ブルマンさん、つぎのような学兄のつい最近の文章に注目しました。
[ブルマンさん曰く]「焦点を絞れば、価値表現における相対的価値形態と等価形態に置かれる商品間の関係をそのまま逆転は出来ないという宇野理論と『資本論』価値形態論を隔てる基本的論点についてある意味で再確認した、というのが実態でしょう。『資本論』は文面の通り「リンネル20エレ=上衣1着」は逆の関係「上衣1着=リンネル20エレ」を含むとしているが、価値表現の主体が相違すれば、価値表現も単純な逆転関係を再現する保証は全くなく、むしろ相違する=逆転成立しないというのが原理である、というのが宇野説の骨子。そこに非対称性を埋め込むべきではないのか。資本主義経済の基本関係である商品関係における個別無政府性の原点がそこにある。簡単に言えば上衣が相対的価値形態に立てば「上衣1着=リンネル15エレ」になるかもしれないということ。『資本論』=「資本一般」領域であるというのは、マルクス自身も言明しているので『資本論』の「正しい解釈」を論点にするなら、その通りですが、宇野理論では商品経済を基本関係に置く資本主義の無政府性を原理論から排除すべきではない、という立場から価値表現の今述べたような非対称性を問題にしてきたわけです」(「ちきゅう座」2015年10月22日、アップ・ロード。ボールド体は引用者。記号『』なども補筆)。
[ブルマンさん=ほぼ=内田弘] 拙著『《資本論》のシンメトリー』の58-60頁をご覧いただければ、私が上記の引用文とほぼ同じことを指摘していることが確認できます。その59頁の注29では、相対的価値形態と等価形態を逆から観ても同じ対称性を維持するという廣松渉さんの『資本論の哲学』での見解を、私は「その逆の関連は非対称性(asymmetry)である」と批判しています。その点で、私はブルマンさんと見解を共有します。よくその個所をご覧下さい。
マルクスは価値形態論の初め(Dietz Verlag, S.63)では、その等式の逆は全く別の価値形態であるとみてその「非可逆性」を言明したのに、第三形態への移行をめぐる議論に入ると、相対的価値形態と等価形態とを逆転して、第二形態は第三形態を含む、と書き、前言を翻したかのような記述をしています。マルクス内在理解者である私は、価値形態論における「第二形態から第三形態への移行」を巡る議論では、第二形態の第三形態へ移行の理論的な可能性をマルクスは指摘しているのであって、その移行の実践的な現実性を主張しているのではない、と理解しています。
[第一形態と第二形態の違い] 価値形態論の第一形態の等価形態は単一の使用価値で表現されるにすぎません。ところが第二形態では、等価形態は現存する商品世界の使用価値種類nのうち、相対的価値形態の1を除くn-1の数もあります。しかもその数はさらに無限に増加することを、相対的価値形態の無限態である価値そのものから要求されている「無限の系列」です。その意味で、第一形態と第二形態は同格ではなく、第一形態が偶然的な価値表現です。これに対して、第二形態は単一商品の価値表現の必然的な極限形態です。したがって、第二形態の「相対的価値形態と等価形態の関係」は、第一形態のそれと異なります。第三形態への移行可能性は極限まで接近しています。しかし、第二形態の場合でも、第三形態への移行はあくまで理論的な可能性にとどまります。したがって、マルクスの価値形態をめぐる言明も妥当性があると判断されます。
[理論と実践の区別と関連] 価値(対称性)という抽象的な無限態の表現様式である価値形態の理論は理念的理論的次元での論証であり、一般的等価形態の具体的な有限態である特殊な或る使用価値(非対称性。自然実体である金銀)での実践的実現は、異なる次元である交換過程論で論証されます。しかし、交換過程論ではまず、価値の実現と使用価値の実現とのトートロジカルなアンチノミー(初版の第四形態)に陥ります。この交換過程のアンチノミーは、「対称性[S]と非対称性[aS]との相互前提かつ相互排除の関連[S(aS):aS(S)]」です。しかし、価値形態論での第二形態から第三形態への「逆関連可能性」としての理論分析=が、そのアンチノミーから脱出する経路を理論的に指示し、一般的等価形態が生成すると判断します。この経路を否認すると、生成した一般的等価形態は、社会的妥当性の根拠のない、非理論的な単なる偶然的な存在となってしまいます。それでは、近代資本主義は自己維持する制度的根拠をもたないことになります。
[マルクスとカント] さて、ここでの重要なポイントは、[1]理論的考察と[2]実践的実現との区別と関連です。マルクスはカントの『純粋理性批判』における両者の区別と関連(B384-385)を、理論的な価値形態論と実践的な交換過程論に援用しています。カントが言明するように、普遍的な理念そのものを表現する具体的形態は存在しません。しかし、現実の特殊な場面では、特殊な諸条件に制約された具体的な一般的妥当形態が生まれます(自然言語の文法など)。その具体的な形態が一般的な概念の象徴・代表となります。その意味で、貨幣は象徴・代表です。しかも、その生成経路は普遍的理論的考察が提示する、とカントは主張しています。価値形態論と交換過程論の関係は、まさにカントのいう両者の区別と関連の適応例です。上記の『純粋理性批判』の個所をお読みください。そうなされば、マルクスがカントの発想に酷似していること、そこを援用していることに気づかれることでしょう。
[無政府性・暴力] 単に「無政府性のみ」を指摘するだけでは、一般的等価形態・貨幣の存在を理論的に把握できないのではないでしょうか。同じように、本源的蓄積過程を暴力(Gewalt)だけでは説明できません。《ただ暴力を振るえば、資本主義が生まれるのでしょうか》。『資本論』は、その暴力は近代資本主義の歴史的生成の「助産婦」であるといいます。近代資本主義の歴史的生成を「加速する梃子」であるという意味です。「貨幣原蓄・労働力原蓄・土地原蓄・技術原蓄」という四つの原蓄要素が胚胎している歴史的可能態を実現する一つの梃子が暴力でしょう。因みに現代の後発国の工業化は、自国の安価な労働力・土地と多国籍企業の資金・技術の接合に基礎づけられています。いまや、中国はかつて多国籍企業に援助してもらった技術・資金の提供を、アフリカ諸国だけでなく、イギリスに対しても(原子力技術・3兆円)実施しています。
[交換過程論の行為=実践] もっとも、マルクスは、交換過程における商品所持者の間の競争そのものは論究しないで、ただ『商品所持者は考える前に行為していたのである』と書き、自分の商品を一般的等価形態としての或る特定の具体的な商品に関連させると書きます。そのため、上記のカント援用が分かりません(マルクスは記述内容を凝縮しかつ隠蔽することを好みました)。その行為=実践のみが、このトートロジカルな矛盾から脱出する唯一の可能性です。マルクスは「このことは商品の分析で明らかにした」と指摘します。この「商品の分析」を、私は特に第二形態から第三形態への移行の理論的可能性=「逆の関連」の指摘であると理解しています。
[貨幣は経済的な首相である] 因みに、一般的等価形態・貨幣が資本主義的商品世界の代表であるように、代議制民主主義の代表は大統領・首相です。安部氏が日本の現在(まで)の政治意識の象徴であるように。この原則をマルクスは若い時(1841年前後)、スピノザの『神学・政治論』やアリストテレスの『デ・アニマ』の研究で指摘しています。したがって、『要綱』で指摘しているように、マルクス自身は代議制民主主義者ではありません。
[非対称的対称性から競争へ] 交換過程論での商品所持者の間の「競争」は、「資本一般」という枠で自制し示唆されるだけです。ここでも、競争がもたらす結果である「社会的平均」(ケトレ)で、「資本一般」を記述するという方法で記述されます。『資本論』では、競争の契機の導入は、例えば、相対的剰余価値論の例証として、特別剰余価値をめぐる諸資本の競争を援用するように、最小限にとどめられています。この競争論の捨象=抑制によって解明される「非対称的対称性=並進対称」こそ、他人(他の資本)ではなく、なによりもまず自己を絶えず超越して乗り越えてゆく「価値=資本」の運動の動因です。これこそが、第一義的に解明されます。その動因が複数の主体を前提とする場面では「競争」となって発現してきます。
[価値=非対称性(使用価値)の捨象・否定としての非対称的対称性] しかも、「資本一般」論としての『資本論』冒頭の単純商品からして、使用価値(非対称性)と価値(対称性)との統一態です。この並進対称となって展開する動因こそ、複数主体の間では「無政府性」となって発現してきます。相異なる使用価値(非対称性)の等置によって生成する価値(非対称性の否定としての対称性=非対称的対称性)こそ、いいかえれば、無政府性の背後の「使用価値(非対称性)と価値(対称性)」に起因する「非対称的対称性」こそが、近代資本主義のエンジンです。したがって、無政府性が究極の基礎ではありません。無政府性をさらに深く分析し「並進対称=非対称的対称性」に到達しなければなりません。その論理的始元は冒頭商品にあります。
[「資本一般」論は均衡論ではない] 安定した状態を自ら不安定化し、不安定な秩序を安定化する資本主義の自己矛盾した発展原理は、冒頭商品の「使用価値(非対称性)と価値(対称性)の統一態(非対称的対称性)」に存在します。その並進対称が自己組織原理である「資本一般」論を均衡論的に誤解してはなりません。均衡を自ら打破し不均衡に移動し、その不均衡を均衡化する「並進対称」のダイナミズムこそ、『資本論』の記述課題ではないでしょうか。「非対称的対称性」こそ、諸資本の間の「競争」となって発現する動因ではないでしょうか。『資本論』に競争論がないのは、『資本論』の欠如=欠陥(Mangel)ではなく、むしろ諸資本論へ前提を定礎する積極的な理論構築でしょう。「非対称的対称性」=「並進対称」で『資本論』が編成されているのは、近代資本主義が「並進対称」で自己を組織しているからです。『資本論』の並進対称の規則こそ、資本主義の自己矛盾に満ちたダイナミズムを根拠づける基軸概念でしょう。資本主義の経済学の原理論からして、自ら危機=恐慌を生み出す可能態=並進対称で編成されなければなりません。したがって、原理論の世界も、あたかも永続するかのような安定秩序ではない、と考えられます。『資本論』の「非対称的対称性論」はその「資本一般」論の後の編の本格的な競争論の前提となります。資本間の無政府的競争には「並進対称」という根拠があります。経済的国家がその無政府性=非対称性を対称化=均衡化するために行政政策を担っているのではないでしょうか。マルクスは『経済学・哲学草稿』のころから、『国富論』にこの「並進対称」を読み込んだと思います。
[終わりに] 拙著のいう「シンメトリー」とは「並進対称」のことであるという私の見解が了解されるならば、『資本論』が「非対称的対称性」のシステムであることを了解し、それはそののちの競争論を理論的に準備するものであることも了解されることになります。なお、『資本論』第3部の最後の「第50章 競争の仮象(Schein)」は、このような問題を考える上で参考になります(Scheinはカント用語。ほとんどの訳では「外観」と不適訳になっています)。『経済学批判要綱』「資本章」の自由競争論も参考になります。
ブルマンさん、ではまた。お元気で。 2015年10月25日(日) 内田 弘 (専修大学名誉教授)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study668:151026〕