林郁さんの新刊「游日龍の道」のサブタイトルに「台湾客家・游道士の養生訓」とある。游日龍は台湾崑崙派道教の総師。いま91歳だが、女性や若者に大人気の老師で、法衣を着たことがなく、子どものような笑顔の人だという。
台湾「崑崙仙山という所に住む游道士を女性作家の林郁さんが訪ね、2012年10月と2013年1月と8月、3回寄遇、(日本では知られていない)游さんの系譜、人生観を聞き、完全無農薬農業を見学、健康養生法を学び、祭祀にも参加して書きあげたユニークな本である。
この1冊に著者のアジア・中国の文化に対する知見と自ら実践してきた健康法が見事に凝縮している感じがする。私は台湾の客家(はっか)や道(タオ)に関心がありながら、よく知らないまま過ごしてきたが、本書の游日龍老師を通して、それを知ることができた。そして改めて養生の大切さに目覚める思いがした。
この游日龍道士(道教を修めた指導者)は、子ども時代から自然をよく観察し、独創工夫してきた人、まったくの自力更生の人、行動力・バイタリティにあふれ、大自然に合わせた創意と構想をねばり強く実現してきた。
游青年は新技法の炭焼きで大家族を支えたが、日本海軍兵として敗北が決定的だった南太平洋激戦地に送られ、日本軍の食料作りの重労働を担った。かれは「戦場日記」を秘かに記した。(紙がないので、携帯した「徳冨蘆花・自然と人生」の余白に記す)。日本軍は徹底した秘密主義で植民地から徴兵された一兵卆は戦場の地名を教えられなかったが、かれは注意深く地名を入手、現地民と仲良くし、正確な年月日、農暦も天候も記した。
日本語で書かれた彼の「戦場日記」によると、ラバウルで慰安所の切符が1人1枚渡されたが彼は行かなかった。(女性は1日1人48人の兵隊の相手をすると聞き、行かなかった台湾兵数人がいたという)。彼は月給を実家に振り込んでもらっていた。
魚雷攻撃や機銃掃射、連日連夜の猛空爆、彼は家族と故郷を想って泣き、友の戦死に泣き、「奇跡の命拾い」をして敗戦。捕虜収容所を経て、生家に帰り着くと、母、祖母、兄弟、父、家族全員が涙を流し慟哭する。日記のその場面は実に感動的である。
台湾の戦後は苦しかった。游氏は写真屋や書店や文具店などで糧を稼ぎながら漢方を研究し、小さな廟を手作りして崑崙七星殿と名づけた。日本の皇民化で潰された道教を復興する悲願の第一歩だった。駆け込み寺のような廟務と漢方医の往診をしながら「道の修行をし、「九十三日間の断食」も行った。しか、長期断食は人には勧めない。長い絶食の座禅は筋力・脳力・体力など減退させ、回復に非常な努力が要るからだ。病む危険もある。
その後、多勢の声援で崑崙仙山太極殿を10年かけて完成させ、「健康・養生」実践の場を作った。70歳で廟務を子らに全て託し、「生活改進健康学会」の総帥として「健康は自身で養う」を旨として活動した。自分は病院に行かぬように心がけている。
具体的には「飯少野菜多」「長吸陽気」「無飢莫食」(満腹時には食べてはならぬ)など。一日三食、間食なし。食べ物はゆっくり噛んで食べる。よく噛むと脳からのサインで過食大食を止め、唾液と混ざって消化を助ける。「唾を大事に。唾は酵素だから」など。そして緑茶、にんにく、トマトを推奨する。
林郁さんは游道士の自宅で日常食をお相伴し、毎日、トマトのとろ火スープをいただいた。「トマトはたいへん優れた健康野菜である。が、ナマ食は身体を冷やす。乱切りにして良質水を足し、とろ火で約30分~40分炊いたスープ(極うすい塩味)は血流になじみ、毛細血管を活性化する。毛細の血流は大事です」と聞き、帰国後もトマトのとろ火スープを常食しているというので、我が家でも早速真似ることにした。
私は10年前に脳梗塞で倒れ、いまも週1回リハビリデイサービスに通い、ヨガ体操とストレッチ体操に励んでいる。再発せず元気に外出を続けているが、養生を続行したい。
本書は気功、呼吸法、脳力発現刺激法などにも触れており、まことに有益な本である。
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