●これは「自粛なきXデー」の始まりである 7月13日、明仁天皇の「Xデー」状況がはじまった。しかもこれまで全く予想されなかったかたちで。 天皇という地位についている人間の生物学的な死としての「Xデー」へのカウントダウンが始まったわけではない。しかし、天皇の「代替わり」にともなう、新たな天皇制像の演出としての「Xデー状況」は、すでに開始されたと見るべきだ。 反天連は昭和天皇「Xデー」との大衆的な闘いに向けて1984年に結成された。昭和天皇の「Xデー」においては、病状報道から天皇の死にいたる時期の「自粛」と「弔意強制」が、列島全体を巻き込んだ社会現象となった。それは経済状況にも影響し、何よりもその「息苦しさ」への反発が、天皇制に対する批判的な感覚を広げた。このことはおそらく、天皇制を演出する側にとっても総括すべき点であったはずである。今回の、いわば「自粛なきXデー」状況の開始は、われわれにとっても、前回とは異なる反天皇制運動の展開を要求している。そのことを見すえながら、私たちは多くの人びととの共同の作業として、開始された「Xデー状況」に反撃する闘いを、さまざまなかたちで準備し開始することを呼びかける。
●天皇が事態を主導している われわれは、今回のそれがまず、天皇自身による「生前退位」の意向表明として始まったことに注目しなくてはならない。これはたんに年老いた明仁天皇が、現役を退きたいと希望しているといった話ではない。NHKによってそれが報じられてすぐに、宮内庁幹部や政府は「報じられた事実はない」「承知していない」と打ち消して見せたが、各メディアは事実としてそれを後追いで報じ、宮内庁もまたNHKへの抗議などはしていない。さらに、首相官邸では、限られた人間しか知らず、何を検討しているかについてさえ極秘のチームが、皇室典範改正に関する検討をすでに進めていたとされる。それをも飛び越えて、天皇の「意向」が唐突に明らかになったのは、明仁天皇自身そして徳 仁や文仁らの強い意向がそこに働いていたからであると判断される。 今回の件は、明仁天皇自身が、「次代」の新しい天皇制を演出する、その主導的な担い手の一人として立つという明確な意思を表明したということを意味する。摂政をおくのではなく、皇室典範の改正が必要な「生前退位」を、明確に希望したこと、それは象徴天皇制を、明仁天皇みずからが主人公となって、積極的に変革し再構築するという宣言なのである。
●「国民の天皇」の政治的行為 「生前退位意向表明」は、昭和の天皇制とは段階を画した「国民の天皇」としての、明仁天皇制をしめくくるものである。 その即位以来、マスコミ等を通じて演出されてきた明仁天皇制の姿とは、アジアへの外交や沖縄訪問による戦争責任の和解に力を尽くし、国内外の戦跡で死者への祈りを捧げ、さまざまな自然災害の被災者を慰問するなどの「公務」を精力的に行なう、「常に国民とともに」ある明仁と美智子といったイメージであった。しかし、これら一見すると「非政治的」で平和的な、問題ともならないように見える天皇の行為は、現実にはすぐれて政治的な役割を果し続けている。 たとえば、アジア訪問などにおける天皇の発言は、実質的に天皇制国家の責任も日本軍の責任もなにひとつとらず、ただ口先でだけ「謝罪」のことばを発して終わったことにしようとする日本国家と基本的に同じものである。それがたんなる「口先」ととらえられないのは、「国民統合の象徴」とされる地位に立つ者のことばであり、マスメディアが絶対敬語で無条件に賛美することばであり、ある人たちにとっては侵略戦争の責任者であった昭和天皇の息子のことばであるからだ。国家の儀礼を受け持つのが天皇の役割だが、それは天皇であるからこそ、他の国家機関ではなしえない何ものかを有するものとして演出される。しかし、繰り返すが天皇は国家の機関である。だから天皇のこと ばを賛美することは、国家のことばを無条件で賛美することと同義である。天皇はそのようなかたちで政治的な役割を果しているのだ。
●天皇の「公務」の拡大は違憲だ 年齢のせいで「公務」が十分果せなくなったという思いが、今回の「生前退位」の意向表明の背景にある、とマスメディアは報じている。明仁と美智子によってさまざまにおこなわれてきた天皇の「公務」を「誠実」に果していくこと。「生前退位」の意味することは、自らが体現してきたそういう象徴天皇制のあり方を、その権威も利用しつつ、明仁天皇から徳仁天皇へと意識的につないでいくことに違いない。それは、息子の妻の病いも含め「不安」の中にある次代の天皇制を、ソフトランディングさせていくという意図に貫かれている。 だが、憲法で規定された「国事行為」以外の「公務」なるものは、そもそも違憲の行為である。かつて「統治権の総覧者」であった主権者天皇を、「国民主権」のもとでの象徴天皇に衣替えするにあたって、天皇の役割を法的に限定したのが憲法の天皇条項である。認められた「国事行為」以外に「公的行為」なる区分を立て、天皇の「公務」としてひとくくりにすることは、いわば天皇条項の「解釈改憲」にほかならない。そうやって勝手に「仕事」を増やしておいて、それを十分に行なえないから「退位」して代替わりが必要だなどと、「政治に関与しない」はずの天皇が言い出すことは、二重に違憲の、ふざけた言い草なのだ。個人的な事情で国家の制度の変更を迫る。ここにあるのは 、身体を有する特定家系の個人を国家の「象徴」とする制度自体の矛盾である。 今後、天皇の意思を「忖度」して皇室典範改正作業が本格化されていくであろう。すでに、退位後は「上皇」になるのか、今回限りの特例法で、などといった議論も始まっている。皇室制度を安泰にするための「女性宮家」の検討も再浮上するだろう。右派の抵抗も予想されるが、皇室典範の不合理な部分を、合理化しなければならないといった議論が、「陛下の意思」を背景に、「国民的」になされる場がつくりだされようとしている。 問題なのは、そうした議論の中で、拡大されてきた天皇の「公務」自体の違憲性を、正面から問う言説がほとんど見られないことである。逆にそれを前提とし、それらをより積極的に行なうことが天皇の役割であると言うのである。 私たち反天連の立場からすれば、体制としての戦後民主主義のなかに埋め込まれた象徴天皇制は、民衆の自己決定としての民主主義とは矛盾するシステムである。生まれによって、特別な身分が保障されるような制度はおかしい。私たちは天皇によって「象徴」され統合された「国民」であることを拒否する。膨大な経費と人員を使って、各地に移動するたびに、人権侵害をひきおこし、批判的な少数言論を抑圧する制度は迷惑である。そうであるからこそ、新たな天皇制の再編強化を意味する「生前退位意向表明」に私たちは注目せざるを得ないし、その違憲性を批判し、そこで具体的に生み出される天皇制の政治と言説に批判的に介入していく。 天皇も皇族であることもやめよ。徳仁も即位するな。皇族という存在はいらない。そして天皇制自体は廃止されなければならない。
2016年7月28日
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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