【書評】サラ・ロイ『ホロコーストからガザへ』を読んで

 イスラエルによるガザ大虐殺からまもなく3年を迎える今、イスラエルとは一体どういう国家なのか、イスラエルのユダヤ人は何を考えているのか、パレスチナ人の未来はどうなるのか、といった問題を漠然と考えていたとき、偶然本屋で目についたのが、本書『ホロコーストからガザへ』であった。本書の著者、サラ・ロイはホロコースト・サヴァイヴァーであるポーランド出身の両親の下に生まれたユダヤ系アメリカ人であるとともに、ガザ地区占領に関する政治経済学的分析における世界第一級の研究者である。本書を読んで私は、イスラエルによるパレスチナ占領体制の実態や、オスロ合意に始まるいわゆる「和平プロセス」の根本的問題点などについて新たな認識を得ることができただけでなく、ホロコーストからガザへと至る人間的愚行と残虐さ、およびその裏にある人間的悲惨さと尊厳について、改めて内省させられた。以下、本書の内容を簡単に紹介したい。

 本書は、イスラエルのガザ侵攻から間もない2009年3月に日本に招聘されたサラ・ロイの講演原稿や対談、および関連論稿をまとめて編集したもので、「目次」を掲げると、以下のような構成になっている。

序章 ガザ地区とパレスチナの概要およびサラ・ロイの仕事(早尾貴紀)
第1部
第1章       もしガザが陥落すれば……(サラ・ロイ)
第2章       ガザ以前、ガザ以後:イスラエル―パレスチナ問題の新たな現実を検証する(サラ・ロイ)
第3章       「対テロ戦争」と二つの回廊(小田切拓)
第2部
第1章       ホロコーストからパレスチナ―イスラエル問題へ(サラ・ロイ)
第2章       〈新しい普遍性〉を求めて:ポスト・ホロコースト世代とポスト・コロニアル世代の対話(サラ・ロイ×徐京植)

 序章は、サラ・ロイの招聘者によるサラ・ロイの紹介と、パレスチナ問題、とりわけガザ地区における占領問題の序論的紹介であり、本書の諸論考を理解するための前提となる知識を得るうえで有益である。

 第1部第1章は、イスラエルによるガザ大攻撃が始まる数日前に「ロンドン・レビュー・オブ・ブックス」に書かれた時事評論であり、第2章は、日本において行われた講演のために用意された原稿である。第1章では、イスラエルの進めるガザの封鎖・監獄化政策によってガザ地区のパレスチナ人の置かれている悲惨な現状が浮き彫りになり、第2章では、オスロ合意以後のいわゆる「和平プロセス」そのものがパレスチナの自立的経済構造を破壊する「反開発」を推し進め、イスラエルの占領政策を維持・強化するものでしかないことが、具体的な統計データを基に説得的に示される。しかも、この「和平プロセス」においては、パレスチナを「支援」すると称している国際社会が援助を懲罰の武器として用い、イスラエルによる占領をもはや問題視しないばかりか、パレスチナ人を主権を有する人民としてではなく、国際社会によって面倒をみてもらわなければならない人道支援の「物乞い」にまで貶められている現状が厳しくあぶり出されている。そして、イスラエルによるガザ攻撃が、ガザ地区と西岸地区の分断と孤立化、西岸地区での暗殺や入植地の拡大・土地の収奪・領土の細分化・移動制限などによるパレスチナ人への植民地的支配と統制という歴史的文脈の中で必然的かつ悲劇的に生じた事件であることを論証し、「いま決定的に必要なことは、政治の議題を、すでに空疎だとわかっている国家建設という理念から、占領の終結という理念へと変えていくことだ」と述べ、占領が続く限り、いかなる発展も論外であるとの結論を下している。

 第3章は、ジャーナリストの小田切によるサラ・ロイへのインタビューをもとに、小田切自身がオスロ合意以降のイスラエル占領政策を解説したものである。本章によって、私は初めて、オスロ合意の本質的かつ根本的欠陥や、イスラエルによる2005年の「ガザ撤退」の狙い、さらには日本のそれも含め国際社会によるパレスチナ「支援」という名の援助プロジェクトが、実際にはイスラエルの占領体制を強化するものでしかないこと、それどころか、国際社会の「支援」する「和平プロセス」そのものが、イスラエルと一体となってパレスチナの分断と占領体制を強化するものでしかないこと、などを理解できたように思う。詳しくは本書を読んで頂きたいが、他書ではなかなか知り得なかったオスロ合意の本質的・根本的欠陥とは、イスラエルによる占領の終結や入植地からの撤退、1967年の境界線に基づく国境線の画定、さらには難民の帰還権といった国際法や国連決議によって定められていた項目が、「イスラエルの義務=パレスチナ人の権利」から、交渉という名の取引事項へと引き下げられ、占領の解消が和平交渉の前提から排除されたことである。そして、2005年の「ガザ撤退」(と誤解を招く言葉で表現されている事態)以後は、「占領」という言葉自体が使われなくなり、国際社会がイスラエルの占領を不問に付したばかりか、パレスチナがイスラエルの意向に従わない場合には、制裁を行うまでに至っている。

 第2部第1章は、サラ・ロイがホロコースト・サヴァイヴァーの2世としての自らの出自から語り起こし、自身とイスラエルおよびパレスチナ問題との関わりについて具体的かつ思索的に語った極めて印象深いエッセイである。イスラエル=パレスチナ問題について、私が常々、どうしても理解できなかったことは、ホロコーストの悲惨な歴史と記憶をあれほど強調するイスラエルのユダヤ人が、パレスチナ人に対してなぜあれほど過酷な追放・抑圧・支配・虐殺・差別・侮蔑化といった残虐な政策を遂行できるのか、さらにはなぜイスラエル以外のユダヤ人の多数派がこうしたイスラエルの政策を支持できるのか、ということであった。しかし、サラ・ロイは(当然ながら)私などとは全く次元の異なる真剣さと深刻さをもってこの問題に向き合ってきた。そして彼女は言う。「私にとってつらかったのは、私のイスラエル人の友人たちの多くがホロコーストや、イスラエル国家ができる前のユダヤ人の生活を冒涜することでした。彼らに言わせると、それらの時代のユダヤ人は、脆弱で、受身で、劣っており、無価値で、尊敬に値せず、蔑まれて当然の恥ずべき存在なのでした」と。彼らにとって、「非業の死を遂げた何百万もの人びとや彼らが生きた生を理解する必要などほとんどありはしないかのようで」ある一方で、「同時にホロコーストは、他者に対する防衛として、政治的・軍事的行動を正当化するためのものとして国家によって利用されても」いた、という。その結果、「私たちのかくも多くが自分たち自身を否定し、かくも真実を歪めるのであるとすれば、パレスチナ人に対してもそうでないはずがあるだろうか」という問いに導かれるのである。その後、イスラエルによる占領地区に足を踏み入れたサラ・ロイはその占領・支配・抑圧の実態を繰り返し目の当たりに体験することになる。その結果、「どうして一方で他者を苦しめておきながら、自らは潔白でありつづける、償うことなくただ嘆きつづけるなどということができましょうか」という疑問を経て、「意図的に盲目となることによって、原則を破壊し、人びとを破壊し、相手を抱擁するあらゆる可能性を抹消し、そうして他方では悲劇的なかたちで自分自身だけが安楽を得ているのである」との認識に至る。そしてさらに、「私たちユダヤ人は、自責の念をもたないことによって傷を癒しているのです。自責の念をもてば、私たちが解体してしまいますから。……ユダヤ人は、平和よりもこうしたどん底を選んでしまっています。平和になれば、私たちは受け入れがたいまでに内省へと投げ込まれ、自覚と認識を迫られるからです」と語り、「ホロコーストは教訓としてあるのではありません。そうではなく、倫理的責任よりむしろ同族への愛着が要請され、またその同族への愛着がしばしば集団行動を規定してきた、そのような内的純化作用として、ホロコーストはあることになります。もしかするとこうしたことは、ユダヤ・ナショナリズムの、つまり神聖さを政治に利用したことの、不可避的な帰結であったかもしれません」との結論に至るのである。この結論は、痛切ではあるが極めて説得的でもある。

 第2部第2章は、日本で行われたサラ・ロイと徐京植との対談であり、主に徐京植からサラ・ロイに質問する形で対談は進められる。ここでもサラ・ロイは、大半のユダヤ人が、「一方でホロコーストをユダヤ人国家の必要性を正当化すると同時に、他方で戦後のイスラエルでは犠牲者や生き残りを侮蔑してきた」と語っている。そして、イスラエル内外のユダヤ人のパレスチナ人に対する攻撃的な態度については、「情報は隠されてはいない、普通に手に入るにもかかわらず、アメリカのユダヤ人組織もイスラエル人も知ろうとはしない」し、「それは知りたがらないからなのです」と語っている。そしてその理由については、「自らの罪を反省することには大きな痛みを伴うために反省できない、ということかもしれません」と推測している。しかし同時に、アメリカのユダヤ人の中には、イスラエルの政策を批判する人も、なお少数派ではあるものの、少しずつ増えている、という事実も語られる。最後に、会場から「苦難の記憶を共有しない他者が共感したり連帯したりすることは可能か」という趣旨の質問に対して、徐京植は、「感情移入することができないという感覚」の方が大事であり、「自分たちは知らない、知らないかもしれない、しかし、知らないということが恐ろしい、知らなくていいはずはない」といった自問こそが連帯の基盤、新しい基盤になりうると回答している。この回答も非常に納得できるものであった。

 本書が他の類書と異なっている最大の特長は、オスロ合意以後のいわゆる「和平プロセス」に関するイスラエルや「国際社会」の公式発表を鵜呑みにせず、関係諸国の具体的な行動とそれがパレスチナ人に及ぼしている現実とを冷静に分析することにより、その真の狙いと意図を明晰に解き明かしていることであろう。そして、ホロコースト・サヴァイヴァーの子供である「にもかかわらず」、ではなく、まさに「そうであるがゆえに」こそ、イスラエルによる占領・植民地化政策に断固として反対し続けるサラ・ロイという稀有な研究者の優れた紹介になっていることである。

書誌情報:サラ・ロイ『ホロコーストからガザへ――パレスチナの政治経済学』(青土社、2009年)

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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