料水をトラック運搬し、彼らとの交流をやっていた。もちろん「経産省前テント村」も設営されていた。
その日の会議終了後に、駅近くの大衆酒場に何人かで出かけた折、たまたま渕上と隣り合わせになり、初めて彼と親しく話をする機会を得た。
「実は今まで原発には全く関心がなかったのだが、今回の事故で、これはこのまま見過ごすわけにはいかない。何とかしなければ、という思いでやりはじめた」「一世帯につき仮に一億円程度の補償をやらなければならないとして、どれくらいの金額になるだろうか」「原発の原子炉の大きさはどれくらいのものかについて資料を調べている、それを解体するとすれば、どれぐらいの時間、どれぐらいの費用が掛かるだろうかが問題だと思う」等々。こういう会話が中心だったように思う。とにかく外見は柔和だが、芯が強そうで、しかもまじめに勉強していて、なかなか一般の左翼活動家の中では見当たらない貴重な存在だな、と思った。
それからはちょくちょく会うようになった。デモだとか会議や集会だとか、あるいはこちらから「テント村」に出向いたときなどである。相変わらず「よお!」という程度の挨拶が主だったが、時折は立ち話や、ビールを飲みながらの雑談などもした。
一番の思い出は、福島原発事故の一年後に、私たちが主催している現代史研究会で「原発問題」を取り上げて、京都大学原子力助教(当時)の小出裕章さんや福島の現地闘争を戦っている女性(椎名さん)をメインゲストにお呼びしたことがあった。その時、講師の方々が揃うまでの前座として(まったく失礼な話ではあったが)、渕上に時間を埋めるための前口上を頼んだことがあった。その時も彼は一言の文句も言わずに、その願いを受け入れてくれた、そしてゲストが出そろうまで、うまく時間合わせをしてくれた。そのおかげで当日の研究会(明治大学のリバティタワー一階の大教室を使用)は、立ち見までぎっしりの超満員で、それでも足りずに別の教室を借りて、会場からオンライン放送をするという大盛況だった。
今思えば、渕上には謝礼なしで無理難題を押し付け、大変な迷惑をかけた。心から感謝する以外に言いようがない。
その人となりは、いくらか茫洋としていて、「暖簾に腕押し」といった柔軟な姿勢の男で、気取りもハッタリもない。それでいてじつに気骨がある粘り強い奴。こういう人間でないとあれだけ長期にわたって「テント村」を維持することはできなかっただろうと思う。この本の中でもほんの少し触れていたが、右翼などからの妨害などにも平然と対応し、それでいて決して小ばかにした「上から目線」などではなく、あくまで五分にわたりあっている。自分に理解できることは理解できると言い、わからないことは正直にそう言っている。
この強さがあったればこそ、裁判で「公道の不法占拠」を問われて、すごい額の罰金を言い渡されても平気で笑い飛ばす度胸があったのだろう。故・正清太一さんともども「経産省前テント広場」の村長が相次いで鬼籍に入ってしまったのは誠に残念ではあるが、そんなことをいちいち嘆いていては、それこそ渕上に笑われるというものだろう。それよりも「反原発運動を継続しろ」と。
ここではあえてこの「遺稿集」の内容には立ち入らなかった。直接手にとって、渕上の人柄の温かさ、誠実さに触れてほしいと心から願う。(なお、渕上太郎を「渕上」と敬称略で書いたことの失礼はお詫びしたいが、今までの彼との付き合い上、あえてこう呼ぶほうが筆者として納得がいくと思ったからだ)。
2021.4.18記
記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion10746:210418〕