【書評】荒涼たる核の警告 ウィリアム・J・ペリー著、ジェリー・ブラウン評

ベルリンの壁の崩壊とともに冷戦が終結したのは1989年。27年前ということになる。冷戦時代は1947年からの42年。すでにその半分をゆうに超える時間が「冷戦後」として流れてしまった。いま、「核シェルター」という言葉を聞くことはほとんど無くなっている。「核戦争による世界絶滅」が恐怖であったのは、まるで過ぎ去った冷戦時代のことのようだ。

しかしいったん雪解けを迎えたかに見えた核の恐怖は。拡大NATOによるロシア包囲とともに継続し高まっている。1954年以来60年にわたって米国軍事戦略を支えてきた老練のウィリアム・J・ペリー氏は、最近出版した回顧録『My Journey at the Nuclear Brink(私が辿った核の瀬戸際)』の中で、世界中の人々が忘却の中で夢中歩行をしていることを、彼の長い経験を元に警告している。

カリフォルニア州知事(2016年現在)のエドモンド・ジェラルド「ジェリー」・ブラウン・ジュニア氏による書評を翻訳して紹介する。

原文は
http://www.nybooks.com/articles/2016/07/14/a-stark-nuclear-warning/

(前文、翻訳:酒井泰幸)

荒涼たる核の警告

ジェリー・ブラウン評
ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス、2016年7月14日号

『My Journey at the Nuclear Brink(私が辿った核の瀬戸際)』
ウィリアム・J・ペリー著、ジョージ・P・シュルツ序文
スタンフォード・セキュリティー・スタディーズ発行

1994年から1997年まで米国国防長官を務めたウィリアム・J・ペリーよりも良く近代兵器の科学と政治学を理解する人を私は知らない。このような疑う余地のない経験と知性の持ち主が新刊の回顧録の主題である荒涼たる核の警告を発するとき、私たちは注意を払うべきだ。ペリーは率直にこう言う。「現在、ある種の核のカタストロフィ(大惨事)の危険は冷戦時代よりも高まっていて、ほとんどの人々はこの危険のことを何も知らずにのほほんとしている」(注1)。核の危険は「毎年大きくなって」おり、たった1発の核爆発でさえ「我々の生活様式を破壊する可能性がある」ことも彼は語ってくれる。

明瞭、詳細だが力強い文体で、ペリーの新刊書『私が辿った核の瀬戸際』は、彼の70年に及ぶ核時代の経験を語る。彼の物語は、第二次世界大戦直後の「溶けた瓦礫の巨大なゴミ山」の中に住んでいる生存者とじかに遭遇したところから始まり、現在へと私たちを連れて行く。そこでペリーが懸命に警告するのは、私たちが危険な核の道を進んでいることだ。

広島と長崎の原爆投下を回顧して、単に都市が廃墟となるだけでなく、あらゆる文明の終焉が今や可能になったことを初めて理解したのはあの時だったとペリーはいう。「解き放たれた原子の力は全てを変えてしまったが、我々の思考様式だけは変わらなかった」というアインシュタインの言葉を彼は重く受け止めた。核兵器が「今や安全を脅かしている」という厳然たる事実を理解せず、核兵器が安全保障をもたらすと我々の指導者たちに信じ込ませているのは、「古い思考」でしかないと彼は断言する。

ペリーの回顧録は点を稼いだり恨みを晴らしたりするために書かれたものではない。彼はセンセーショナルな表現を使わない。だが、国防のインサイダーであり核の秘密の守護者として、彼がアメリカの指導者たちに説明責任を果たすよう強く求めているのは、彼が非常に悪い判断だと確信している一連の決定で、ロシア国境に達するNATOの急拡大(注2)や、ジョージ・W・ブッシュ大統領による弾道弾迎撃ミサイル制限条約(もとはニクソン大統領が署名)からの脱退などだ。

この本への序文で、ジョージ・P・シュルツはペリーを「絶対的な高潔さ」を持つ男だと述べている。彼の経歴は目覚ましい。数学の博士号をもち、カーター大統領の下で国防次官、ビル・クリントン政権で国防副長官を経て国防長官として、ハイテクビジネス、研究開発経営、武器調達における膨大な知識と経験がある。

ペリーが第一歩を踏み出したのは早かったと書くが、1954年に26歳で上級科学者として採用されたシルバニアの電子防衛研究所は、今ではシリコンバレーと呼ばれる場所にあった。現在の私たちはこの地域をアップルや、グーグル、フェイスブックの本拠地と思うが、当時の主な業務は防衛産業、つまり大量破壊ビジネスだった。第二次世界大戦終結後のわずか十年たらずの間に、ソビエト連邦とアメリカの両国は水素爆弾を開発し、第二次世界大戦で使うことのできた通常爆弾の破壊力に対し百万倍に増大した。学童は机の下への「ダックアンドカバー」(頭をかがめて身を守ること)を教えられ、公共の建物ではもし核攻撃が起こったら避難する場所を示す標識が目立つ場所に掲示された。

ペリーが電子防衛研究所で最初にした仕事は「電子防衛システム計画案の評価」で、これは「襲来するソビエトの大陸間弾道ミサイル(ICBM)の誘導信号」の妨害を狙ったものだった。綿密な調査の後、彼が報告したのは、妨害が成功すれば中規模核攻撃での死者の約3分の2を防げる、つまり即死者を7千5百万人から2千5百万人に減らせる可能性があることだった。だが彼は後にこの推計では放射線と「核の冬」による長期的な死者数を考慮していなかったと指摘した。報告書には治療を受けられない何千万人もの負傷者や完全に崩壊する経済・社会基盤のことも入っていなかった。

大規模核攻撃に対して容認できる防衛策は存在しないという結論にペリーが到達したのはこの時であり、彼はこの見解からけっして逸脱しなかった。何人かの大統領を含む多くの政治指導者たちは、ペリーに異議を唱えて様々な種類の対ミサイル防衛システムに出資してきたが、その最新のものが東ヨーロッパに現在配備中の弾道ミサイル防衛システムだ。

シリコンバレーで始まり、その後も推進された秘密の防衛研究を支えた、何十億ドルもの連邦予算を解き放ったのは、冷戦期の核による全滅の恐怖だったとペリーは回想する。技術革新や、私的利益と税金、民生ハイテク機器と大量破壊兵器、人工衛星技術、コンピューター、拡大を続ける監視網といったものが、秘密であれ公開であれ、どのように相互に結びついているか、ペリーは誰よりも熟知している。だが彼は今、この暗黒の知識を使って、彼が中心的な役割を担っていた激しい軍拡競争を、反転させるために奮闘する。

ペリーは全てが始まる時に立ち会った。エリートの一員として、彼はCIAと国家安全保障局がソビエトのICBMを評価するために設立した極秘の「テレメトリーおよびビーコン解析委員会」の一員だった。彼は米国のU-2スパイ用偵察機が収集した画像を解析するチームにも所属していた。U-2偵察機は1956年から画像収集を始め、4年後にゲーリー・パワーズが操縦するU-2偵察機がソビエトに撃墜されてこの計画は終了した。彼はソビエト連邦との間に「ミサイル・ギャップ」があるかどうかを判断するためCIA長官のアレン・ダレスが1959年に組織したチームの一員でもあった。実は、ギャップは存在しなかったのだが、ペリーがこの本で明かすように、彼が書いた報告書は何十年も秘密にされた。

そして、キューバ・ミサイル危機が高まっていたとき、ペリーは分析官の小さなグループの一員に選ばれ、キューバに配備されつつあったソビエトのミサイル情報を収集して昼夜を問わず働いた。彼らは画像その他のデータを分析し、作成した報告書は毎朝ケネディー大統領に届けられた。

ケネディー大統領が米国民に向けた演説の中で、キューバから核ミサイルが1発でも発射されれば「ソビエト連邦への全面的な報復」で対抗すると言ったとき、ペリーにはそれが何を意味するのかはっきりと分かった。彼はこのような核戦略を10年間研究していた。分析センターへ毎日通いながら、彼はこれが「人生最後の日」かもしれないと内心で思っていた。

キューバ危機で核のホロコーストを回避できたのは運が良かったからだとペリーはいう。何年も後になって、核戦争へと追いやりかねない危険な状況がさらにいくつかあったことが判明した。

第一に、米国が敷いた海上封鎖に接近中のソビエト艦船は、核魚雷で武装した護衛潜水艦を伴っていたと、ペリーは書く。潜水艦との通信が困難なため、ソビエト政府は潜水艦の司令官に許可なしで発射する許可を与えていた。アメリカの駆逐艦が潜水艦を浮上させようとしたとき、艦長と政治担当官は共に駆逐艦に対し核魚雷を発射する決断をした。核対立を回避できたのは、艦隊の総司令官であるヴァシーリイ・アルヒーポフもその潜水艦に乗船していたからだった。彼は発射命令を却下し、核戦争の始まりとなり得る事態を回避した。(注3)

第二に、この危機のとき、ヨーロッパに駐留していたアメリカの偵察機が航路をそれてソビエトの領空に侵入した。ソビエトは即座に攻撃機を緊急出動させ、アメリカの戦闘機もアラスカの空軍基地から飛び立った。アメリカ側は核弾頭ミサイルで武装していた。幸い、アメリカ偵察機のパイロットがソビエト領空に迷い込んだことに気付き、ソビエトの迎撃機が到着する前に領空を出た。

ほぼ同時刻に、アメリカのICBMがカリフォルニア州ヴァンデンバーグ空軍基地から発射された。これは打ち上げ試験として定期的に実施されたものだったが、ソビエトに誤解されても仕方ないものだった。幸運にも、誤解は起きなかった。

不幸なことに、核による全滅にこれほど近付いたにもかかわらず、ソビエト連邦と米国の指導者たちは核競争を減速させる努力を全くせず、正反対のことをした。ペリーはここに核兵器の新しい現実とは全く食い違った「超現実的な思考」が働いていると見る。確かに、ワシントンとモスクワの間にホットラインが開設されたが、これを除けば米ソ両国の戦略的思考は何事もなかったように続いた。

ペリーはキューバ危機のいくつかの厄介な側面を指摘する。戦争に突入したいと望む顧問が米ソ両側にいたと、彼は書く。メディアはこの危機を「『勝った』『負けた』のドラマ」として扱った。最後に彼は、政治指導者たちは戦争を始める意気込みが強いほど大衆の承認を得ていたように見えると意見を述べる。

結果として、核弾頭とそれを載せる運搬手段の両方で、いっそう複雑な競争が始まった。当時の米国国務長官ディーン・ラスクは「我々は『にらめっこ』をしているのだが、相手方はちょっと瞬きしたみたいだ」(注4)と勝ち誇ったように宣言した。もしこれでアメリカが勝ったと言いたかったのだとすれば、彼は間違っていた。ソビエトは核軍備の増強にさらに力を入れ、これに米国も追随し、両国が各々製造した何千発もの危険な核兵器は、もし使用されれば広範囲の人類を壊滅させかねないのだ。

核の脅威は自分を雇っていたシルバニアのような防御研究所にとって非常に良いビジネスを意味するものでもあったと、ペリーは率直に認める。そこでの彼の研究は、ソビエトのミサイルと宇宙システムを理解することが中心で、このハイテク・スパイ戦の仕事は気分を浮き立たせ高い利益を生むものだと彼には分かった。彼の任務は技術的手段による冷戦情報の収集だった。だがシルバニアは問題を抱えていた。同社は真空管の製造で世界トップ企業だったが、折しも新しい半導体技術が出現しつつあった。ペリーが明確に見通していたのは、シルバニアのアナログ技術に間もなく取って代わるのは、フェチャイルドセミコンダクターの新しい半導体デバイスに基づくデジタル技術と、当時ヒューレット・パッカードのような会社で設計中だった新しい小型高速コンピューターだということだった。今こそ自分で踏み出す時だと彼は決意し、4人の仲間とESL社(電磁システム研究所)を設立した。

新会社の仕事は最高機密となるもので、その製品も顧客も明かすことが許されなかった。それでも、その後13年間でESLは次から次へと政府の契約を獲得し、1000人以上の従業員を抱えるまでに成長した。歴史的には、情報の解釈は政府機関の専権事項だったが、情報活動の最重要の標的のいくつかは極めて技術的なものになっていた。その中にはICBM、核爆弾、弾道ミサイル防衛システム、超音速機などがあった。これらの複雑な兵器システムのデータを集めるためには、技術スパイも同様に複雑なものが必要だったとペリーは説明する。連邦政府は必要な知識と技術を持つ民間企業との契約を開始し、ESLはその先陣を切った。ペリーの指揮の下、彼の会社はテレメトリー解析やビーコンとレーダーのデータ解析で長期契約を獲得し、ソビエトの脅威の性質と程度を理解する国家活動に欠かせない会社となった。

ペリーにとって次の段階は、1976年にジミー・カーターが選出された時に到来し、そのとき新しい国防長官がペリーに研究技術担当国防次官となるよう要請した。その後4年間、ペリーはこの仕事に没頭し、彼が学んだこと全てを使って、アメリカが戦闘能力を飛躍的に向上するのを指揮した。この戦略は3つの要素で構成されていた。(1)敵の全勢力をリアルタイムで探知するインテリジェントなセンサー、(2)超高精度で目標を攻撃できるスマート兵器、そして(3)敵のレーダーを回避するステルス・システムだ。核時代の大きな逆説は、核戦争の抑止力はますます致命的で精密な兵器を作ることによって追及されるということだ。ペリーの場合、それが彼の使命であり、彼はそれを想像力と卓越した技術を使って遂行した。彼が直面した問題は、ソビエト軍は通常戦力で3対1の優位性を持っていると見られていて、アメリカがソビエトをヨーロッパへの侵攻から食い止めるには核戦力しかないとされていたことだった。

公私の専門家たちがでっちあげた答は、「根本的に新しく非常に高度な相殺戦略」を作るというものだった。技術を通じて、アメリカは戦場でのソビエトの軍事的優位を相殺するのだ。この成果には、F-117ステルス攻撃機とB-2ステルス爆撃機、スマート砲弾、短距離・長距離の巡航ミサイル、偵察機などがある。

これら新兵器が実際に使用されるのはさらに10年以上を待たねばならなかったが、ついに第1次湾岸戦争の「砂漠の嵐作戦」で、アメリカ軍は明確な優位性を実証した。ペリーが書くように、「F-117はイラクで約1000回の作戦飛行を行い、約2000発の精密誘導弾を投下して、その約80%が目標に命中した」が、この精度は以前なら想像できなかったものだ。「ソビエトが設計した何百もの近代的な防空システム」をものともせず、「バグダッドの夜間攻撃で航空機は1機も失われなかった」。

成功は残念ながら過信につながることがあるが、第1次湾岸戦争の成功でジョージ・W・ブッシュは安心し、もう一度戦争しても同じような戦果を上げられると考えたのではないかと、私は思う。技術的能力では、民族の分裂、歴史的な憎しみ、宗教的信念という人的要因を必ずしも克服できないことを、いま私たちは知っている。

ペリーは米国の核戦力に関する重要な技術的進歩の貢献者だった。彼の力により、核作戦と非核作戦のどちらにも使うことができるB-2戦略核爆撃機を立ち上げ、老朽化するB-52に空中発射巡航ミサイルで新しい命を吹き込み、トライデント潜水艦計画を再び軌道に乗せ、失敗に終わったものの弾頭10個を搭載するミサイルのMX ICBMの実戦配備を試みた。

核抑止力には敵側の兵器ひとつひとつに対抗することが必要だと彼が信じていたわけではないが、彼は政治的圧力に同意して競争相手に追随することにした。その時も現在と同様に、アメリカはいわゆるトライアド(3つ組)の中の1つだけで必要な抑止力を全て持てると信じていたとペリーは書く。それはトライデント潜水艦だ。軍が潜水艦を追跡し破壊することは非常に難しく、抑止力には十分すぎるほどの火力を有しているからだ。爆撃機はトライデント戦力に一時的問題が生じるという確率の低い偶発的事象に対する保険になるだけだが、通常戦力を強化するという二重の役割も持っている。米国のICBM戦力は彼の考えでは冗長だ。確かに、間違った警報の結果として偶発的核戦争が始まる危険は、抑止力の価値を上回る。

多くの専門家はこれに同意するが、歴代の大統領たちは政治的で危険の高い道を進み、米国の核戦力をロシアと「同等」の規模にする。このような負けず嫌いで愚かな行為は必ず終わりのない拡大につながる。(注5)

核兵器を実際に使うことはできないので、同等性は「古い思考」だとペリーは私たちに語る。制御不可能で破滅的な拡大のリスクは大きすぎる。核による報復で敵を脅かすのに役立つだけだ。核兵器を備えた米国の潜水艦戦力は、実質的に難攻不落で、この抑止力の機能を十分に果たすことができる。(抑止力の政策は、大量殺戮の実行をほのめかすことを憂慮する人々によって厳しく批判されていることに注目すべきだ。(注6))

カーター大統領の下、国防総省でのペリーの最初の任期で、敵戦力を相殺しアメリカの安全を守るハイテクの力への絶大な信頼を彼は示した。だが1994年に、ビル・クリントン大統領の国防長官になったとき、米国は全く異なる一連の安全保障問題に直面した。冷戦は終わり、旧ソビエト連邦の核兵器が置かれたのはロシアだけでなく、核兵器を守る能力を持たない3つの新しい共和国にも置かれることになった。

ペリーはこの「流出核」を最重点課題にした。彼は、ウクライナ、ベラルーシ、カザフスタンにあった何千発もの核兵器全てを解体する手はずを何とか整えた。ソビエトのSS-19ミサイル用に作られたサイロを訪れ、もうもうとした煙となって崩壊するのを見たことを、彼は感動的に語る。その前に、彼はその場所を訪れ、若いロシアの将校から、彼らの統括する何百発ものミサイルがどのように米国の目標に向けて発射されるかを聞かされた。正にその瞬間もアメリカのミサイルが標的にしている場所で、カウントダウン演習を見学しながら、彼は核競争がどんな愚かさを作っていたのか分かった。

それから激動の日々が続く。SALT IIの下、米ロ両国で何千発ものミサイルと弾頭が破壊され、膨大な量の化学兵器が廃絶された。流出核物質は確保され、ロシアの核科学者たちはモスクワに設立された技術研究所で非軍事の仕事を与えられた。これら全てを可能にしたのは、サム・ナンとリチャード・ルガーという2人の上院議員が出資した計画があったからで、議会がかなりの資金を提供した。(現在この計画は打ち切られた。)今にして思えば、この兵器の破壊と米ロ間の継続した協力をペリーは小さな奇蹟と見ている。1992年から1995年のボスニア戦争で両国は軍事的な協力さえ行った。

だがこのような善意は長く続かなかった。1996年に、当時国務省の次官補だったリチャード・ホルブルックは、NATOを拡大してポーランド、ハンガリー、チェコ共和国、バルト三国を加盟させることを提案した。ペリーは、これが非常に軽率な行動であり何としても遅らせるべきだと考えた。50人の著名なアメリカ人の一団が、保守・リベラルを問わず、NATO拡大に反対してクリントン大統領への書簡に署名した。署名者の中には、ロバート・マクナマラ、サム・ナン、ビル・ブラッドリー、ポール・ニッツェ、リチャード・パイプス、ジョン・ホルドレンがいた(注7)。だがその甲斐もなかった。ポーランド、ハンガリー、チェコ共和国にNATOへの即時加盟を認めるクリントン大統領の決定に反対する閣僚は、ペリーただ一人だった。(注8)

その年、1996年は、結果的に米ロ関係が最高潮に達した時だった。NATO拡大はクリントン大統領の第2期に始まった。ジョージ・W・ブッシュ大統領が選出された後、NATOはさらに多くの国を取り込んで拡大し、遥かにロシア国境まで達した。ブッシュは弾道弾迎撃ミサイル制限条約(ABM条約)からも米国を脱退させ、東ヨーロッパにABMシステムの配備を開始し、その結果リチャード・ニクソンの重要な功績を否定し、防衛システムがあれば決然とした核ミサイル攻撃すら打ち負かすことができるという錯覚を助長した。

『私が辿った核の瀬戸際』は核の危険の新時代における過去60年のアメリカの政策の類い希な記述だ。ペリーが明らかにするのは、核テロリズムの危険は大きいこと、そしてワシントンD.C.でさえテロ攻撃と無縁ではないことだ。じっさい、彼が提示するのは、テロリストが即席の核爆弾を作り上げホワイトハウスとキャピトル・ヒルを爆破して、8万人以上を殺害し社会を完全に破壊するという、説得力のあるシナリオだ。ペリーはインドとパキスタンの間で局地核戦争が起き、地球規模の壊滅的な影響を引き起こす可能性もあると警告する。

この本が出版されてから、ペリーが確認した危険は高まるばかりだ。最近の米国国防予算は今後数十年間で核兵器の近代化に1兆ドルを支出することを提案している(注9)。この近代化計画は米国の核のトライアドを完全に更新することを見込み、新型の巡航ミサイル、原子力潜水艦、ICBM、爆撃機などが含まれる。これに応じてロシアの国防大臣は、ロシアは「5つの新たな戦略核ミサイル連隊を投入する」と先日発表した。これは、40以上の新たな大陸間弾道ミサイルをロシアの核戦力に加えることをプーチン大統領が明らかにした後の発表だった。(注10)

そしてこの7月に、米国はポーランドのミサイル防衛施設予定地で起工式を行い、ルーマニアのミサイル防衛施設を公式に稼働させたが、そのときプーチンはこう警告した。「今やこれらのミサイル防衛施設を配備されたのだから、ロシア連邦の安全のためには…、この脅威を無力化する方法を考えざるを得ない」(注11)(強調は評者が加えた)。

核の危険という主題に関してウィリアム・ペリーが身につけた運営経験と技術知識を、他に持っているという人を私は知らないし、聞いたこともない。彼のような英知と高潔さを持つ人は少ない。ならば、なぜ誰も彼の言うことに注意を傾けないのか? なぜ核のカタストロフィの恐怖は多くのアメリカ人の心から遠いところにあるのか? そしてなぜ米国政府高官のほぼ全員が彼とは意見を異にして核の否認の中に生きるのか? ペリー自身がその答を示しているようだ。

我々の最大の危機は、核による破滅への準備は既に整っているが、ほとんどは海面下や遥か遠方の不毛地帯に隠されていて、全地球的な公的意識の遥かに及ばないところにあるということだ。消極主義が広範に見られる。おそらくこれは敗北主義とその仲間、注意散漫という問題なのだ。おそらくある人々にとって、それは主として「思いも寄らぬこと」に直面したときの最も原始的な人間の恐怖だ。別の人々にとって、それは、核攻撃に対して容認できるミサイル防衛が存在する、あるいは存在するかもしれないという錯覚を歓迎しているのかもしれない。そして多くの人々にとって、それは、核抑止力は永久に続くという信条、指導者たちはいつも十分に正確な情報を即座に知り、事件の本当の背景を知り、悲劇的な軍事的誤算を避ける幸運を享受するという信条を、持ち続けることのように思われるだろう。
多くの人々はワシントンの明らかな機能不全を訴えるが、比較にならないほど大きい「核による破滅」の危険を見る人は少ない。それは隠されていて公的意識の外にあるからだ。解説や討論で満ち満ちた大統領選の年であるにもかかわらず、ペリーを悩ませる大きな問題を議論する人は誰もいない。しばしば公の議論を支配する硬直した服従のもう一つの例だ。ずっと前に私がこれを見たのはベトナム戦争の時、そして後のイラク侵攻でもそうだった。知性ある人々がしていたのは愚かな、そして壊滅的なことだった。ヨーロッパの指導者たちを第一次世界大戦に引き込んだ愚行と、ベルサイユで解き放った大混乱を指して、今の歴史学者が使う言葉が「夢中歩行」だ。そして夢中歩行は今も続いている。NATOとロシアは軽蔑の言葉を投げ合って軍隊を蓄え、モスクワとワシントンは核の過剰殺傷能力を近代化する。新しい冷戦だ。

さいわい、ウィリアム・ペリーは夢中歩行をしていない。彼は著書『私が辿った核の瀬戸際』で手遅れになる前に目を覚ませと私たちに語りかけている。彼の本を読むことから始めようではないか。


1 ウィリアム・J・ペリー、「国家安全保障、世界巡り」2016年ドレル講演会、国際安全保障および国際協力センター、スタンフォード大学、2016年2月10日。

2 「時期尚早なNATO拡大で、滑りやすい坂道の滑落が始まったと、私は確信し、東欧諸国の早期NATO加盟による否定的側面は私が恐れていたより悪いと、私はすぐに確信するようになった」(p.152)。

3 「世界を救った男」、死者の秘密、PBSテレビ、2012年10月23日。

4 スチュワート・アルソップ、チャールズ・バートレット、「危機の時代に」、サタデーイブニングポスト紙、1962年12月8日を参照。

5 エドモンド・G「ジェリー」・ブラウン・ジュニア、「核中毒:返答」、Thought誌、第59巻、232号(1984年3月)を参照。

6 「過去15年間、特に冷戦を背景として、我々米国カトリックの司教は核兵器がいくらかの道徳的正当性を持つという可能性を不本意ながら認めてきたが、それは核軍縮が目標である場合に限られる。我々が現在、祈りを込めて判断したのは、この正当性が今は無いということだ。」米国パックス・クリスティの司教たち、「核抑止力の倫理観:その評価」公開書簡、1998年6月。

7 書簡の全文と全署名者の一覧は以下で閲覧可能。www.bu.edu/globalbeat/nato/postpone062697.html

8 1998年にジョージ・ケナンがニューヨーク・タイムズにこう語った。「[NATO拡大は]新しい冷戦の始まりだと私は思う。ロシアはだんだんと全く敵対的な対応をするようになり、それがロシアの政策に影響すると思う。悲劇的な間違いだと私は思う。何であれこのことに理由など全く無かった。どの国も他国を脅かしてなどいなかった。この拡大はアメリカ建国の父を墓の中でひっくり返らせるだろう。我々には真剣に取り組む手腕も意図も無いとはいえ、我々は多くの国々を守るために署名した。」トーマス・L・フリードマン、「外交問題;今読むX氏からの言葉」ニューヨーク・タイムズ、1998年5月2日を参照。

9 ジョン・B・フォルフスタール、ジェフリー・ルイス、マーク・クイント、「1兆ドルの核のトライアド」、ジョン・マーチン核不拡散研究センター、モントレー、2014年1月。

10 マリア・キセリョワ、ポリナ・デヴィット、「ロシアが西翼に核連隊から新師団を展開」ロイター、2016年1月12日。

11 イリヤ・アルキポフ、マレク・ストルゼレスキ、「プーチン、NATOミサイルの盾はヨーロッパの平和に対する脅威と警告」ブルームバーグ、2016年5月13日。既存の米国法は「限定的弾道ミサイル攻撃」を避けるためミサイル防衛システムの配備を許容している(www.congress.gov/106/plaws/publ38/PLAW-106publ38.pdf参照)。「限定的」という言葉はロシアや中国を狙った大規模ミサイル防衛システムの配備を避けることを意図したもの。2017年度に提案される国防権限法案はテッド・クルーズ上院議員が導入した特に危険な条項を含み、既存の法律から「限定的」という言葉を削除し、これによってロシアと中国に向けた拡大ミサイル防衛システムの基礎を築くものだ(www.cruz.senate.gov/?p=press_release&id=2639を参照)。このような行為は既に不安定な世界秩序に極めて撹乱的な影響を与える。

初出:「ピースフィロソフィー」2016.11.11より許可を得て転載

http://peacephilosophy.blogspot.jp/2016/11/blog-post.html

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion6351:161112〕