なぜ「人間」を問題にするか( その2 )
昔から人間とは何か、他の生物とどう違うかが問われ、いろいろに答えられてきた。人間は政治的な動物であるとか、人間だけが言葉や宗教をもつ、あるいは人間は道具を作る動物だとか。その反対に他の動物にも人間と同じ面があり、猿山にはボス猿がいる、チンパンジーは石をもって木の実を割るとか。時には、人間は生物の頂点に立つと威張っているが動物以下の存在になっていないかと反省することもあった。マルクスも同じく「人間本性」を考え、それを労働することにおいたことに注目してよい。彼以前にも経済学では労働者は経済的な剰余を生む生産的労働者だと評価していたのだが、それは狭いものであった。重商主義は輸出工業品を生産して外貨を稼ぐ労働だけを、また重農学派は資本制地代を生む農業労働だけを生産的と見ていた。スミスになると一般的になり、資本に雇われて商品を生産する勤労であれば分野を問わず生産的だと啓蒙したのだが、そのスミスにしても他方では、賃労働を現実にあるがままに安楽・自由・幸福を犠牲にする苦役労働と見ていた。また彼は人間の自由を「労働」という財産を所有するところでだけ見ることもあった。マルクスが以上の労働観を転換し、労働は本来作品を制作する「活動」と同じだと評価し直したのである。
マルクスはまず人間をその根本におりたって自然との間で物質代謝をするものと捉える。人間はなんにしても生きていかねばならない。息をして酸素を取り入れ、炭酸ガスを吐く。そして自然から水や食物を手に入れて(加工品を含む)食べ飲み、エネルギーを得たり身体を作っていく。また自然から衣住用の材料を得て服を着、家に住んでいく。人工放射能や重金属は身体から代謝されないのでこれは別に考えねばならない現代の問題である。この物質代謝の営みは他の生物でも同じであるが、人間に特有なことがある。それは2足直行と自由な手という人間の進化した身体組織に決められて自然との間に労働を入れることである。内田はこの物質代謝労働の意義をすでに戦中から認めていたが、本書でも詳しく説いている。それも人間は手の延長として膨大な労働手段の体系をもって自然に働きかけ、必要な物を獲得していることが。(機械システムだけでなく、昔の粗雑に見える農機具にも物づくりと暮しの物語が含まれている。日本の文明開化論者や民俗学徒はその生活の仕方を歴史的に跡づけていたことを見落としてはならないだろう。)その労働のさいに人間は頭の中に完成品を描いてそれを目標として労働と道具を操作する。それも手あたりしだいでなく、使う道具の性質をわきまえ、働きかける対象がもつ法則に従いつつ自然に向かう。こういう労働は合理的となり、生き生きと緊張した活動になって自然を利用することになる(大きな意味での「生産力」)のだが、経済学者は自然科学者がそれを人間による自然の搾取あるいは収奪と見ていたことを知らなかった。
内田は以上のことを巧みに説明する。少し当時の事情に詳しい人であれば、その説明に技術の定義をめぐって行われた戦中・戦後の体系説と適用説の論争が反映していることに気づくだろう。こうして人間は大地から独立していく。内田はマルクスがそこに人間の「自由」をおいたと評価した。マルクスというと計画経済の社会主義者で分配の平等を唱えた人とされている時に、その彼にこういう自由論があることを押しだしたのは卓見であった。
人は以上の人間的な労働を毎日毎年、毎世代続けていくなかで次第にサル的なものから人間になっていったと言える。エンゲルスはそのことを『自然弁証法』のなかで次のように描いた。人間は1人でなく協働して生産する。その時にお互いに情報交換をするが、それは唸り声でなく主語・述語。目的語等に分節した言語を発明するから、それが頭脳を発達させていく。他方で人間は火を使い動物を飼うことによって食糧を環境に縛られずに獲得するようになり、農耕と商工業を発展させていった。そして大航海時代になると地球を探検し、その後はルネサンスと自然科学、宗教改革、国民国家の時代となる。こうして芸術や科学・宗教・国家は人間の精神の産物のように見えるが、長い人類史の歩みのなかでみると、それらも人間労働の産物ということができる。……こういう人間労働は将来においても持続されねばならないから、内田も言うように人類史に貫通することとなる。またこういう歴史は政治の英雄史でなく、民衆の生活と商工業の歴史であろう。内田は『ドイツ・イデオロギー』で提示されていたこの歴史観をその後もうまずたゆまず堀りさげていくことになる。
でも『世界』での労働過程論だけではやはり抽象的であり、内田は革新政党や正統派から人間主義、自然主義だと批判されてしまう。もっと具体的に現実の社会での労働を見よ、経済学は資本と労働が対立する階級社会での労働搾取や分配の不平等をえぐる社会科学であると批判される。実は内田はそれに対して同書でそれなりに答えていたのだが、それは見逃されてしまった。
労働は資本主義の下ではその指揮統制は労働者のものでなく資本家の手に握られている。労働の成果も資本家のものになっている。労働はこういう時にいとわしくなる。内田はそう捉えるのである。後に望月清司は初期のマルクスに内在して労働そのものに疎外はあると問題提起をし、資本主義的疎外はその本来的疎外の上にあると論じるが、ここでは指摘するだけにしておく。さて資本のもとでの疎外は歴史上の事実であるが、内田はそれを指摘するだけでなく、自分の身近に求めた。トンボ釣りの少年を登場させて。彼はまずトンボを取ろうとする少年の生き生きした「労働英雄」ぶりを、その活動によって「人間」が形成されていく様子を描く。その反対に宿題だから取って来いと命令されると、子供は仕方なく昆虫採集に出かける。……と、そこまで述べて来て、内田はおもむろに人は賃労働という「経済的範疇の人格化」として行動するという命題を出す。範疇とか人格化という難しい学術語の意味はこう説明されるとよく分かるではないか。このトンボ釣りの例は労働者が日々の会社勤めで経験していることである。
さて、同じ資本主義でも日本ではどうか。内田は戦前の講座派の日本資本主義論を受けついで国際比較の方法をもっている。例えば商品の価値(変動して止まない価格の平均を支配するもの)は投下労働によって決定されるとか、商品は市場で一物一価となり等価交換されると言うだけでなく、比較社会学的に見て日本では価値法則が問題となる問題状況を知っておかねばならないのである。日本に特殊な生産関係がある。ここでも内田はそう指摘するだけでなく、具体的に静岡の鰹節作りの例をあげた。彼はある村での鰹節の生産はだいたいは地主がやっていると聞く。というのは、地主は普通より安く特定のある者を雇うことができるからであった。お金の価値が土地所有者のもつ社会的地位によって高められる。内田はそのことを否定的に捉えるが、もう少し掘り下げると、これは同族的共同体で通用する経済法則であって、その裏には親方と子方の上下間(や水平的な同等者間)でなされる贈り物のやり取りと労力の交換があったのである。
この鰹節生産という具体例の提示は、術語が日常生活に根をもちそれを整理する道具であるべきだという内田の考えからも来ている。そこでくどいようだが、彼の出した別の例をあげてみよう。
よく資本主義では労働者は労働力商品の所有者であり2重の意味で自由な主体であると言われるが、内田はそれを習い事に終らせず、日常生活においてもつ意味を明らかにしていく。彼は当時の高度成長下での中流化現象をバックにして平均的人間としてM氏を登場させた。ある人はこれに対して今ゼネストを叫んでいる時にこれでは甘い、労働者は賃金奴隷だということをもっと強調すべきだ、これで内田の階級性が分かると批判することがあった。豊かさを下で支えていた労働者の貧しい実態を表に出すことは大事であるが、M氏の登場は高度成長下での人々の実感に合っていた。それに内田はM氏の行動から現代の高度資本主義下にあっても貫かれる資本主義の体制を認識していこうとするのである。M氏はスーパーマーケットで膨大な商品群を前にして肉体的欲望だけでなく「心の食欲」を、それも社会的な欲望を感じてしまう。M氏の心の中に住んでいる他人がM氏の感情や行動を見張るのである。内田はスミスが『国富論』の前に書いていた『道徳感情論』から、社会に入る人間の心中には友人でも知人でもない一般的な人が住んでいることを引く。内田はそれ以上に展開することはなかったが、スミスがこの一般的な人間が人の心に作られる仕組や社会と個人の対立、価値判断における良心と神への訴え(スミスの価値形態論!)を追っていたことは注意しておいてよい。さてこの「内なる人」――と言っても内面的良心以前の世間的な「外なる人」の反映に過ぎない――を心に抱えたM氏は商品群から自分の欲するものを選ぶのだが、それは自由とは言えない。選択の自由はまず賃金の額によって制限され、自由に自由を追求するのではない。内田はこの消費行動を見てM氏は他の欲望を禁欲して自分の責任で決断していると、ちょっと大げさな言葉を使うので可笑しく感じるが、そんな言い方をされると、その言葉が使われる本来的な場はどうなのかと考えさせられる。内田はマルクスが自由を理解するのにダンテを引き合いに出したと指摘している。ダンテは『神曲』のなかで人間が地獄にも入れずにあの時「人間の条件」でもある決断をしておけばよかったと後悔の海に溺れるさまを描いていた。もちろんM氏の自由はそんな人間的自由のことではない。流通産業は消費者は王様と持ち上げ、経済学では消費者主権を云々していたが、その実態は資本の広告に操作される道具でしかなかった。それにM氏は自分の労働力商品を高度成長下で変貌する産業構造に適合する能力をもつように消費生活をせねばならない。そこにも他者同調型と他者攻撃型の違いがあり、そんなこんなでM氏は悩みあたふたしてしまう。その様を描いたところで、内田はすかさず「人間は労働力商品となっている」と経済学の命題を提示する。これで概念は身に染みて分かるようになる。
ここでさらに注意。内田は中産階級のM氏しか見ていないのではない。資本主義は発展して工業部門では重化学工業化が進んで資本の構成を高度化させ、労働力よりも機械等の生産手段の割合を大きくする。それは生産力の発展を意味するが、そこで資本蓄積が進めば労働力は生産手段に比べて相対的に余る。この状態で雇用を維持するか少しでも増やそうとしたら雇用の維持や増加率よりもずっと大きな割合で資本総額が大きくならねばならない。雇用量は生産力の増大に比例して増大することはなくなる。相対的に過剰な人口が生まれる。景気の良い時はまだしも、悪い時には雇用量は絶対的に減少してしまう。このことはマルクスにならって数字を用いれば分かりやすいのだが、内田はそうせずに文章で示した。労働者はこの景気循環の中で資本に吸収されたり資本から吐き出されたりする。吐き出された失業者は一時的であっても肉体的欲望すら満たすことのできない絶対的貧困者となるのだが、M氏の方はそれを横目に見てそんな姥捨山の境遇に陥らないようにせっせと資本に要求される質をもった労働力の養成に励むことになる。中産的労働者のモラルは低下する。これで分かるように、内田はM氏の行動に安住していたのでない。それに生産力の発展は労働者の生活手段を作るのに必要な労働時間を減らすのに労働時間全体は減らないから、これは歴然たる搾取である。内田はそのことを見逃さない。
それから、賃金は労働力の再生産費であるが、そこには世帯費や子供の養育費が含まれる。そのことは常識でもあるが、その意味が日常生活のところで明かされていく。今度はM氏でなく内田自身が登場し、その考えが出される。子供の教育はどうなっているか。親は子供の幸せを考えていると言っても、競争過剰の教育熱が子供の可能性を引き出す「人間」教育でなく、総体としてみると次代の労働力商品を作る教育となっている。その状態は内田が述べるところを読んでもらうことにして、そこにも内田の「人格」をかけた資本主義批判がある。これではいかん、どうかしなければという対抗(実践)をこめて。経済的範疇の人格化ということはこの主体形成を含めている。この点は後でも取りあげるが、それが内田の唯物論理解であった。
以上、内田は通り一遍のマルクス経済学者でなかったことが分かる。
今日では教育だけでなく、移民や女性の社会進出による労働市場の中身の変化の問題も加わる。また非正規労働者や高齢者・障害者の問題もある。
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