5月18日に東京地裁で開かれた口頭弁論の傍聴記をご紹介します。
そのあとに行われた報告集会の様子については、以下のサイトをご覧ください。
https://sites.google.com/site/uemuraarchives/tokyoshuukai05
▼植村さん名誉棄損裁判・東京訴訟第5回口頭弁論(傍聴記)
植村隆さんが、西岡力氏と文芸春秋を名誉棄損で訴えている裁判の第五回口頭弁論が、2016年5月18日午後3時から、東京地裁103号法廷で開かれた。
傍聴券を得るために並んだのは約100人。前回2月17日の第四回期日では103号法廷の96席に傍聴希望者が満たず抽選はなしになったが、今回は再び抽選が復活した。
法廷内、傍聴席から見て左側に原告の植村さんや中山武敏弁護士ら14人が並ぶ。対面する被告側の席には喜田村洋一弁護士ら2人。相変わらず西岡氏の姿はない。
定時開廷。まず、右陪席が高橋祐子裁判官に交代したのに伴う更新手続きが行われた。これで原克也裁判長をはさみ、両側の右、左の陪席裁判官はいずれも女性となった。
審理は、陳述省略の擬制により、どんどん進んだ。
最初に、原告側の求釈明への被告側の釈明(回答)がなされた。喜田村弁護士の「陳述します」のひとことで、陳述したこととされる。続いて原告側が第三準備書面を提出し、これも全文を陳述したことに。ただ、これについては、要旨を後に原告側代理人が朗読した。
原告側の追加証拠の取り調べが行われ、調査嘱託による北星学園からの文書も証拠となる。これは、植村さんや北星学園大学に対して来た脅しや嫌がらせの手紙、メール等で、約3500枚にのぼるという。
ここで裁判長に促され、原告側の神原元・弁護士が立ち、この日に提出した第三準備書面の要旨を読み上げた。
読み上げられた第三準備書面による、いわば念のための原告側の主張は、次のような内容だ。
――被告の西岡氏らは、金学順さんが『女子挺身隊』の名で連行され(慰安婦にされ)たとの経歴を、本人は言っていないのに植村さんが記事に付加した、と問題にしている。しかし、1991年8月の北海道新聞記事には、「ハルモニ(金学順さん)が前触れもなく訪れた。(中略)『私は女子挺身隊だった』と切り出した言葉に、思わず息をのんだ」と書かれている。同年8月14日の最初の記者会見でも「挺身隊慰安婦として苦痛を受けた」と金さんが述べたと韓国紙『東亜日報』に書かれている。金さんは、名乗り出た時から女子挺身隊として連行されたと述べていたのは明らかだ。
次に被告の西岡氏らは、金学順氏がキーセンの検番に売られたなどの経歴を、植村さんが意図的に記事で欠落させた、として問題にしている。しかし、金さんは91年11月のソウルでの弁護士の聞き取りに「私は平壌にあったキーセンを養成する芸能学校に入り、将来は芸人になっていこうと決心したのでした」と述べている。妓生学校に通ったと証言しているのであり、金さんが身売りされたと原告が考えた可能性はない。他のいくつかの点でも、証拠を見れば、植村さんが意図的に重要な事実を欠落させたという事実はない。
また、被告の西岡氏らは、植村さんの義母が支援した金さんらの裁判に有利になることを予測する状況で、植村さんは当該記事を書いたと主張している。しかし、1991年8月に記事を書いた当時、金学順さんは裁判に訴え出る予定はなく、義母に会ったことすらなかった。金学順氏のことを植村さんに紹介したのは挺身隊問題対策協議会(挺対協)であり、義母が幹部だった太平洋戦争犠牲者遺族会(遺族会)とは別の団体である。
1991年12月の記事は、すでに各紙が金さんについての記事を書いた後であり、記事内容によっても、それが裁判を有利になるというものではない。そもそも、裁判所は訴状を読んで判決を書くのであり、朝日新聞を読んで判決を書くのではない。
被告の西岡氏らによる批判の根拠となる事実は、存在しないのである。裁判所は、原告の悲痛な訴えに耳を傾けてほしい――
裁判は今後、北星学園大学などに来た脅しの手紙などを踏まえ、原告側が、週刊文春の記事と「植村バッシング」の関係などを主張していくことになる。
次回の口頭弁論は、8月3日15時からと決まった。
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