【「土地も水も沖縄のものだ、それを勝手に取り上げる米軍は泥棒だ」】4・28沖縄「屈辱の日」に京都で映画「カメジロー 沖縄の青春」の上映会を行います

4・28沖縄「屈辱の日」に京都で映画「カメジロー 沖縄の青春」の上映会を行います。

瀬長亀次郎
せなが かめじろう
http://ja.wikipedia.org/…/%E7%80%AC%E9%95%B7%E4%BA%80%E6%AC

はね返そう…今も昔も沖縄差別!
改めて「沖縄・屈辱の日」を問う!
辺野古新基地建設を阻止しよう!
4.28「屈辱の日」京都集会
https://www.facebook.com/events/725164594258983/

2015年4月28日(火)
18:00開場 / 18:30開演
資料代:500円

*・*・プログラム*・*
●映画「カメジロー」上映(80分)
●辺野古参加者のシンポジウム(ユンタク)
…「辺野古の海、埋め立てを止めるために何ができるのか」?
●参加団体からのアヒール
主催 :4.28「屈辱の日」京都集会実行員会
連絡先: F A X & 電話075-467-4437
No Base!沖縄とつながる京都の会(代表 大湾)

*・*・*・*・*・*・*・*

今から7 0 年前、沖縄戦があった。
1945 年3 月末から6 月23 日まで。その後、8 月には広島、長崎に原子爆弾が投下され、
日本全土にB29 戦略爆撃機による大空襲が行われた。
なぜ、敗戦色濃い戦局で戦争継続がなされたのか。
ここにこそ「国民の命と財産を守る」と言ってきた日本軍、軍隊の正体が浮き彫りになる。
1946 年に日本国憲法が公布、翌年施行されたが、アメリカは、アジアにおける権益拡大のため、極東に反共の砦として日本、その要として沖縄の基地建設を拡張し、日本国憲法の主権在民・平和・人権は踏みにじられた。
1950 年6 月、朝鮮革命抑圧に介入したアメリカが、1951 年9 月の対日講和条約と旧日米安保条約を結んだ際、日本政府は日本の独立と引き替えに沖縄諸島(奄美諸島も)をアメリカの軍政下に差し出した。こうして日本の
再軍備(1950 年警察予備隊発足)が始まった。旧日本の財界と官僚、支配層が「生き返った」。
講和条約と旧日米安保条約が発行された1952年4月28日は、沖縄にとって「屈辱の日」です。改めて「沖縄戦と屈辱の日」を振り返り、私たちの未来について考える機会にしましょう。

瀬長亀次郎
せなが かめじろう
http://ja.wikipedia.org/…/%E7%80%AC%E9%95%B7%E4%BA%80%E6%AC
生年月日 1907年6月10日
出生地 沖縄県豊見城市
没年月日 2001年10月5日(満94歳没)
出身校 第七高等学校放校(退学)
(現・鹿児島大学)
瀬長 亀次郎(せなが かめじろう、1907年(明治40年)6月10日 – 2001年(平成13年)10月5日)は、日本の政治家。衆議院議員(7期)、那覇市長(1期)、立法院議員(3期)、沖縄人民党委員長、日本共産党幹部会副委員長を歴任する。
概要[編集]
太平洋戦争後の米軍占領下の沖縄で沖縄人民党を組織し、圧制に対する抵抗運動を行った。返還前の沖縄で立法院議員や那覇市長を歴任。沖縄返還後は日本共産党に所属し衆議院議員を7期務める。沖縄県豊見城村(現、豊見城市)出身。
経歴[編集]
1907年、沖縄県島尻郡豊見城村(現、豊見城市)我那覇に生まれる。沖縄県立二中(現沖縄県立那覇高等学校)、東京・順天中学(現順天中学校・高等学校)を経て旧制第七高等学校(現鹿児島大学)に進んだが、社会主義運動に加わったことを理由に放校処分となる。2年間の兵役を務めた後、1932年に丹那トンネル労働争議を指導して治安維持法違反で検挙され、懲役3年の刑で横浜刑務所に投獄される。その後は蒔絵工などを経て、召集されて砲兵として中国へ出征する。
戦後、名護町助役、沖縄朝日新聞記者、毎日新聞沖縄支局記者を経て、1946年にうるま新報(現琉球新報)社長に就任。在任中、沖縄人民党の結成に参加したことにより、軍の圧力で同社長を辞任。雑貨店を経営する傍らで沖縄人民党書記長となり、1950年、沖縄群島知事選挙に出馬するが、準備不足もあり当選者の1割にも満たない得票数で落選。しかし、1952年の第1回立法院議員総選挙では最高得票数でトップ当選を果たす。この選挙後に開催された琉球政府創立式典で宣誓拒否したことで占領軍から睨まれることとなる。
1954年10月、米軍は瀬長を、沖縄から退去命令を受けた人民党員をかくまった容疑(出入国管理令違反)で逮捕。たった1人の証言を証拠として弁護士なしの裁判にかけ、懲役2年の刑の判決をして、再び投獄された(沖縄人民党事件)。1956年4月の出獄後、同年12月に行われた那覇市長選に出馬する。対立候補から選挙妨害を受けるが、まったく保護されない無法選挙を戦うことを余儀なくされたものの、大方の予想を覆し当選を果たす。だが占領軍出資の琉球銀行による那覇市への補助金と融資の打ち切り、預金凍結の措置に遭い市政運営の危機[1]に見舞われるが、市民は自主的な納税によって瀬長を助けようとし、瀬長当選前の納税率が77%だったのに対し当選後は86%にものぼり、最高で97%にもなった。そのおかげで自主財源での市政運営できるようになり危機を脱する[2]。これに対し占領軍と琉球民主党は7度にわたる不信任決議を提出するが、いずれも不発に終わる。しびれを切らした占領軍は1957年、高等弁務官ジェームス・E・ムーア陸軍中将が布令を改定し(米民政府高等弁務官布令143号、通称「瀬長布令」)1954年の投獄を理由に、瀬長を追放し被選挙権を剥奪した[3]。市長在任期間は一年足らずであったが、那覇市政をめぐる米軍との攻防は、瀬長に対する沖縄県民の絶大な支持を呼んだ[4]。
1967年12月に瀬長布令が廃止されたことで被選挙権を回復。翌68年の第8回立法院議員選挙で立法院における議席を回復した。1970年の沖縄初の国政参加選挙で衆議院議員に当選する。以降7期連続当選を果たした。日本共産党に所属し共産党副委員長などを歴任。1990年、政治活動を引退する。2001年10月5日、肺炎で死去。享年94。
ジュリオ=キュリー賞、那覇市政功労賞、県自治功労賞、沖縄タイムス賞(自治賞)を受賞。那覇名誉市民、豊見城名誉村民。
1998年には映画「カメジロー 沖縄の青春」が制作[5]され、2005年には小林よしのりが著書の沖縄論の中で「亀次郎の戦い」を掲載した。
2013年3月、記念館「不屈館」が那覇市に開館。施設名は占領軍の弾圧を受けながらも闘い続けた瀬長が、生前好んで揮毫した“不屈”にちなむという[6]。
著書[編集]
『不屈 – 瀬長亀次郎日記』(琉球新報社、出版年不明)
『沖縄からの報告』(岩波書店,1967年)
『沖縄人民党 闘いの二十五年』(新日本出版社,1970年)
『民族の怒り もえあがる沖縄』(新日本出版社,1971年)
『民族の悲劇 沖縄県民の抵抗』(新日本出版社,1976年)
『民族の未来 沖縄に平和と文化を』(新日本出版社,1978年)
『瀬長亀次郎回想録』(新日本出版社,1991年)