革命歌作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ
――塚本邦雄『水葬物語』
〈戦後短歌〉ということばが適切かどうかはわからない。だが、正岡子規以来の〈近代短歌〉がみづからの立つ瀬の根柢に画然たる裂け目を打ち込み、自覚的にその表現型式の更新と韻律形態の開発を齎らしえたかどうかを問うとすれば、〈戦後短歌〉はその問いに対する応答を宿命として背負っていたことになるだろう。事実、その応答の姿勢と構造をめぐって歌壇の内外では、敗戦以後のいわゆる「政治と文学」論争に引き摺られるかのように一部には、「前衛短歌」なる呼び名をもって歌壇を囃し立てる場面も見受けられたが、その騒がしさは有態に言えば「前衛」なることばの濫用と誤用であるばかりか、ある種の狭隘な〈イデオロギー〉にも根強く支えられていたように思われる。俳句や短歌は“複雑な近代精神”を盛り込めぬという桑原武夫の「第二芸術」論(1946年)とそれによる陰湿な喧噪も例外ではありえない。
冒頭に引用した《液化するピアノ》は塚本邦雄の数多の作品のなかでももっとも著名な歌のひとつで、初出は1949年である――「革命歌」なるものの凡庸な「作詞家」に凭りかかられて、その欺瞞に満ちた甘ったるい歯の浮くような歌詞のせいで、漆黒のピアノが〈音律〉さえ奏でることなく、溶けて腐臭をはなちながら雫を垂らしている……。語割れや句跨がりを駆使し破調の韻律による五句三十一音の異-化効果をもって「革命」をめぐる時代の虚妄と愚劣な精神を抉りだした一首であるが、この破調の型式によって戦後精神の擬制を剥ぐという表現技法が象徴的に示しているように、現代短歌にとって定型律の限界閾とはなにかを模索し、それを生涯にわたって追窮しつづけた塚本邦雄(1920-2005)は、鋭敏な方法意識と絢爛たる美学をもって戦後歌界に屹立した〈歌の魔王〉と言うべき稀代の精神であったと言ってよいだろう。
とはいえ、仔細にみると、敗戦後、塚本が短歌を自己表現の武器として選択するにあたって何を捨て何処へ向おうとしていたのかは必ずしも明らかであるとは言えず、〈定説〉のごとき評価が定まっているわけでもない。むろん議論の訣れそのものは詩歌にとって健全な事態ではあるが、戦中戦後の塚本がどのような体験を強いられ、そこからいかにして自己表現の方法を発見していったのかを遡及的に辿りなおすことは、いまなお必要な作業であろう。
さて、ここ数年『文庫版塚本邦雄全歌集』(短歌研究社、全8巻、2017年~。既刊第1~5巻、第8巻)の刊行にともなって、若き塚本邦雄(および塚本の筆名たる「火原翔」)の未公表の歌稿・俳稿群、俳句雜誌に発表された〈寸評〉仕立ての評論、三編の〈エッセイ〉風の文章(この三篇は『短歌研究』2020年1月および2月号に掲載)が、島内景二の努力によって『文庫版全歌集』に収録・公表されている。それによって敗戦を挟む前後に塚本の〈精神〉が奈辺にあったかをさらに知りうるようになった。そして現在、江畑實による塚本の第一歌集『水葬物語』(1951年刊)の生成およびその後の展開をめぐる渾身の論攷も進行中である(『短歌往来』2019年11月号~)。後年の自身による反省的な回顧も含め、あらためて塚本邦雄の文芸におけるラディカリズムの根柢を虚心に問うべきときかもしれない。論点は当然ながら多様に拓かれうるが、ここでは塚本邦雄といわゆるモダニズムの周辺を探ることにしたい。
中井英夫が「モダニズム短歌特集」を組んだのは戦後も間もない1951年の『短歌研究』8月号においてであつた。そこに塚本の「弔旗」十首が他ならぬ短歌に賭ける決意表明とも言える詞書風の短文とともに掲載され、同年8月には第一歌集『水葬物語』が刊行されている。塚本は第一歌集の刊行と同時に「弔旗」によって“中央”の歌壇雜誌に登場したのである。このことは中井英夫の回想(『黒衣の短歌史』潮出版、1971年。塚本の「弔旗」10首と短文を収録)によっていまではよく知られている(因みに塚本は雑誌『文學界』1952年9月号に、三島由紀夫の推薦をうけて『水葬物語』から択んだ「環状路」10首を発表している)。
『水葬物語』を手にとって「『赤光』と『桐の花』の香り」を感受した中井は、公式にはモダニズムの語に格別の存念はなかったようだが、塚本は自己の立場を闡明にすべくつぎのように表明している――「モデルニスムといふ旗印」とは「海外のヴォーグに浮身をやつす」ことではなく、「戰ひと戰ひの谷間」としての「近代に生きること」だと規定し、そのための武器が、彼にはすでに色褪せたと思われたフランス革命の三原則に替わる「不信・抵抗・野望」という詩歌における革命の「トリコロール」であると宣言している。塚本の生年(1920年)と「モダニズム短歌特集」が組まれた時期(1951年)から推せば、この「谷間」は二つの世界戰争の間ということになる。
塚本がこの時点で「海外のヴォーグ」をどのように捉えていたかは、実際のところはわからない。だが、さしあたり、そこに間戦期における西歐の文学の動向を考えてみることは可能だろう。その動向のうちにたとえば、J.ジョイス、E.パウンド、T.S.エリオットらの英米系イマジズムや、P.エリュアール、L.アラゴン、A.ブルトンらのフランス・モデルニスムあるいはシュルレアリスムを想定し、一方この西欧モダニズムの動向に逸速く反応しその紹介と攝取を試みた西脇順三郎、春山行夫、北園克衛らを擁する『詩と詩論』(昭和3年9月創刊、途中から『文学』と改名して昭和8年6月終刊)のモダニズムを、プロレタリア系や詩的アナーキズムの試行などそれらの歴史的な位置づけには微妙な問題が残るとはいえ、大枠で見れば昭和詩を代表するひとつの典型と考えても、それほどの大過はないだろう。もちろん「海外のヴォーグ」とその受容とはそれぞれ丁寧に扱わなければならないが、結論から言えば、「海外のヴォーグ」への無批判的な寄る辺を「浮身」として斥ける塚本は、『詩と詩論』に典型的な日本のモダニズム(あるいは“純粹詩の理念”)が「谷間」としての「近代」をよく生きたかどうかを語ろうとしていたに違いない。
「モダニズム短歌特集」の巻頭に掲載された「弔旗」一聯十首は「弔旗」の語そのものがすでに示しているように、塚本の“経験”の「記憶」と構成的な批評の意思が充分に働いて、苛烈に失われた「靑春性」(萩原朔太郎)への深い鎮魂とそれを湛へた喪の詩学のクリスタルというべきもので、現在からみても実に新鮮だといわねばならない。一聯十首を初出のまま聯の秩序にしたがって引用する。
・殺戮の果てし野にとりのこされしオルガンがひとり奏でる雅歌を
・室内に忘れられし旋風たてば異國の裸婦の繪にうちなびき
・火藥(オリーヴ)庫に近き橄欖樹林には戀のときうばはれし小鳥ら
・湖の夜明け ピアノに水死者のゆびほぐれおち鳴らすレクイエム
・花とざす花苑を抜けて花ひらく獣園に不意の逢瀬を待つも
・絨毯にこぼれし酒もマヅルカのあひてもいくさ経て香り失せ
・かへりこぬ牡の鵞鳥をにくみゐし少女も母となり森は冬
・眼を洗ひいくたびか洗ひ視る葦のもの想ふこともなき莖太き
・黒き旗、旗、はためける荒地よりふかき睡りを欲りて巷へ
・赤い旗のひるがへる野に根をおろし下から上へ咲くジギタリス
第一首「殺戮」の果てに遺恨のように鳴る「オルガンの雅歌」が聯末の「赤い旗」の根柢にあってそれを支える猛毒の「ジギタリス」に収束されるという構制のもとに、欺瞞にみちた「近代」に「生きる」苦悩と暗い「谷間」の閉塞した構造とを鮮烈な喩と巧緻な修辞によって端的に描き切っている。この中井英夫編集の「モダニズム短歌特集」にはほかに谷野耿太郎、原田憲雄、船津碇次郎、小佐治 安、吉田穂高、關原英治、濱田到、谷繁嘉彰がそれぞれ力作を寄せているのだが、塚本の「弔旗」一聯はややロマネスク風のモダニズムの趣を覗かせながら、「近代」の冷静な認識と卓抜な表現において群を抜いていると言ってよい。
しかし、昭和前期つまり大正末期から太平洋戦争に至る「近代」の文芸思潮は、うえのような背景を持つと思しいエスプリ・ヌーヴォのモダニズムとともに、『コギト』(1932年3月号~1944年8月号まで全145号)に結集しつつ、やがてそのなかから〈近代の超剋〉を標榜する保田與重郎、亀井勝一郎らの日本浪曼派(雑誌『日本浪曼派』1935年3月創刊)の系譜を包み込んでいた。したがって「平俗低徊の文学」を排し「真理と誠実の侍女として存在するイロニー」(「『日本浪曼派』広告」1934年10月)を共通の詩宗とする彼ら日本浪曼派を無視することはできないだろう。私の考えでは、ボードレールの創発にかかるモデルニテ(modernité)の概念を援用すれば、それら両面が昭和前期における文芸思潮の「現代性」(モデルニテ)を構成していたからである。ただし、塚本の言う「近代」の概念が少なくともその基礎的な構図において、フォルマリスティックな〈近代派〉の美学と日本浪曼派の〈反・近代〉の論理との両項を正規に見据えていたかどうか――これは慎重に考えねばならぬ問題である。念のために言っておけば、私見では、昭和前期(大正末期から敗戦まで)の文芸思潮は端的にモダニズムの生成と展開と看做しうる。「白樺」派の理想主義の流れや人格主義の系譜、プロレタリア文芸運動、アナーキズム、文芸至上主義、〈皇道派〉や「日本主義」、遡っては「肇国」の思想などなど、それらはいずれも〈近代の現在性〉をいかに把握しそれにどのように応じうるかに関するかぎり、モダニズムのヴァリエーションとして捉えることができるからである。この視点に立てば、いわゆる「近代の超剋」派はモダニズムのひとつの極限形態と言えるだろう。それらの消息はしかし、後日に機会を得て尋ねることにしたい。
塚本邦雄と夭折した彼の盟友たる杉原一司(1926―1950)が戦後、大局的に見れば昭和歌壇のモダニズムの本流を領導したと言っていい「歌の鬼」・前川佐美雄『植物祭』(1930年、増補改訂版1947年)の新旧両版の異同を照合しそれに検討を加えたらしいこと、しかも塚本と杉原は前川佐美雄を通じて戦後の保田與重郎と多少の接点があったことも知られている。塚本は後に「日本浪漫((ママ))派の落武者」・「コギトの殘黨」などと口をきわめて軽侮する杉原一司が寄せた書簡の一部を引用し、そのなかで杉原が自分に「語の持つ属性を……切り捨てる」ことを言い募り、「ガートルード・スタインの純粋詩理論」を薦め、「花はあくまで花である」という「自明の理」を再考すべきだと説いていたことを書き留めている(『殘花遺珠』1997年)。
この杉原書簡は1948年暮の来信とされているが、ジョイスの『ユリシーズ』(『ユリシイズ』伊藤 整他訳、第一書房。『ユリシーズ』森田草平他訳、岩波文庫。ともに1935年刊)を読んでいた塚本はこの時点で、春山行夫が紹介していたスタインにも触れていたに違いない(『スタイン抄』春山行夫訳、椎の木社、1933年および「ガートルード・スタイン」『アメリカ文学』第2巻第9号、1949年)。ブルトンには厳しく接したスタインの詩学――〈薔薇は薔薇だ〉rose is a rose is a rose is a rose……を塚本がどのように評価していたかは、この杉原書簡の抜粋だけからはわからない。とはいえ、「近代」を「生きる」べき塚本の修辞学にとって、スタインの詩学がなんらかの契機を彼に与えた可能性はないとは言えない。花を「花」として認知する形態と条件、知覚における地と図、体系の包摂と排除、それらの根拠をめぐる問題構制などを、〈記号〉や〈象徴〉をふくむ言語一般の構造に即してどのように考えるかは本稿の課題ではない。ここでは、ガートルード・スタインの“奇妙な詩”を紹介しておきたい。人間の本性と心の相関性を主題にした『アメリカの地誌』(1936年)のなかの一節である。さて、単なる“ことば遊び”に過ぎないものかどうか――
Money is what words are / Words are what money is / Is money what words are /
Are words what money is.
ところで、うえの書簡とほぼ同じ頃に書かれた火原翔こと塚本邦雄の「國粹主義とコスモポリタニズム」(俳句雑誌『白堊』1949年10月号)という一文を島内が「解題」で紹介している(『文庫版全歌集』第一巻、短歌研究社、2018年)。ここにその全文を引用しておきたい――
ラフレシアの花でも、龍舌蘭の花でも、花が植物の生殖器であるといふ點では、稲の花、苔の花と何の違ひもない。現代日本になほ、東方遥拜の後、「丈夫(ますらを)ぶり」の和歌を賞味しあふ歌會の存在することも、或はルイ・アラゴンと通信し、英詩を発表する詩人のゐることも、決して驚くにはあたるまい。お歌所の螺鈿の机の上にポオル・モオランの「戀のヨーロッパ」。兩極端でなく背中合せだといふのです。
現代日本に東方遥拝をこととする「丈夫(ますらを)ぶり」の和歌を褒めあふ歌会がある一方で、フランスのアラゴンと通信し、あるいは「英詩」を発表する詩人がいると記した後、火原翔(塚本邦雄)は「お歌所の螺鈿の机の上にポオル・モオランの『戀のヨーロッパ』。両極端でなく背中合せだといふのです。」と断言している。ここで火原=塚本の想定する日本の詩人が誰であるかはっきりしたことはわからないが、おそらく春山行夫、北園克衛、山中散生らであろう。もっとも、塚本の言う〈アラゴン〉がシュルレアリストから当時のフランス共産党=「コミュニスト」へと〈転向〉する前かあるいはその後かは不明である。が、それはともかく私の考えでは、「國粹主義とコスモポリタニズム」はその基礎的な発想の枠組みにおいて実は同根の可能性があって、現代詩歌にとってそれら両項こそ克服の対象をなすはずだと言うのが、火原翔すなわち塚本邦雄が抱懐していた論点だと考えられる。それを彼は「生殖器」の根柢から派生する二項体の「背中合せ」と表現したに違いない。そしてその作業は島内がおなじく紹介している文言を遣えば、「同一の緑野に異質の花を」という論点の直耕を深めることであっただろう(「ロマンのメトード」『白堊』同年7月号)。
だが、「海外のヴォーグ」に過剰に身を寄せる「コスモポリタニズム」も、〈さびしき浪人の心〉(保田與重郎)に連なる「螺鈿の」花も、ともに日本の文芸における「近代」を構成する条件だったとすれば、この時点で塚本が構想していた「同一の緑野に異質の花を」という課題、言い換えれば〈システムに内在的な異-化〉へと向かう方法の探求は「背中合わせ」の構造を解明すること、つまりモダニズムそのものを語の厳密な意味で相対化し、言語芸術の画然たる地平を拓らくという途方もなく困難な次元に踏み込むことであった。同じ頃、杉原一司と始めた同人誌『メトード』(1949年8月~1950年2月)はまさにその方法を拓らく果敢なる試行であったに違いない。そして『メトード』創刊号から第3号(8月~10月)に発表された斎藤史の第一歌集『魚歌』(1940年)に関する塚本の詩論は、抒情に対峙する自己対象化の試みのひとつであったと言える。斎藤史は父・斎藤瀏が二・二六事件に連座したその衝撃から出発した歌人であるが、塚本の論点はもとより〈斎藤史とモダニズム〉に係わっていた。
「完全なポエジイは、何ものをも象徴し得ざる象徴を作る方法」(“OBSCURO”、『三田文学』1929年5月)であると言う西脇順三郎が自身の立場をシュルレアリスムではなくて、シュルナチュラリスムと自己規定した顰に倣えば、若き塚本邦雄はいわばシュルモデルニスム(surmodernisme)ともいうべき方向を模索していた――これが当面の私の仮説である。この方向はおそらく、〈近代主義〉のリニアーな純粋培養でも、〈反・近代〉の宣揚と醇化でも、〈伝統〉なるものへの安易な追従とその再生でもありえない。遠く古典和歌に淵源しその歴史的に濃密な〈記憶〉を否応なく負わされている言語芸術たる現代短歌は韻文定型詩の型を限界閾として維持しようとする限り、それらいずれにも一義的には収まらぬ言語の詩型を模索してきたというべきだからである。そこに、〈戦後短歌〉の尽くしえぬ苦悩と清冽な垂直の逡巡もあったのである。
(2021年4月9日)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1164:210409〕