[魯迅『阿Q正伝』の本格的研究] 1912年以後の中華民国時代の作家・魯迅の代表的な作品は、『阿Q正伝』(1920-1921年公表)である。このことは、大方の魯迅研究者が同意するだろう。
著者・冉秀(ぜん・しゅう:Ran Xiu)は、重慶交通大学外国語学専任講師である。本書は、著者の学位論文を書籍化したものである。元山口大学教授・村上林造氏(現在、放送大学客員教授)が論文審査の主査を担った。
本書は、研究対象である『阿Q正伝』の中国および日本の現在までの研究史を十分にふまえ、著者自身の独自な見解を提示した、本格的な魯迅『阿Q正伝』の研究書である。本書を通読すれば、これまでの『阿Q正伝』研究の全貌も基本的に把握できる。そのような総合性と系統性を本書はもっている。
[日中双方での『阿Q正伝』をめぐる同一問題の提起] この書評論文の冒頭で、本稿筆者と冉秀氏とが期せずして、『阿Q正伝』をめぐって全く同じ問題を提起していることを指摘したい。
『阿Q正伝』について本稿筆者は、昨年、このネット「ちきゅう座」に「阿Qとは誰か」と題する拙稿を公表した。冉秀氏は、この最近の著作『「阿Q正伝」の作品研究』の第2章で、魯迅が人名・阿Q=阿Queiに如何なる意味を込めたかという、拙稿とまったく同一の問題を提示し、異なる解を示した。
拙稿(2019年11月20日)では、阿Qの名前Queiとは、中国の当時の現状を「屈辱(qu)ではないか(ei)」と中国人自身が自覚し、自国の認識を深めてゆく過程を意味すると推定した。
他方、冉秀氏(2019年12月31日)は、Queiのquは「去る」を意味し、eiは「誒」(~せよ)を意味すると推定し、Quei全体で「去ってゆけ・離れていってください」という意味を推定した。
こうして、拙稿筆者と冉秀氏は、推定した解答は異なるものの、《阿Qの人名Queiそのものに魯迅が如何なる意味を込めていたか》を問う点で全く同じ問題を期せずして設定している。この問題について、読者諸賢が関心をもち、この二つの異なる見解について、検討していただければと願う。
[いま、なぜ『阿Q正伝』か] さて、この書評論文では、本書の内容を紹介し、それをふまえて本稿筆者の見解を展開する。そのまえに、《いま、なぜ、魯迅の『阿Q正伝』か》という問題について考えたい。その問題は本書の意義を判断するさいの前提となる事柄であるからである。以下、本稿筆者の見解を若干のべる。
魯迅は『阿Q正伝』(1921-22年発表)で、辛亥革命(1911年)からほぼ10年後経過した中国が、それ以前の中国と何ら変わることなく、本質的には全く同質であることを冷厳に指摘した。「辛亥革命」がおおよそ「革命」の名に全く値しない実態であることから眼を背けることなく、その中国を描写したことにある。その意味で『阿Q正伝』は辛亥革命に対する批判書である。『阿Q正伝』の文学(史)的意義は、魯迅が、辛亥革命約十年後の中華民国の現状を根源的に凝視し把握し批判し、中国の全面的再生を期した作品であることにある。
[辛亥革命の実態] 魯迅のみるところ、辛亥革命のときでも、「革命」とは社会の底辺に抑圧された者たちが鬱憤晴らしをするチャンスであるという誤解が跋扈した。《革命とは、革命に参加することで自分の名前と地位を高めることである》と出世主義的に誤解する者がはびこった。革命で名をあげることが、革命に参加する動機となっている。革命とは、《抑圧されてきた者が、これまで自分たちを抑圧してきた者を押さえ込み、出世する絶好のチャンスである》という実態がはびこった。
あるいは、辛亥革命では、《革命とは、他人の財産、特に富者の財産を強奪することである》と誤解する者があまた存在した。革命とは、盗奪による財産の再分配であると誤解していたのである。
[革命誤解を活写する『阿Q正伝』] 辛亥革命では、革命の名において、革命とはまったく異なる考えと行為に満ち満ちていた。『阿Q正伝』にはこのような革命誤解が具体的に描写されている。その意味で、辛亥革命は、新しいものは何も、もたらさなかった。それまでの暗愚な社会とは全く同質な社会が存続している。封建社会の悪質な本質部分が露呈した暴動であった。魯迅は「辛亥革命」のそのような実態を『阿Q正伝』でつぶさに粘り強く系統的に描写した。
[辛亥革命と近代日本略史] 当時の中国の事態は、日本にとって単なる他国のことではない。魯迅の『阿Q正伝』の読者である日本人にとって、日清戦争(1884~1885年)以後、魯迅死去までの民国時代(1912年~1936年)に対応する期間は、どのような時代であったであろうか。それを以下の略年表でみよう。
1894~1895年 日清戦争。
1900年 治安警察法。
1904~1905年 日露戦争。
1908年 赤旗事件(→大逆事件)
1910年 大逆事件。日韓併合。石川啄木「時代閉塞の現状」
1911年 徳富蘆花「謀反論」
1912年 民国元年。石川啄木死去。
1914~1915年 第一次世界大戦。青島攻略。
1915年 二十一か条要求。
1916年 夏目漱石死去。
1919年 三・一運動。五・四運動。
1921~22年 魯迅「阿Q正伝」公表。
1922年 森鴎外死去。
1923年 9月1日関東大震災。朝鮮人虐殺。
1924年 孫文『三民主義』刊行。
1925年 3月孫文死去。4月治安維持法。
1931年 満洲事変。15年戦争(1931~1945年)の始動。
1936年 魯迅死去。
このような略年表でも、魯迅の同時代の中国に、日本が深く関与していることが分かる。アジア侵略国日本は、治安警察(ママ)法など国内弾圧体制が敷設され、言論が抑圧された。しかし、啄木が短歌や評論「時代閉塞の現状」で、徳冨蘆花が演説「謀反論」で、漱石が時論・小説で、鴎外が時代小説で、大逆事件や日韓併合を批判した。日帝侵略に抵抗する中国は、その抵抗精神を魯迅が凝集して表現した。日本の「大正デモクラシー」の同時代の中国は、「魯迅の時代」であった。魯迅研究・翻訳の先駆者、竹内好によれば、魯迅は中国国民が内外の敵に対し主体として自立するのは1919年の「五・四運動」であると観ていた。これに呼応するのが、日帝支配下にあった朝鮮の「三・一運動」である。
[影ある中国、影なき日本] 魯迅(1881~1936)は、夏目漱石(1867~1916)のことをよく調べたけれど、漱石は「日本の魯迅」ではない。近代日本文学史は、魯迅に対応する文学者を生まなかった。自己の暗愚を凝視する中国と、その中国を侵略しつつ「民本主義」を推進する日本とでは、まったく文化の型が異なる。竹内好の表現をかりれば、中国には自己の影があるのに対して、日本には自己の影がない。自己の「文化の型」がないから、自己の姿を写す影がない。日本は透明で、自己の正体が見えない。水清らかな日本列島は濁ることがない。令和の帝(みかど)は「水の研究者」である。建物もいとも簡単に壊す。古い物(歴史)は水に流す。歴史は流れ去った過去にのみ存在し、現在には正史としてのみ残る。
[忘却される魯迅] 古書市場で魯迅文献は安価である。今日、魯迅文献はあまり読まれてはいないからであろう。一般に書籍が読まれなくなった傾向が魯迅では顕著ではなかろうか。岩波書店の『魯迅選集(全13巻)』の価格は、最近の或る古書目録では3,000円である。そのような中で、佐高信の『いま、なぜ魯迅か』(集英社新書)や『魯迅烈読』(岩波現代文庫)は、貴重な魯迅文献である。
[遍在する《負け惜しみ論法》=「精神勝利法」] 本書の著者・冉秀氏が力説するように、『阿Q正伝』を特徴づけるのは、なんといっても「精神勝利法」であろう。人間誰しも、生きていて思うようにならず、負けを痛感し屈辱をなめることがある。そのとき、不満でやれきれない自分を納得させるために、不合理な言い訳を自分に向かって行う。「負け惜しみの言い訳」である。これを魯迅は「精神勝利法」という。この言い訳が辛亥革命10年後の中国では日常化し頻発している、と魯迅は観ていた。中国人は、日常生活で屈辱の経験をなめるたびに、その原因を探すことなく、自分に言い訳をする。中国人は自分たちを幽閉する「鉄の部屋」としての中国自体を見つめ、そこから自らを解放するために、中国を根本的に改革しようと動かない。
[屈辱に対抗せずに《精神勝利法》で逃げる] なぜ、日々の生活で屈辱を経験しなければならないのか。このつらい経験は自分だけのものか。それとも、他の人間にも発生している普遍的な事柄なのか、とは考えない。日々その場しのぎに、言い訳をつぶやき、やり過ごしている。その消耗な日々を象徴するのが、『阿Q正伝』の主人公・阿Qである。
[阿Qの精神勝利法] 阿Qは、未庄という農村の最下層に生きる日雇いである。『阿Q正伝』よりのちの魯迅のエッセイ「賢者と馬鹿と奴隷」(1925年)にでてくる奴隷にそっくりである。阿Qは自分を見下す人々との喧嘩のとき、「おいら、もとはおめえよりゃ、ずっと金持ちだったわい。おめえあ、どこの馬の骨だ!」(小田嶽夫訳『阿Q正伝・故郷』偕成社、1990年、16頁:以下もこの訳書による)と罵る(ののし)。こう罵って、自分の劣等感をしのいでいる。《いまにみていろ、出世して、おまえらを見返してやるからな》と虚勢を張り、悲壮な気持ちで出世街道を見晴るかす。
[屈辱に精神勝利法で対応する] このような脆弱で惨めな「自分に対する慰藉」を魯迅は「精神勝利法」と名付ける。その生き方は阿Qだけではなく、各人に共通しているのではないか。辛亥革命以後の中国が内外の支配者に押さえ込まれ、屈辱的な状態にあるにもかかわらず、その国民的な屈辱に正面から立ち向かわず、それから逃げ、日々の瑣事にこだわり、うつつを抜かして生きていないか。
先回寄稿した拙稿「阿Qとは誰か」では、このような「精神勝利法」の自閉から、中華民国時代の中国人が如何に目覚め、自分たちの屈辱的な世界から如何に脱却するかという『阿Q正伝』そのものの主題を論じた。
したがって、阿Qは辛亥革命以後の中国を生きる中国人の「典型」である。阿Q以外の人間も、基本的には阿Qと同じように生きている。中国の内外の宿敵と闘うという基本的な問題を回避して生きている。
[日本の空はアメリカのもの] 魯迅が『阿Q正伝』で提示した問題は、阿Qの辛亥革命中国だけに限られない。阿Qは現在の日本人にとっても、他人ではない。
現在の日本の空は日本人のものではない。その実態が東京五輪の準備で一挙に判明した。五輪開催中、東京都心の上空をジェット機が頻繁に地平スレスレに、轟音を響かせながら急降下し、羽田空港に着陸する。最近、そのことを初めて知った者は、「ええつ? そんな、馬鹿な」と驚く。
しかし、東京都の空の西半分と神奈川県の空は、米軍専用の空間である。日本の航空機はそこを飛べない。そのゆがみが、あの日本航空機御巣鷹山墜落事故(1985年8月12日)の原因ではないか、と推定されている(青山秀子『日航123便墜落の新事実』河出書房新社、2017年)。
日米合同委員会(Japan-US Joint Committee)こそが、日本の空のこのような利用法をふくめ、日米安保の執行を実質的に決定している。このことが、なぜか、いまだにほとんど知られていない。しかし、その実態を明確に指摘している書籍がすでに刊行されている(吉田敏治『日米合同委員会の研究』創文社、2016年)。
[日本人の精神勝利法] にもかかわらず、日本人は現代日本の基本構造を知らない。その日本は、《お・も・て・な・し》のために、《騒がないで、我慢しましょう》と自分を説得する。この自己説得は、まさに魯迅が『阿Q正伝』で指摘した「精神勝利法」ではないか。日本国民がおしなべて、「精神勝利法」で現実から逃げていないだろうか。阿Qを笑ってはいられないのである。阿Qは現代日本人の象徴でもある。
魯迅は『阿Q正伝』第一章末尾で、「ゆくゆくは阿Qのことなどはすっかり忘れさられるだろう」と願った。その願いとはまったく逆に、『阿Q正伝』の真実は、なおも不幸に生きている。中国にでなくて、この日本に、生きている。その現在の日本では『阿Q正伝』は、魯迅とともに、ごく一部の読者をのぞいて、知らない。あるいは忘れ去られている。まさに必要なときに、忘却されている。
[冉(ぜん・)秀(しゅう)の「精神勝利法」理解の独自性] 以上が本書のブック・レヴユー(書評論文)を書く前提である。
本書『阿Q正伝の作為品研究』は、10の章(序章、第1章~第8章、終章、参考文献)からなる、魯迅『阿Q正伝』の多面的・総合な研究書である。第5章と第6章では、『阿Q正伝』に登場する女性(女中・尼)を女性解放史の観点から詳細に多面的に論じられている。第7章では、『阿Q正伝』にでてくる、辛亥革命のころの中国知識人を主題として論じている。これらの論点は注目される。
しかしこの書評論文は、「精神勝利法」こそ、『阿Q正伝』の中心テーマであると考える著者・冉秀に賛同し、「精神勝利法」を論じる第2章・第3章・第4章を中心に、「精神勝利法」そのものに焦点を当て、『阿Q正伝』を論じる。残る第1章は『阿Q正伝』研究史を総括する。第2章は著者=魯迅「私」が『阿Q正伝』に内在して、いかなる気持ちをいだいているか、という冉秀氏独自の視点を論じる[本稿の冒頭で既述]。
以下では、『阿Q正伝』を貫徹しそれを構成する「中国人精神史としての精神勝利法」を主題にして考える。
[『阿Q正伝』=賢者・馬鹿・奴隷の絡み合い] 著者・冉秀氏は、魯迅のエッセイ「賢者と馬鹿と奴隷」[1925年。後に『野草』(1927年)に収録]を基本視座に援用して、『阿Q正伝』(1920~21年)を分析する(本書第2章・第3章・第4章)。1920-21年に公表された分析対象『阿Q正伝』は、分析基準「賢者と馬鹿と奴隷」の公表年1925年より、4~5年前の著作である。
果たして、すでに『阿Q正伝』にその後の「賢者・馬鹿・奴隷」の思想内容が存在していたかどうか、明確にすべき問題である。おそらく著者は、『阿Q正伝』が、エッセイ「賢者・馬鹿・奴隷」を基準に分析できれば、すでに『阿Q正伝』に「賢者・馬鹿・奴隷」の思想内容が存在していたと判断できると想定しているのであろう。では、本書の著者の分析結果はどうであろうか。
[「賢者・馬鹿・奴隷」と「精神勝利法」] 著者によれば、賢者は、奴隷が封建制に刃向かい封建制を打倒することがないように、奴隷を諭し、あるいは慰めて、封建制の内部に閉じ込める。それが賢者の役割である。奴隷も、自分が生きる封建世界がよく分からないまま、それに刃向かうようなことをするかもしれない。けれど、たいていの場合は賢者に諭され納得する。奴隷は賢者の諭しを自分に内面化した「精神勝利法」によって解決する。
馬鹿は革命家として、訳も分からずに、奴隷に封建制に行動で刃向かうようにそそのかす。しかし、奴隷は賢者と一緒になって、馬鹿を「馬鹿だなぁ」と軽蔑し、馬鹿に距離をおく。
[実践なき精神主義と精神なき実践主義] このように、かつての封建制中国の人々は、「賢者と奴隷」の「実践のない歪んだ精神主義」と「馬鹿」の「精神のない猪突猛進の実践主義」に分裂している。時には、奴隷は、馬鹿にそそのかされて、革命実践に走ることがあるけれども、失敗して賢者のもとにもどり、「精神勝利法」という自己催眠で惰眠をむさぼる。
『阿Q正伝』の登場人物たちは「賢者・馬鹿・奴隷」の三者関係に分かれ結合して生きる。三者の代表で整理すれば、《賢者=未庄の趙旦那、馬鹿=「偽毛唐」、奴隷=阿Q》となる。趙家の女中や、静修庵の尼など、未庄村の女性たちは、このような三者関係の最下層に小さくなって生きている。冉秀氏のエッセイ「賢者・馬鹿・奴隷」の視角からする『阿Q正伝』分析は、以下にみるように、基本的に成功していると判断される。
[『阿Q正伝』を貫徹する精神勝利法] 『阿Q正伝』の主題は、辛亥革命の当時の中国人がおしなべて、《現実の矛盾からの逃避法としての「精神勝利法」》に生きていることを、始めはユーモラスに描いて読者を『阿Q正伝』に導き入れ、次第に陰惨に、最後は無残に、描写することにある。「精神勝利法」の描写の様相は、このように変化するから、最初の滑稽な描写だけを取り出し、『阿Q正伝』は「滑稽小説」であると固定化し規定することはできない。
『阿Q正伝』は、自分たちが日々行動で維持=再生産している中国の屈辱的な現状から眼をそらし、その日暮らしを持続しているありさまを凝視し描写する。『阿Q正伝』は「精神勝利法」の愚直さを描写することで一貫している。この一貫性を論証することが、著者・魯迅にとって『阿Q正伝』の第一義的な主題になる。本書の著者・冉秀氏も、その魯迅の設定した主題「精神勝利法」を緻密に追求している。本稿筆者もそれに賛同し、追思惟する。
[精神勝利法の研究] 本書の「第4章 阿Qにとっての《賢者》」にはサブタイトル「《精神勝利法》の崩壊の軌跡を考察する」がつけられている。その副題に示されているように、冉秀氏は、『阿Q正伝』研究者、芳盾・朱彤・何其芳・本山秀雄・丸山常喜の研究を参考に、『阿Q正伝』における「精神勝利法」とは何か、「精神勝利法」は『阿Q正伝』で如何に描写されているかについて考察する。
結局、「阿Qにとっての精神勝利法とは、まるで阿Qにとっての《賢者》のような存在である」(本書87頁)と判断する。つまり、「精神勝利法」の精神的主柱は「賢者」であり、その指導が阿Qなど人々に内面化したのが「精神勝利法」なのである。
[賢者=奴隷関係の内面化としての「精神勝利法」]「賢者による、奴隷を奴隷として生き続けさせる指導」が、「奴隷自らによる行動指針」となったのが「精神勝利法」である。奴隷が封建制の内部に生きて苦しむとき、賢者が「いまによくなるから」といって慰める(本書87頁:以下単に頁数)。すると、奴隷は「そうだな、ぜいたくいったらきりがない。誰もこのような苦しみはある。これが人生というものだ」と、お利口になって自分を説得する。
賢者による奴隷の指導という関係が、奴隷に内面化する。「賢者に代わって説得する奴隷(賢者としての奴隷)」と、「納得する奴隷(奴隷としての奴隷)」に二重化する。奴隷状態は強化され存続する。これが「精神勝利法」である。
[図式「賢者・馬鹿・奴隷」の有効性] このように、冉秀氏による「賢者・馬鹿・奴隷」の図式の『阿Q正伝』への適応は見事に成功している。「精神勝利法」の効能は、その使い手である者に、想像された世界で優越感に浸らせることにある。冉秀氏は、その世界を「仮想の世界」といい、その効能を「仮想の優越の世界」(90頁)という。人間の想像力は、むろん奴隷にも存在する。想像力を働かせて、奴隷は苦しい現実から逃れられる。仮想された世界を現実世界に射影し、現実世界を仮想世界で覆い隠し、一時的に現実から逃れ、自己を慰める。
[仮想と仮装] 冉秀氏のいうこの「仮想の世界」は、意外にも、前掲拙稿「阿Qとは誰か」で指摘したことにつながる。すなわち、阿Qが住む村の「未庄」という名前の音声[wèizhuāng]は、「仮装」の音声[wĕizhuāng]と、四声の違いを捨象すれば、同じ[weizhuang]である。つまり、「未庄という村」は「仮装する村」を連想させる。では、どのように仮装しているのか。阿Qを始め村人は「精神勝利法」で、各々、自分とは違う人間に仮装し、他人に対し優越感を楽しんでいる。
したがって、「未庄」は、実は「精神勝利法で仮装する村」である。冉秀氏のいう「精神勝利法による仮想の優越の世界」は、『阿Q正伝』では、なによりもまず、未庄という仮装する村である。このような隠喩を、魯迅は阿Qの村の名前「未庄」に忍び込ませていると思われる。
[おできを自慢する阿Q] 『阿Q正伝』で魯迅が阿Qの「精神勝利法」として最初にあげる例が、阿Qの皮膚病「おでき」からできた「禿(はげ)」であり、「禿」をめぐる「精神勝利法」である。阿Qは「禿」を連想させる言葉を嫌うくせに、自分の頭にあるのは「通常の禿」でなく「高尚で立派な禿」であると勝手に想像し、優越感に浸る。阿Qは「賢者の虚実の慰めのような役割を果たし、阿Qが現実に受けた屈辱や圧迫を忘れさせる」(91頁)。
[阿Qの人格の主客分裂] 阿Qは、優越感を味わいたくて、自分が住んでいる未庄の村の支配者・趙旦那と同じ趙の氏に属すると嘯(うそぶ)く。すると、さっそく趙旦那に怒鳴られ平手打ちを食らう。阿Qは、仕打ちを内面化し、「趙旦那としての阿Q」と「趙を名乗った阿Q」とに分かれ、前者の阿Qが後者の阿Qを、「でたらをめいうな」と叱って殴る。むろん、自尊心の強い阿Qにとって、殴る阿Qが本来の阿Qなのである。その役割演技で清々する。
[今日の日本に「精神勝利法」はないか] 本稿筆者は、こう書いてきて、やれやれと思う。しかし、現在の日本にも、具体像では異なるけれども、「精神勝利法」としては同じ事例があちこちに散在しているのではないかと思う。
たとえば、夫の会社での地位が少し高い「差」をそれとなく夫の同僚の妻に示唆しては、優越感に浸る。久しぶりに会った旧友に、自分の住んでいる街の地価が相手のそれよりほんの少し高いことをほのめかして、相手に劣等感を覚えさせ、密かに痛快がる。自分の子供が著名な幼稚園の園児であることを、ママトモに密かに誇る。学歴差は幼稚園の格差で決まる、と思っているからである。
[文明先進国中国と北京五輪] 現代中国に生きる著者・冉秀氏は、魯迅の時代を顧みて、「当時の亡国の間際に陥った中国自体も、他国に侵略され、「奴隷」的な国になっても、精神上では、自国が優れた「文明国」としての自己欺瞞の精神に浸っていた」(94頁)と指摘する。思えば、北京五輪の開会式のイベント・ショウでは、「火薬・紙・印刷機の発明」で、中国は元来文明国であったことを大きな画像で確認した。革命の実践で暗愚から再生した中国は、自負心を持って、そのような文明の起源でもあったことを世界に示したのであろう。
[「精神勝利法」の有効性の限界] 「精神勝利法」は『阿Q正伝』において、どこまで持続するのであろうか。一見するところ、第1章の「序」に続く「第2章 勝利抄録」「第3章 続勝利抄録」で「精神勝利法」の物語は終わるかに見える。というのは、続く「第4章 生計問題」で、阿Qは、子孫を残すために、趙家の女中に手をかけようとして失敗し、趙家を中心に村人から身ぐるみを剥がされる罰を受ける。阿Qの生活は破綻し、身につけているものはズボンだけになり、生存ぎりぎりに追い詰められる。生存の限界にまで追い詰められると、「精神勝利法」で自分を慰める余裕がなくなりかけ、「精神勝利法」が有効ではなくなりかける。
[阿Qの中興と自慢話] しかし阿Qは起死回生する。未庄村を離れ、進んだ街にいって、金持ちになって帰ってくる。魯迅は、これを阿Qの「中興」という。阿Qは街に行って、また自己欺瞞の「精神勝利法」に生きる阿Qに再生したのである。街は「阿Q再生装置」である。村人はリターン・マッチ(中興)に成功した阿Qをうらやましがり、阿Qも得意になる。阿Qは、自分が街にいってきたことだけで、何か偉くなった気分になり、村人に対して優越感に浸る。
阿Qは調子に乗って、村人がうらやましがる街にいってきたことを、「いや、街にいってきたけど、街だってたいしたことないのさ」とうぬぼれる。自分が村人以上の存在になるだけでなく、さらに街人以上に位置づける。阿Qは「精神勝利法」をつかう心の余裕を回復する。
[「精神勝利法」の復活] 阿Qは、街にいるとき、革命の名を借りた盗賊の助っ人になり、盗品の着物を持ち逃げして、未庄に戻り、村人にその着物を売りつけ、ちょっとした金持になる。阿Qの街行きは、阿Qの「生計問題」を解決し、生存ギリギリに陥って失せかけていた「精神勝利法」が復活する。魯迅が「精神勝利法」は生か死かの生存ぎりぎりの地平まで有効であり、その復活もありうるとみていたことが判明する。
[革命も「精神勝利法」の素材にする阿Q] 阿Qは、街にいたとき、革命家が逮捕され斬首される現場を目撃する。「いやだなぁ」と革命を嫌悪する。しかし、阿Qが街で経験した革命は、未庄の村に波及してくる。阿Qは、村のボスである趙家の旦那が革命を恐れることを知る。そのとたん、「革命もわるくないなぁ」と急変する。阿Qも、とにかく、《人より上に立ちたい、人を見下したい》のである。阿Qも《誇り高き人間》ではある。
阿Qは、革命に加担して趙家を見返そうとする。阿Qとは無縁の革命に加担することで、「精神勝利法」による優越感を味わおうとする。そのために、革命家になることを夢見る。ここで、「精神勝利法」は、あたかも封建制を打破=革命するかのように見えるけれども、それは所詮、「精神勝利法」でしかなく、封建制そのものを打破しようとしたわけではない。
[「精神勝利法」としての革命] 阿Qは、趙の氏を名乗ったために、趙旦那に殴られたことがある。殴られたあと、阿Qは「偽装趙旦那(阿Q)」に変身して、「阿Qとしての阿Q」を殴る。これも「精神勝利法」である。同じように、阿Qは自分とは無関係の革命に加担して、「偽装革命家」になり趙家の上位に立ち、趙旦那に対して優越感を味わおうと夢見る。これも「精神勝利法」である。革命騒ぎでさえも、「精神勝利法」が作動する。革命で鬱憤を晴らし有名になることも、「精神勝利法」である。
[阿Qの革命有罪] しかし、革命団は阿Qを革命に誘うことなどしない。むしろ、趙家など村の有力者が、革命に加担するように変化する。挙げ句の果て、阿Qは、革命団の一味として濡れ衣を着せられ、逮捕される。阿Qは裁判を受け、有罪になる。裁判官に、了解の印として○印を書けといわれても、筆をもったことのない阿Qは手が震えてよく書けず、手伝ってもらってなんとか、○印を書く。
[人生に一般化される「精神勝利法」] 裁判のあと、阿Qは後ろ手に縛られ、見せしめに馬車に乗せられ引き回されて、刑場に向かう。そのときになってもなお、阿Qは、《人間というものは、天地のあいだに生まれれば、たまには、こういうこともあるものさ》(小田訳97頁)と三回も言い訳をいう。
[生死の限界での「精神勝利法」] そういって、現実逃避の生き様を強いた封建社会そのものを考えることもなく、《このようなことは人生にはつきものなのだという一般論》に自分の人生の帰結=処刑を解消しようとする。これも「精神勝利法」による虚勢である。阿Qは、生死の境目に来ても、まだ「精神勝利法」に逃げる。
冉秀氏も、阿Qのこの自己納得の仕方について、「阿Qは自分の失敗を客体化することによって、自分の受けた屈辱を緩和する。また自分の人としてのあり得る宿命に帰着させることによって、自分の内心での苦痛と恐怖を曖昧化し、自分を納得させようとする」(95頁)と指摘する。この宿命へ帰着させる操作も「精神勝利法」である。阿Qは、最後の間際まで、「精神勝利法」に囚われて生きる。
[遅すぎたか、末期(まつご)の阿Qの覚醒] 魯迅は小説「薬」に、彼と同じ紹興出身の女性革命家・秋瑾(1895~1907)の斬首刑の具体像を変更して採用した。阿Qは、その秋瑾に自分を重ねたのであろうか、阿Qは斬首刑で死刑になることを期待した。群衆となって阿Qの処刑を楽しむ未庄の村人も、阿Qの死刑は、ぜひとも斬首刑であってほしいと願う。けれども、実際は銃殺刑で処刑されることが判明し、村人は、残念だなぁと悔しがる。村人は、阿Qの処刑のされ方さえ選り好みする、冷酷で怖い民である。
[鉈は精神勝利法の象徴] 銃殺される直前、阿Qは、かつて山で道に迷ったとき、狼に遭遇したことを思い出す。狼が近づき、恐ろしい眼で阿Qをにらみつける。冉秀氏はこの件(くだり)について、つぎのように指摘する。
「阿Qはさまざまな危険な境地に遭ったとき、鉈や「精神勝利法」に依拠することによって、安全に今日まで自分を維持することができた」(101頁:ボールド体「や」は引用者)。
その鉈とは、本稿筆者の理解では、樹木などを切る「鉈(なた)」そのもののことではなく、阿Qが村人から自分を守る武器の例えであるから、未庄村の生活での「精神勝利法」の象徴である。したがって、冉秀氏のように《鉈や「精神勝利法」》と記すのではなく、《「精神勝利法」の象徴》と記す方が、より適確ではなかろうか。
[愚昧からの微かな解放可能性] やがて、阿Qを運ぶ荷車が処刑場に近づく。阿Qの処刑を楽しみたがっている村人の群れは、恐ろしい眼で、阿Qを見つめる。阿Qの銃殺死は不可避であるから、決定的に追い詰められたこの瞬間、阿Qは、武器としての「精神勝利法」を村人に対して使いようがない。阿Qはいま、この不可避の死の直前で、彼のそれまでの生涯を呪縛してきた「精神勝利法」から解放される。
[「精神勝利法」が無効になった阿Qの叫び] 阿Qをかつてズボン一つだけという生存限界にまで追い詰めた村人群衆は、それだけで十分に残酷であるのに、いま、さらに阿Qの刑死を楽しもうとしている。しかし阿Qは、もはや「精神勝利法」で、村人から自己を守りようがない。阿Qはまったくの素手になった。だから、村人が怖くなり、「助けてくれ」と叫んだのである。
冉秀氏もつぎのように明確に理解する。「彼(阿Q)は初めて実在する現実に『精神勝利法』によらずに向き合わされた。ゆえに、彼は未曾有の恐ろしさを感じたのである」(102頁)。
[《鉄の部屋》から出られるか] 阿Qの「助けてくれ」という叫びは、阿Qが「精神勝利法」の絶対的限界を知って発した叫びである。その叫びは、愚昧で暗愚な「鉄の部屋」である中国が「精神勝利法」では、まったく何も変わらないことを知った阿Qの叫びである。当時の中国人の象徴としての阿Qは、処刑を目前に、そのことを直視し認識したのである。阿Queiという人名に魯迅が込めた「中国の現状は屈辱(qu)ではないか(ei)」という意味は、阿Qの生がまさに終わろうとする限界で自覚される。
『阿Q正伝』の最後でようやく「精神勝利法」は無効になる。阿Qがまったくの素手になった瞬間は、「精神勝利法」の虚偽性が暴露された瞬間である。『阿Q正伝』の末尾の阿Qの叫びは、まさに『阿Q正伝』を貫徹する「精神勝利法」という自己欺瞞の終焉を告知する。
[阿Q正伝の《大団円》] 阿Qの「精神勝利法」そのものの終焉を描写する、この最終章は「第9章 大団円」と題されている。阿Qの銃殺刑で終わる『阿Q正伝』の結末は悲劇である。「すべてがめでたく収まる結末」を意味するはずの「大団円」は、無論ここでは、イロニーである。
とはいえ、阿Qの悲劇的な死は、中国人を精神的に呪縛してきた「精神勝利法」の消滅を象徴する。その消滅によって、中国が自己を再生するならば、その未来の可能性を含んでいる限りで、阿Qの死は、逆説的に「大団円」でありうる。このように魯迅は、『阿Q正伝』の最終章の命名でも、底深い意味を含ませている。
[魯迅の沈黙] しかし、「精神勝利法」の終焉の後のことについて、魯迅はまったく語らない。阿Qの絶望の果てに、希望があるのか無いか。それを語らないのが、いや、語れないのが、魯迅の姿勢である。冉秀氏のこの著作は、本稿筆者にここまで考えさせる。得がたい読書経験であった。謝謝。
[付記:先回の拙稿「阿Qとは誰か」の場合と同じように、この拙稿も、草稿の段階で、さる旧友に点検していただいた。記して同氏に謝意を表する。無論、この拙稿の文責は筆者にある。] (以上)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion9570:200323〕