『自由の現実化こそ理性の絶対的目的である—若きヘーゲルの苦闘』

著者: 合澤 清 あいざわきよし : ちきゅう座会員
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書評:『若きヘーゲル』上 ルカーチ著 生松敬三・元浜清海訳(白水社1998)

 

ルカーチの『若きヘーゲル』は上、下二巻から成る大作である。上巻では、ヘーゲルのベルン時代とフランクフルト時代が俎上に載せられ、その思想的変転が詳細に検討されている。下巻ではイェーナ時代を扱っている。当初ヘーゲルは、フィヒテ哲学を媒介として、シェリングと共同で出した「哲学批判雑誌」に論文を寄稿していたが、結局シェリング哲学とも決別して、独自な哲学体系の構築に努めた成果が『精神現象学』であり、その思考過程が丁寧に追跡されている。この下巻において特に注目されるのは、著者ルカーチがいち早く、ヘーゲルとイギリス古典派経済学の関係の重要性に着眼して追いかけている点である。ヘーゲルはイギリス古典派経済学、特にジェームズ・ステュアート、アダム・スミスなどを研究し、丹念にノートを取りながら経済学を学び、中でも、分業と、道具、そしてその到達点としての機械化(機械制大工場)の問題、更にそこから必然的に生ずる人間(労働者)能力の細分化、非人間化に注視している。

『イェーナ体系構想』の主要部分を構成するヘーゲルの「労働論」はその集成である。ルカーチはこのことに焦点を当てて、この書の下巻を書いている。この本の最大の目玉がこの点での「若きヘーゲル再発見」にあることは言うまでもないだろう。

日本でも、1965年頃、京都大学の出口勇蔵、平井俊彦の研究グループが『経済学と弁証法』(ミネルヴァ書房)という書物の中で、ルカーチが取り上げたこの問題に留目し、ゼミナールの成果をコンパクトにまとめている(このことは、前にも触れた。cf,「評注:K.レーヴィット『ヘーゲルからニーチェへ』」(ちきゅう座掲載))。ルカーチのこの書のサブタイトルが「弁証法と経済学の関係について」となっていたということは今度この本を読むまで私自身の記憶にはなかった。

今回書評として取り上げたのは上巻のみで、この書の圧巻である下巻はいずれ機会があればと思うのだが、評者=私の興味から言えば、「ルカーチ論」として思考するよりは、ルカーチが探り当てたヘーゲルの議論(特に「イェーナ体系構想」)に焦点を当てて考察するほうがはるかに面白いと思えるようになっている。

 

ルカーチの視点にはロシア・マルクス主義のバイアスがかかっている!

ルカーチはこの書(上巻)では、主にヘルマン・ノールの編集になる、いわゆる「ヘーゲル初期神学論文集」を下敷きとして、「イエス・キリスト」論を主軸に若きヘーゲルの思索の変遷を討究している。

このルカーチの『若きヘーゲル論』には二つの視点(立場)が交錯しているように思う。一つは、当然ながらルカーチ自身の「若きヘーゲル再発見」からくる驚きと喜びの気持ちがある。おそらく、若いころのマルクスやエンゲルスが、そのころ「死せる犬」として顧みられなくなっていたヘーゲル哲学を再評価=再発見し、自分たちは「ヘーゲルの弟子である」と宣言した時のような高揚した気分であったろうと思われる。

もう一つはそれと反対に、マルクスやエンゲルス、そしてレーニンによって弁証法的方法論を体系化した哲学者として高く評価されながら、それでも結局は「悪しき観念論者」として批判されたこと、この否定的見方への同調である。つまり、所詮は「革命的唯物論者」にとっての「敵=観念論者」であり、反動的な「体制擁護論者」(実際にヘーゲルは長い間、「プロイセンの御用学者」とみなされていたし、K.レーヴィットやK.コルシュ、G.リヒトハイムなどによっても、やはり「政治的保守主義者」とみなされている)であるという、当時一般に流布されていた通念(常識)にのっとった視点である。それに加えるに、ルカーチの時代はスターリンの強力な支配下にある時代であった。スターリンによる容赦ない「ヘーゲル断罪」(「反革命の観念論者ヘーゲル」というレッテル)に逆らうことは、すなわち自ら「反革命」の汚名の下に粛清されることになりかねなかったのである。

このことへの警戒心から来るものか、それとも彼の思想の中にも、同様な通念がしみ込んでいたためか—おそらく両方の要因を併せ持っていたものと思われるが—この本の中には、繰り返し「観念論者ヘーゲル」への批判が出てくるのである。

 

この本を書きながらのルカーチの苦闘は、前者に重きを置いて書き進めば、当然弾圧は免れないであろうし、さりとて、せっかく再発見した「若きヘーゲル」をみすみす手放したくはない。何とかこの思想を生かして、マルクス・レーニン主義の新たな理論武装(特に対ファシズム戦において)に役立てたい、というものであったろうと推測しうる。このディレンマから逃れるにはどうするか、考え得る逃げ道はただ一つ、それは「若いヘーゲルは後に転向した」という点を強調する以外になかったろうというものである。そしてこの見解を強引に押し出すルカーチ自身、ヘーゲル評価においてぶれていると思う。

 

ルカーチには『ドイツ文学小史』(岩波現代叢書1961/63年)という著書がある。実は私=評者が、ルカーチの著書に最初に接したのはこの本であった。有名な『歴史と階級意識』を読んだのはその後である。

白状するが、『ドイツ文学小史』にはがっかりした。あまりに教条的な文学論、これでは文学がもたらす創造的なふくらみ、豊かさはすべて消されてしまうのではないだろうか。少なくとも私の目には、この本の主張は「史的唯物論」という金城鉄壁、動かしがたい物差し(歴史観)で測られ、選別されたドイツ文学史のスターリン版教科書としか思えなかった。今、埃だらけのこの本を手に取り、その帯文を眺めてみて、その謳い文句に逸興を覚えた。そこには「透徹せる史観に貫かれた新しき文学史の範型!」と書かれていたのだ。なんとも「シニカル」な謳い文句ではないか!この言葉の意味を真逆にした印象こそ、まさにこの本の中身に対して私が抱いたものである(先の出口、平井らの研究書では、ルカーチというよりはヘーゲルの経済学研究に興味を覚えた)。

 

この本から受けた印象があまりにもマイナスだったため、それ以後ルカーチを読むときには「スターリン主義者」のバイアスがかかり、あまり楽しめなかった。今回の『若きヘーゲル』も、読み始めてすぐに同様な不満を感じて、思考が上滑りになり、ただ文字面を追いかけているだけという状態が続いた。

絶対的に正しい尺度としてあらかじめ前提されているマルクス、エンゲルス、レーニンの片言隻句が金科玉条のように持ち出され、それによって正誤表が権威づけられている。更に、やたらに「弁証法的…」という言葉が乱発され、何一つ明確化されないままに、「弁証法的」に推移したり、転倒したり、集約されたり、が繰り返される。ヘーゲルご本人もあまり使っていない(加藤尚武の研究から)「弁証法的」という「形容詞」に何か意味があるのだろうかと、ほとほと困り果てた。

それ故の私の印象は、ルカーチは思想家、哲学者というよりは、はるかに文学者(文芸批評家)としての要素が強い人ではないか(それにしても、あんなひどい「文学史」を書いてはいけないだろう!)、というものであった。ヘーゲルの思索の追蹤を、その思考の中身に入り込んで行うのではなくて、ローゼンクランツの『ヘーゲル伝』を参考に、青年期ヘーゲルの読書遍歴、身辺事情や、対人関係から類推し、解説する、「ヘーゲル哲学語るのではなく、ヘーゲル哲学について縷々物語る」いわば評論家的スタンスだ、というのが私のイメージだった。

しかし、この本を読み進むにつれて、この考え方が少しづつ変わってきた。特に下巻では、資料の集約能力、着眼点の的確さ、筆力などに驚かされることになった。

 

ここでは上巻にのみ限っての書評ではあるが、ルカーチがこの本の中で注視しているのは、ヘーゲルがベルン時代の「主・客二元論」から抜け出し、フランクフルト時代において「関係論」的思考(「愛Liebe」)への移行を徐々に対自化しつつあるということである(もちろん、このことを肯定的に評価しているわけではないが…)。

この小論は「ヘーゲル論」ではなく、あくまでもルカーチの『若きヘーゲル』への書評に過ぎないので、まずルカーチその人の略歴(人物像)を一瞥したうえで、ヘーゲルの思想的な移行期と、それへのルカーチの解読を要約的に検覈したいと思う。

 

ルカーチの略歴

ジョルジ・ルカーチは1885年にハンガリーの首都ブダペストで生まれ、父親は銀行家で、貴族という家庭であった。1909-17年にかけて、ドイツの大学で主に美学を学び、ジンメル、ラスクらと知り合いになる。彼の関心は、ヘーゲルとM.ヴェーバーにあったといわれる。また、E.ブロッホと親交を結び、それは生涯絶えなかったようだ。

1918年のハンガリー革命で、ベラ・クーンの共産主義的政権が成立し、ルカーチは教育人民委員(文部大臣)に選出される。しかし、4か月後に、この政権が軍事クーデターで倒され、彼はウィーン(約10年滞在)へ、それからモスクワ(約16年間滞在)へ亡命する。

ウィーン時代に彼が書いた『歴史と階級意識』は、コミンテルン主流派(デボーリン)からの批判にあい、彼は自己批判することになる。その後は主に、文学分野で指導的役割を果たしながら、反ファシズム運動を戦った。1956年のハンガリー動乱に連座して一時期逮捕されている。

ルカーチが活躍した時代は、「ロシア革命」(ハンガリー革命)から反ファシズム戦争真っ盛りの時代である。彼がコミンテルンから批判されて自己批判したのは、スターリンの粛清を免れるための一時的な方便だったといわれるが、その後の経過の中で、彼はその自己批判の内容を自己正当化するようになったのではないかともいわれる。

しかし、彼が「…社会の主体としての人間の実践、表現、倫理などを『全体性』においてとらえようとする思想的作業は、メルロ=ポンティ、L.ゴルドマンらに影響を与えた…」という。(参考文献:池田浩士編訳『論争 歴史と階級意識』河出書房新社)

 

正統(ロシア)マルクス主義者ルカーチから見た若いヘーゲル

まずルカーチ『ヘーゲル論』の基本的な視座を端的に述べれば、弁証法的唯物論の立場から見れば、ヘーゲルの哲学的観念論は所詮は神学に他ならない、ということになる。

先ほど述べたように、当時の諸事情を勘案して、その点は少し割り引いて考えてもよいだろう。

一時期よく流行ったのが、「君は唯物論者ではなく、観念論者だ」「それは唯物論に反している。全くの観念論だ」等々ということで相手を打ち負かしたとする類の議論である。もちろんこれは「唯物論」は絶対に正しく、「観念論」は全くの間違いだ、という考え方を前提にしたものであり、それは論証抜きの「信仰」に近かったと思う。

本当にそうなのかと反問する必要はないのだろうか。眼前に見える「机」や「本」をまさに「机」「本」として認知しうるということは、それらがすでにわれわれにとって、意識化され(極論すれば、共同・主観化され)て「ある」からに他ならない。存在する一切のもの(夢や言葉なども含めて)は、われわれにとって「主体的観念」というありかたをしている。フィヒテがすべての存在をただ「主観」(=自我)のうちに取り込んだこと、ハイデガーが「眼前にある存在」(Vorhandensein)に先立って、「ある目的をもった=用材としてある存在」(Zuhandensein)を措定したことには一定の根拠があったといえるのではないだろうか。

この種の信仰を助長し、定着させたのは、1917年「ロシア革命」の一定の成功によって権威付けられたレーニン主義であり、その継承者とみなされたスターリンによるレーニン主義の公式化(教条化、スターリニズム)であることは今日ではどうやら人口に膾炙してきたように思える。

かつて、亡命時代のレーニンは、ヘーゲルの『論理学』(いわゆる「大論理学」)を克明にノートしながら、それに逐一注釈を書き込んでいる(有名な、レーニンの『哲学ノート』)。しかし、いまこれを読み返してみると、かなり牽強付会な体裁になっていることに気づく。「哲学者」としてのルカーチの考え方も、この基準によって制約されていることは、この本の、特に下巻においてしばしばレーニンの言葉(時にはスターリンまで)が権威として引用されていることからもわかる。

 

ルカーチがこの大著を公刊したのは1948年(彼は1945年にハンガリーに帰国)であるが、実際にこの原稿が完成したのは、1938年晩秋だったという。この10年の間に、マルクスの『経済学・哲学草稿』(1932年)が、また同年に『ドイツ・イデオロギー』(アドラツキー版)が、相次いで発刊されている。(因みに、ヘルマン・ノールが『初期ヘーゲル神学論文集』を刊行したのは1907年である)。このことは、ルカーチのヘーゲル研究にとっては大変幸運だったはずである。マルクスのこういう初期の著書には、青年ヘーゲル派への批判とともにヘーゲル哲学への言及も非常に多い。当然、そこから受けた影響は計り知れないほど大きかったであろう。

 

ヘーゲルは、断片をも含めていくつかの「イエス論」を書いている。もちろん、ヘーゲルといえども、最初からそれらを一貫した思考の流れの中で統一的に展開しているわけではない。というよりはむしろ、絶えず行き詰りながら、その都度自分の思考過程を省察し、その「逼塞」の意味を総括しながら、次のステップを探っていくという、地味で忍耐強い作業を繰り返している。

実はこの地道な作業こそが、体系期ヘーゲルの思考の発展=展開(Entwicklung)、経験の重層的な積み重ねへとつながって行くことになる。ルカーチは、これを「弁証法的方法」と呼んで高く評価している。

周知のように、ヘーゲルはチュービンゲンの神学校時代(1789年、彼は19歳)にフランス革命から大きな衝撃を受け、共和主義と啓蒙思想に非常な興味を持つ(共感する)ようになる。

1793-96年、彼はスイスのベルンで家庭教師の職に就くが、その時期に書かれた「イエス論」に、その思想的な影響が強く刻印されている。

ベルン時代のヘーゲルは、まだ二項対立的発想法にとどまっている。「ベルン時代のヘーゲルでは、生けるものと死せるもの、主観的なものと客観的なもの等々が、厳しく対立していた。」(上 p.378)

興味深いのは、この対立図式の中でヘーゲルが主観性のほうに重点を置いていることである。

ヘーゲルが最初期に書いたといわれる断片に、『民族宗教とキリスト教』というのがあるが、その冒頭文は「宗教はわれわれの日常生活(人生Leben)の最も重要な要件の一つである」で始まり、幼少時の素朴な宗教体験(礼拝)が讃えられている。つまりヘーゲルにとって宗教とは、外から、上からのお仕着せではなく、まず心の問題であり、あくまで主体の「自主性」「自由な意志」を尊重するという態度である。

「われわれは、若きヘーゲルにとっては、キリスト教という既成的(positiv)宗教は専制と抑圧の支柱であり、他方、既成的でない古代の諸宗教は自由と人間的尊厳の宗教であったことを言っておかねばならない。若きヘーゲルの見解によれば、その自由と人間的尊厳の宗教の復興こそ、彼の時代の人類が実現しなければならない革命的目標なのである」(上 p.76)

「ヘーゲルはこの時代には客観的宗教と主観的宗教とを対照させる。『(客観的宗教では)悟性と記憶が…そこで働く力である。…一冊の書物の中に表現され、他人に言葉によって講義される。主観的宗教はただ、感情と行為において表現される…主観的宗教は生きている。本質の内面における作用と外への活動』」(上 p.92)

これらのことから推して、若いヘーゲルがフランス啓蒙思想、特にルソーからかなり影響を受けていたということは一応考えてもよいように思う。アンシャン・レジームの古い制約から解放されて、大自然に向かって自由にはばたく、といった解放された個人の自由の?歌である。

しかしヘーゲルの慧眼は、そこに同時に、時代の進展とともに、社会から切り離され、アトム化された個人(小集団=セクト)が生み出されることをも透見している(分裂の時代)。

ヘーゲルは古代アテネのポリス社会を理想化しながら、公と私の統一された社会構想を考えていた、といわれる。確かにヘーゲルには一時期そういうロマン的傾向があったかもしれないが、それは後に「過ぎ去った良き思い出」のうちに解消されている。むしろ若いヘーゲルにとっては、フランス革命によって樹立された共和主義が「古代アテネのポリス社会」の現代版として評価され、イギリスやフランスの啓蒙思想の影響の下で「自由と人間的尊厳」が追究されたと考えるほうが、その後の彼の思想展開から考えて自然ではないだろうか。

廣松渉の解釈=改釈によれば、若きヘーゲルはやがて「市民社会そのものを止揚して、人倫的共同体たる理性国家を確立することが必然的な要件である所以を説く」ことにまで至るのであるが、それはこの書評をはるかに超えた領域の話である。

とりあえずここでは、個人の自由の時代(個体性の自立)とは、同時に個人と共同体社会の間の分裂の時代でもあるということに止目しておきたい。

 

ヘーゲルは長い間、イエス・キリストの評価に苦しんだようだ。そこにはイエス個人への評価の動揺とキリスト教会(教会制度=既成的宗教)への批判が入り混じっている。

「ベルン時代にはイエスに対するヘーゲルの同情と共感はまだ本質的には少なかった。彼はなるほど、純粋道徳の教師としてのイエスに対してある種の同感を持っていた。しかしその際でも、彼はイエスをソクラテスよりも本質的には低く見ている。ソクラテスがその弟子たちを公的生活の活動へ導いていったのに対して、教師としてのイエスはその弟子たちを社会生活からの隔離へ、個人的な殻に閉じこもることへと教育したのである。それゆえそれは私的宗教であり、イエスの弟子の数にはすでに物神崇拝のしるしが見えるのである。」(上 p.144)

細谷貞雄が「迂路としてのキリスト教」と呼んだ、ある種の「セクト」形成—天国へ至るには、必ずキリスト教(教会)という迂路を通らなければならない—への疑いである。

「常に全民族に向かっていた古代の諸宗教に対して、キリスト教は、それが個々の人間に関わり、救済、つまり個々の人間の魂の救済に関わるということがまさしく特徴的なことなのである。…この対置は宗教上の古くからの問題である。すでに中世の革命的な宗派(セクト)運動がイエス本来の教えをカトリック教会に論争的に対置し、イエスの教えからの離反のうちに、キリスト教が堕落して搾取者と抑圧者の宗教となったことの根拠を見ていた。」(上 p.143)

「ヘーゲルによれば、キリスト教が既成的となる必然性は、それが単に個々人にのみ向けられ、個々人としてのその完成のみを目的とする道徳的掟が、その発展につれて社会へ拡張されることのうちにあるのである。この発展段階は、第一はイエス自身の教えとその直接の弟子に対する関係、第二はキリスト処刑後に生じたキリスト教の諸宗派であり、そこではその萌芽形態においては常に存在していたこの既成的(実定的)特徴がなお一層強く表れ、キリスト教徒の原始教団の意図された道徳的統一から強い既成的特徴を備えた一つの宗教的宗派が形成される。最後に第三は、これらの教えの全社会へのより一層の拡張、支配的教会としてのキリスト教であって、ここではこの生に疎遠な、生に敵対的な既成性の諸力が、中世から近世への全発展を規定する宿命的な意味を持つのである。」(上 p.145)

以上をマルクス主義者ルカーチは次のように総括する。

「キリスト教はあらゆる領域において一個の既成的教会となり、その創始者の元々の私的道徳は、私的関心に基づく社会、つまりブルジョア社会に必然的かつ適合的な宗教である、かの独断的偽信へと転化することになる。」(上 p.148)

つまり、キリスト教は、アトム化された個人から成るブルジョア社会に実にふさわしい宗教だ、というのである。「死せる戒律が生きた人間を支配する」(上p.84)。「戒律」を資本と読み換えれば、そのままマルクスの主張になる。

 

イエズス会がそうであったように、ヘーゲルにも後進土着民族への差別・抑圧意識はあったのではないか、という疑義が寄せられたことがある。この本の中でルカーチが引用しているヘーゲルの次の一文をご覧願いたい。

「キリスト教が多種多様な風俗や性格や体制に適応したことは、ある時には非難の的とされ、ある時は称賛の的とされてきた。ローマ帝国の腐敗堕落がキリスト教の揺籃であった。この帝国が没落に向かい始めた時、キリスト教は支配的となる。ローマ帝国の崩壊がキリスト教によってくい止められただろうとは、人々は考えない。反対にキリスト教はローマ帝国の崩壊によってその勢力範囲を拡大し、最も忌むべき悪徳のうちに沈淪している、洗練されすぎた奴隷的ローマ人およびギリシア人の宗教であると同時に、最も無知で粗野な、しかし最も自由な野蛮人たちの宗教であることになる。キリスト教は中世の最も美しき気まぐれな自由の時代のイタリア国家の宗教であり、もっとまじめで自由なスイス共和国の宗教であり、近代ヨーロッパの様々な段階の温和な君主国の宗教であり、また同じく、最も抑圧された農奴の宗教でも、その主人たちの宗教でもあった。その双方が一つの教会に通ったのである。十字架を先立ててスペイン人はアメリカの全住民を虐殺し、イギリス人はインド劫略のためにキリスト教賛美歌を歌った。キリスト教を母胎として造形芸術の最高の開花が生まれ、諸学問の高大なる建物がそびえた。そしてキリスト教の栄誉のためにはあらゆる美術も追放され、諸科学の形成も神の喪失とみなされた。いかなる気候風土にあっても十字架の樹は茂り、根を下ろし、実を結んだ。人々は生の喜びのすべてをキリスト教に結び付け、不幸極まる憂愁はキリスト教において栄養と弁明とを見出したのである。」(上pp.405-6)

 

それでは青年ヘーゲルは宗教をどうあるべきと考えたのか。ルカーチによれば、ヘーゲルは「新たな宗教の復興」=宗教改革を目標にしていたという。

生方卓(『ヘーゲル事典』1991)はその点を次のように説明している。「プロテスタンティズムの原理は、『精神が自らのうちにあること、自由であること、自己のもとに至ることという契機』…つまり神的精神と人間的精神の同一性であるとヘーゲルは考える。彼はルターとともにカトリックの聖餅を批判するのであるが、それはそこでは神と人間との統一が、精神においてでなく物性においてなされているからである。聖餅はさらに僧侶と俗人の区別、聖書と真理との階級的所有、精神に対する侮蔑、聖俗二元論、結婚と労働と主体的従順とに対する軽視、総じて精神の絶対的不自由と人倫的退廃をもたらしたのであり、宗教改革はそれら諸帰結の全体を覆したのだった。しかしそれとともに和解、平和、信頼、および愛が失われてしまったことも、ヘーゲルは看過していない。彼がプロテスタンティズムとカトリシズムの対立を超えた地平に『新しい宗教』を展望したことの理由はそこにあった」

 

「愛」と「生」による合一(Vereinigung)

ヘーゲルが個人の自由を考えるとき、そこには同時に絶えず他者が入り込んでいる。他者、すなわち共同体社会との関連から抽象されては、いかなる個人存在も考えられない。

ヘーゲルは1799年頃に書かれた『ドイツ憲法論』(断片)で次のように述べる。

「人間は単独で生きることはできない、…しかも人間はつねに孤独である。…時代は人間を内的世界へ追いやったが、この人間の状態は、もし彼が内的世界に止まろうとすれば、絶えざる死であるのみであり、あるいはもし自然が人間を生へ駆り立てるとすれば、現存する世界の否定的なものを廃棄し、その世界のうちに自己を見出し、自己を享楽し、また生きえんとする努力であるほかないのである」(上p.204)

弟子だったキルケゴールの「ヘーゲル批判」の論点を先取りして反批判している。

 

ルカーチは、フランクフルト時代(1797₋1800年)のヘーゲルの考えは次の点でベルン時代と大きく異なっているとみる。

「ヘーゲルは個人の生から出発する。個人は既成的諸制度や人間の間の既成的諸関係に満ちた、いや、既成性によって殺され客観的事物と化した人間に満ちた一個の社会に住んでいる。そして彼の問題はもはや、いかにしてこの既成性の社会が粉砕され、これと根本的に違った社会にとってかわられうるかということではない。むしろ逆に、いかにして個人がこの社会において人間的な生活、したがって自己及び他者における、また人間や事物に対するその関係における既成性を廃棄する生活を送りうるか、ということである。社会的問題はそれ故、個人的・道徳的問題に転化する。…しかもそれには、この個人的・道徳的問題提起によってブルジョア社会との宥和に、その既成的性格の(場合によっては部分的な)廃棄に到達しようとする根本的傾向が伴っている。…この時代のヘーゲルが自己の哲学的努力を表現する手立てをしようとした中心的カテゴリーは、愛である。」(上p.219)

そして、ルカーチによれば、この思想上のゲシュタルト変換をもたらしたのは、フランクフルト時代にジャームズ・ステュアートとアダム・スミスから学んだ経済学であったというが、もちろんその解釈には異論もある(例えば、速水敬二)。

ローゼンクランツは有名な『ヘーゲル伝』において次のように書いている。

「ブルジョア社会の本質について、欲望と労働について、企業と諸身分の財産、救貧制度と警察、租税等々についてのヘーゲルの一切の思想は、結局はステュアートの経済学の独訳への注解に集中しているが、彼はそれを1799年の2月19日から5月16日までに書いたのであって、それはまだ完全に保存されている。そこには政治と歴史への多くの雄大な展望や多くの鋭い評言が現れている。ステュアートはなお重商主義の徒であった。ヘーゲルは競争の真っただ中で、また労働と交易の機構の中で人間の心情を救おうと努力しつつ、崇高な情熱をもって、興味ある豊富な実例を用いて重商主義の死せるものと戦った」(実は、このノートは紛失しているようだ)。

ヘーゲルは、最初期の「宗教は心の問題である」という言葉に込められた個人(個体性)の自立、自由を決して捨ててはいない。自立した個体性と社会共同体との間の分裂を止揚したいというのが彼の最大の課題であり、終生そのことを追い求めたと思われる。

その最初の答えが「愛による対立の統一(合一)」ということである。

そして唯物論者ルカーチの批判もこの「愛」に向けられる。つまり、「彼の愛の思想は必然的に宗教的なものに転化せざるを得ない」(上p.220)からである。

「イエス論」を繰り返し推敲しているころの若いヘーゲルの主な関心が宗教にあったということは当然である。そして、ユダヤ教の律法に象徴されるような、われわれの「心の外」に定立された既成的(positiv)戒律への反発は、個人(人間性)の自由を讃えるヘーゲルからすれば、これまた当然至極であろう。

しかし、先にキルケゴールとの関連で触れた如く、ヘーゲルの個人は孤立した存在ではなく、社会的な連関の中にある生身の肉体を備えた生(生命)である。それゆえに社会的な軋轢、葛藤から解き放たれてはいないのだ。このことが、ヘーゲルをして、自由なる個人と社会との合一の実現はいかにして可能か、の課題へと向かわせることになる。

「宗教は愛と一つである。愛される者はわれわれに対立しているのではない。彼はわれわれの本質と一つである。われわれは彼のうちにただ自己のみを見る―しかもまた彼はわれわれではない―これは、われわれが理解することのできぬ奇跡である」(上p.220)

 

「山上の垂訓」といわれるイエス・キリストの有名な説教がある。詳細は省くが、その中にヘーゲルが見たのは「他者(律法)の中において自己自身である」という「愛」の合一の思想であった。つまり、「既成性」は今や自己の「外化(Entäußerung」あるいは「疎外(Entfremdung)」として、精神化され、再び自己へと還帰する概念へともたらされることになる。このことは例えば、芸術作品を考えるとわかりやすい。芸術作品は自己自身の感情や感性の外化である。精神は自己をその他者において概念的に把握 するという対立物の統一(合一)が成立する。

 

書評にしては少し長すぎたので、この辺でそろそろ擱筆したいと思うのだが、肝心のルカーチの見解についてあまり批評していない点と、ヘーゲルの「合一論」がこのままでははなはだロマンチックな(あるいは宗教的な)レベルに終わっている点が気になるので、それらの点のみ補足しておきたい。

 

結び(補足)

ルカーチはもちろん、かかる「愛」による合一では納得していない。

「弁証法への方法論的な移行は、…個々の概念の硬直的な一義性の相対化であり、相互間の明確な限界の段階化であり、一概念の多概念への移行の開始、その硬直的・固定的な形而上学的絶対性の解消である。フランクフルト時代のヘーゲルのこうした一般的な哲学的傾向は、体系断片においては意識的な方法となっているように見える。ベルン時代の(二元論的な構図と)…この点で、『キリスト教の精神とその運命』(1798-1800年頃)は重要な一歩を意味していた。」(上p.378)と一応評価している。その上で、次のように批判する。

「(宗教による)主観的原理と客観的原理の生きた統一、人間と世界の対立の、人間と神との統一における解消、…かくして神秘的な似非(pseud)現実の領域が成立してくる…それは全く無内容—『精神現象学』において、すべての牛を真っ黒にしてしまう夜の闇(これはヘーゲルがフィヒテを批判した言葉である:評者注)—であるか、あるいは任意の反動的な内容で勝手気ままに満たされうる非合理主義的な容器であるかのいずれかである。」(上p.388)

下巻でルカーチが1799-1806年にかけてのヘーゲルの経済学習得の成果(特に『イェーナ体系構想』)を強調するのは、それまでと一線を画して、ヘーゲルが「史的唯物論」に接近したことを言いたかったようだ。この本でルカーチが引用しているレーニンの『哲学ノート』では、幾度も「ヘーゲルにおける史的唯物論の萌芽」が讃えられているからだ。(ヘーゲルに取りつかれた)ルカーチの自己保身の方便でもあったとも考えられる。

最後にヘーゲルに関して触れておきたい。

ヘーゲルの死生観は興味深い。彼は人間は死んだらそれっきりで、すべては消え去る(永遠の無に帰す)と考えている。キリスト教にはない考え方ではないのか。

さらに驚くのは、先に触れた『イェーナ体系構想』中の次の叙述である。

「フランス革命においては恐るべき暴力が国家を創建し、もっと一般的に言って全体を創建したのである。この暴力は専制政治などではなくむしろ圧制政治であり、まぎれもない恐怖政治なのである。しかしまさしくその暴力が国家をこの現実的個体として構成し維持しているのである限り、それは必要でもあれば正しくもあるのだ。この国家は、自己自身を確信した単一な絶対精神であり、それにとっては自己自身以外のいかなる規定も、すなわち善悪、陋劣下賤、奸悪卑劣などのいかなる概念も通用しないのである。この国家はこうしたすべてを超脱している。なぜなら、この国家にあっては悪でさえもが自己自身との宥和に達しているからである」

「大工場やマニュファクチュアはまさしく一階級の悲惨を土台にして存立しているのである」

ヘーゲルはロベスピエール(ジャコバン派)の恐怖政治を厳しく批判したはずである。それにもかかわらず、である。「階級闘争」と「プロレタリア独裁」に先鞭がつけられていた、と考えるのはあまりにも深読みであろうか。しかし、恐るべき、また非常に興味深いヘーゲルである。           2023.2.9記

 

 

 

 

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