『資本論』のシンメトリーは並進対称である ― 中野@貴州さんの投稿を読んで ―

中野@貴州さん

「ちきゅう座」への投稿を拝見しました。中野さんはそこで、内田弘は近著『《資本論》のシンメトリー』(社会評論社、2015年)で、「対称性、対称性」というけれども、『資本論』、あるいは資本主義は「非対称性」の制度ではないかという疑問を表明されました。《なかなか核心を突くコメントではないか》と感銘しました。しかも、同時に感心したのは、《とはいえ、内田弘は「非対称性を含む対称性のこと」を考えているかもしれない》、と最後に留保していることです。

(もっとも、そのあとの「ブルマン氏」との応答では、内田弘は「資本一般」=対称性を論じ、非対称性を無視するか、論じていないと断じ、方向転換しています。この場合の対称性とは均衡論的な意味合いでしょうこれは誤解。)

《非対称性を含む対称性》、これこそが拙著のタイトルのいう「シンメトリー(対称性)」のことです。このことは、拙著の96頁の注9)、269-270頁の本文、などで詳しく説明してあります。中野さん、このような個所をお読みになったのでしょうか。

拙著では、『資本論』=「資本一般」の内部において、《対称性は非対称性を内包した対称性であること》を解明しているのです。中野さんとブルマンさんの内田弘批判は、まったくの勘違いです。

拙著でいう「シンメトリー(対称性)」とは、反転対称・回転対称・並進対称の三つの対称性概念(いずれも数学用語の援用)を意味し、しかも、反転対称の操作と回転対称の操作で発生する対称性は「並進対称」であることも繰り返し説明してあります。並進対称とは、まさに「非対称性を内包する対称性」なのです。これが『資本論』第1部を編成する原理です。商品論で指摘する「恐慌の形式的可能性」とは、単純商品からして「非対称性の対称性」を組織原理にしていることを解明しているのです。拙著96頁の脚注4で、恐慌の形式的可能性を非対称性=「対称性の破れ」と指摘しています。ここもお読みになっていないのでしょう。

拙著の「事項索引」を参照すれば、この拙著の基軸概念「並進対称」が拙著ででてくる個所は24個所あることがすぐ分かります。なかでも、特に第Ⅰ章の最後の部分である「総括と展望」の82頁には、「反転対称・回転対称・並進対称」という小見出しがあり、そこでこの三つの対称性概念の関係が①価値形態論、②商品物神性論、③交換過程論の内面的な関係という、本源的な関係で説明されています。「本源的」というのは、その後の並進対称は①②③の並進対称の展開形態であるからです。この「並進対称」=「非対称的対称性」で資本主義が組織されていることを解明したものです。中野さんとブルマンさんが拙著の外部に求めていることをまさに拙著が提示しているのです。もっとも、お二人の「対称性か、非対称性か」ではなく、拙著は『資本論』第1部に「非対称性を内包した対称性」を解明したので、お二人のそのアンチノミー的な相互外的な発想とはかなり異質ですけれど。

「並進対称」はつぎのように、貨幣資本循環が一齣ずれて並進する場合でも確認できます( Giは貨幣資本、Piは生産資本、Wiは商品資本、×は持手交換)。

 

[K3]          G’3―P3―   [W’3G’3]―P3―W’3―G’3

×

[K2]       G’2―P2― [W’2―{G’2]―P2}―W’2―G’2

×

[K1]   G1―P1―W’1―[G’1P1]―W’1―G’1

 

資本家K1、資本家K2、資本家K3の間の商品の売買を[ ]で括られた個所でみます。まず、資本家K2の商品(資本)W’2は、資本家K1がそれを需要しているので、資本家K2から資本家K1に譲渡され、その対価G1が資本家K1から資本家K2に支払われます。対称性の観点から注目すべきことに、資本家K1の購買(貨幣G→商品W)と資本家K2の販売(商品W→貨幣G)とは、商品と貨幣の動きが反対です。これは「反転対称(inverse symmetry)」です。

ところが次にK2は、販売で獲得した貨幣G2でもって、K3から商品W3(生産手段[P2])を購入します(労働力商品の購買=雇用はここでは捨象します)。K3にとってはその取引は商品W3の販売です。K2はK1が自分に対して行った購買と同じ形式の取引を、今度はK3との取引で行います(W―G・G―W[P2])。この販売から購買への転化(変換)は商品と貨幣の順序を180度回転した操作に等しいので、これを「回転対称(rotational symmetry)」といいます。資本主義の基礎的関係である、商品の売買関係はこの二つの対称性操作、「反転対称と回転対称」が結合して成り立っています。この反転対称と回転対称の結合態を「並進対称(translational symmetry)」といいます。商品売買を基本形態とする近代資本主義は「並進対称」の組織なのです。

「並進対称」とは経済学的にどのような事態なのでしょうか。上の貨幣資本循環の右端をみると、K1の貨幣G1はふたたびK2から商品W2を購買するように待機しています。K2の商品W2はK1に販売することを期待しています。同じ関係はK2とK3の関係でもいえます。つまり、このような取引関係は、これで終りということがない、未完の無限に持続しようとする運動です。この無限運動は、すでに価値形態論に発現しています。第二形態の等価形態は「無限の系列」です。第二形態の相対的価値形態の価値は無限概念ですから、その表現媒態である等価形態も無限に多くの商品種類を渇望します。その本性が姿を変えて、貨幣資本循環にも発現しています。この非対称的な無限性に資本主義的な生産力の発展の動因が存在します。それは剰余価値生産、特に相対的剰余価値の生産に発現します。商品論次元の「非対称性を内包する対称性」は剰余価値論にこのように貫徹します。価値論と剰余価値論の内面的連関を「非対称的対称性」が編成しているのです。この編成原理は資本の拡大再生産=蓄積などへと外延してゆきます。

しかし、個別資本が経験的に期待する商品が生産されない、あるいは逆に生産したけれど、その商品への需要がない事態が発生すると、まず個別資本の倒産となり、その倒産が社会的に連鎖し続けると、経済恐慌となります。資本主義の対称性(シンメトリー)は「非対称性を内包する対称性」なのです。この非対称的対称性は、本源的に、質の互いに異なる財(非対称性)を私的交換で等置する行為(対称性)が生み出す商品形態からして「非対称性を含む対称性」であることに根本的原因があります。資本主義の最も単純な経済的形態である商品からして「非対称的対称性」なのです。その矛盾はまず価値形態に継承されます。特に、価値形態の第二形態から第三形態への移行が非対称的であり、その非対称性を止揚する形態が貨幣(非対称的対称性)です。さらに、貨幣と商品との関係である、販売(商品→貨幣)と購買(貨幣→商品)が「回転対称」の関係(W―G・G―W)にも、「非対称的対称性」が継承されています。

しかし、『資本論』第2部の「再生産表式(C2=V1+M1)」は、資本主義が非対称性がシステム崩壊に陥らずに自己を維持する対称的な基本条件を示します。資本主義に非対称性だけをみようとするのでは、色々問題がある制度であるけれど、各種の信用制度などで、資本主義が非対称性をとにかく体制を維持する止揚形態を創出し存続しつづけてきた事実に眼を逸らすことになります。その態度は主観的願望を超えるものでしょうか。

なお、廣松渉さんは、価値形態の第二形態から第三形態への移行を「共役性(Kommensurabitität)」でもって説明しようとしましたが、「カントの理論と実践との区別と関連」をマルクスが「価値形態論と交換過程論の区別と関連」などに援用していることを鑑みれば、《第二形態の非対称性を対称性とみる》無理な論証になっていないでしょうか。この点については、拙著の59頁の注29で指摘しました。「共役性」は「通約性」ともいい、『経済学批判要綱』などからマルクスが使用する、アリストテレスが『ニコマコス倫理学』で用いた用語symmetria(対称性)のことです。このことも拙著『資本論のシンメトリー』で詳しく説明しました。「マルクス=カント関係」の問題については拙稿「『資本論』と『純粋理性批判』」(専修大学社会科学研究所『社会科学年報』2016年3月)を参照してください。

最後に、『資本論』のシンメトリーがどのような運動の軌跡をしめすのかを次の図でしめします。向かって左側の図がその運動を上から俯瞰した図です。

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その右側の図はその運動を横から立体的に見た図です。

『資本論』(第1部)の一読、複雑きわまりない記述を一貫した規則=文法で単純化すると、このようなクリスタルな姿を現わします。複雑なものを単純化すること、これは学問の基本です。「もっと複雑じゃないか」と考えるのは、問題を振り出しにもどすにすぎません。複雑性は単純な規則が重層化した結果です。コペルニクス=ケプラー=ガリレオ=ニュートン=アインシュタインの天文学(物理学)史が、それを例証しています。マイケルソン=モーリーの実験(1887年)以前に亡くなったマルクスは、エーテルの存在を疑いませんでした。マルクスも我々同様、歴史的存在です。しかし、偉大な存在です。まだまだマルクスから沈着に学ぶことがあります。

中野さん、ご自身が中国に生活し日本語を教えていること自体に、私は胸打たれる思いで注目しています。お元気で。

2015年10月22日      内田 弘(専修大学名誉教授)

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study665:151022〕