【模倣と経験――戦後精神史序説(3)】  喩の技法と型の論理 ――塚本邦雄・大岡信《方法論争―1956年》をめぐって(Ⅰ)――

著者: 大田一廣 おおたかずひろ : 阪南大学名誉教授
タグ:

歌人・塚本邦雄(1920-2005)と詩人・大岡信(1931-2017)との間で1956年3月から7月にかけて行われた短歌、ひいては詩歌としての〈現代-詩〉にかんする《方法論争》(『短歌研究』1956年3月号~7月号)は、私の観点にしたがって整理すれば、ほぼ次のような論点をめぐって行われたものと言うことができる。

「調べ」と「魂のレアリスム」(塚本邦雄)
サンボリスムと喩の詩法
韻律と「語割れ・句跨がり」(塚本邦雄)
憑依と「フェティシズム」(大岡信)
「円環的世界」(大岡信)の呪縛と克服の条件

韻文定型詩としての短歌に“内在する”とされる「調べ」の問題から短歌型式そのものが抱える「円環的世界」の“閉塞”にいたる短歌にかんするこれらの論点はすべて、詩歌としての短歌の条件に亙っているとともに、ほぼそのまま敗戦後における思想と文学をめぐる〈戦後意識〉の思考がどのようなものであったか――その問題構制に及んでいる。
この《方法論争》は形式上の特質を言えば、「感受性」の現代詩人として出発しつつあった若い大岡信が短歌にかんする疑問・懸念・期待などを率直に提起し、その大岡の真摯な発言と鋭い論点に対して、短歌を「滅びの言語」と規定しそれを再生させうる表現とその条件をやや悲壮なといっていい“覚悟”のうちに拓きつつあった塚本邦雄が応答するというプロセスを辿った論争である。そこで焦点となっていたのは短歌の原理や条件をめぐる問題、いわば短詩型文学としての短歌固有の可能性と限界をどのように考えるかということにあった。もとより短歌表現の可能性をめぐる論点をいかに形成するかは当時の〈戦後意識〉と無縁ではありえなかったはずであるから、この論争が一部には“前衛短歌論争”とも言われたように〈短詩型文学の方法〉にかんする先鋭な対立を含んでいた。言い換えれば、「調べ」を根柢におくと見做されてきた『万葉』以来の詩歌の歴史的な伝統と対峙しそれをどのように批判的に引き受けるかが、敗戦以後の短歌における〈戦後意識〉にとっての課題だったのである。そしてこの短歌における戦後意識あるいは戦後観念は公平に見て〈日本語とはなにか〉という根源的な問いを背負っていたはずである。
そのことをマラルメの先蹤に倣って言えば、「滅びの言語」(塚本邦雄)とみなされた短詩型文学は「音楽」として立ち上るべき「不在の花」をみずからの言語によっていかにして〈開花〉させることができるかーーそれが大岡信の問題提起に応ずる塚本邦雄の課題であった。

〔一〕
まず、《方法論争》当時、論争の当事者の文体がどのようなものであったか――塚本邦雄の短歌二首と大岡信の詩篇「春のために」を読むことからはじめたい。

ジョゼフィヌ・バケル唄へり掌の火傷に泡を吹くオキシフル
血紅の魚卵に盬きらめける眞夜にしてむねに消ゆる
――塚本邦雄「装飾樂句」(『短歌研究』1954年2月号)

砂浜にまどろむ春を掘りおこし
おまえはそれで髪を飾る おまえは笑う
波紋のように空に散る笑いの泡立ち
海は静かに草色の陽を温めている
――大岡信「春のために」(はじめの四行、『記憶と現在』1956年7月)

******

私が言う、一輪の花!と。すると、声が消えればその輪郭も消える忘却の外で、
具体的な花々とは違う何かが、音楽として立ち昇る。観念そのものにして甘美な、
あらゆる花束には不在の花が。
――マラルメ(渡辺守章訳)

ここに掲げた塚本邦雄の短歌「ジョゼフィヌ・バケル」と「血紅の魚卵」の二首、大岡信の詩篇「春のために」(はじめの四行)はいずれも1956年前後の作品である。上に挙げた初出「装飾樂句」三十首を収めた塚本の歌集『装飾樂句』【カデンツア】(1956年3月)は韻律の限界閾に及ぶ斬新な表現と華麗な修辞によって《歌壇》的な地位を得たとされる歌集であり、一方大岡の『記憶と現在』は若い世代による清新な〈感受性〉のサンボリックな言語を拓きつつあった。当時も現在においても、塚本と大岡のそれぞれの〈時分の花〉を顕らかにする代表作と目されているものだ。[なお、マラルメの「不在の花」は『ディヴァガシオン』の「詩の危機」]。
一見して明らかなのは、“韻文定型詩”としての短歌と“散文自由詩”を標榜する現代詩、この両者の表現型式の違いだろう。対象の選択と使用語彙、詩型の長短はいざしらず、短歌型式と現代詩型とは〈詩〉の表現においておよそ水と油であるかのようにたがいに異質でほとんど没交渉かと想わせる趣だ。もとより詩人の〈原質〉や〈成熟〉、〈言語感覚〉や〈感受性〉、さらには〈生きられた経験〉に内在するそれぞれの“個性差”とは別に、ここに遣われている表現のことばは当然のことながらいずれも両者に共通の〈日本の言語〉である。塚本の「ジョゼフィヌ・バケル」も大岡の「砂浜にまどろむ春」も、日常のことばをひとつの意匠のもとに組み合わせたものにすぎないように見える。
だが、塚本と大岡のそれぞれに固有の世界を際立たせる詩の凜質をいまは括弧に容れて言えば、それらの表現は日常のことばに付着する惰性的な意味の属性を問い、あわせて非在の領野を拓く表現の次元はどのような構造をなすものであるかが志向されていると、私には思われる。いま、生活世界で厳に使用され流通している汎通的な日常のことばの〈組み合わせ〉とそれによって生まれうる詩のことばの働き、つまりそのような〈組み替え〉が産み出す効果――いわば醇化/異化と統合/排除の総体を〈ゲシュタルト効果〉(Gestalt-effect)と呼ぶとすれば、塚本と大岡の《方法論争》は短歌をふくむ〈現代-詩〉が自己の表現的世界に向けて〈ゲシュタルト効果〉をどのように産みだしうるかをめぐって展開されたものだと言い換えることができるだろう。マラルメの言うように「観念そのものにして甘美な、あらゆる花束には不在の花」を発見しそれを開花させるということは、言語にとってどのようなゲシュタルト的事態であるのか――そして、それはいかにして可能か……ということになる。
論点の所在を見やすくするために《論争》の順序に従って大岡信と塚本邦雄の典型的な発言・文章を引用する。【引用指示の数字は後段を参照】

大岡信 想像力と「新しい調べ」――「感動」と時間の意識

感動は……純粋に肯定的な力だ。そして現代社会において、強い感動を支える肯定的
な信念をもつことは、甚だ難しい。
――大岡信『現代詩試論』(1955年6月)

……短歌における想像力の回復はメタフォアやイメージその他もろもろの技術的な問題の処理にかかっているのではなく、実は新しい調べの発見にかかっているのではないかとぼくには思われる。調べはつまり短歌の実体なのだ。それはいわば短歌の骨格であり、同時に姿勢である。[……]
詩としての短歌の独自性はどこにあるか。ぼくにはその秘密が調べによって肉化された対象のヴィジョンの、瞬間的にして総体的な実現の中にあると思われる。歌人はこの時……時間を超えた意識の純粋な持続を表現したのである。……歌の中に時間はなく、それを読む読者の中にのみ時間の意識が生ずるのだ。……歌は残り、読者は過ぎ去る。……読者の中に生じる時間の意識こそ、想像力を刺激し、それに運動を起こさせるものであり、この時間の意識を生み出すのに果たしている調べの役割は想像以上に大きい。(大岡①)

塚本邦雄 オリーヴ油の河にマカロニを流すやうな――〈調べ〉のゆくえ

短歌に於ける韻律の魔は単に七・五の音数だけでなく、上句、下句二句に区切ることによって決定的になる。極端な字余りや意識した初句及び第五句の一音不足も、又七・五に代って八・六調にしても、この区切りで曖昧なレリーフを生みつつ連綿と前句を伝承して行く限り、オリーヴ油の河にマカロニを流しているような韻律から脱出することはできない。……結果的には語割れ、句跨りの濫用になっても些かも構うことはない。イメージを各句で区切って七五のリズムで流していると、そこにはいつまでたっても情緒だけの、リリシズムの滓がつきまとい造形的な空間へのひろがりを喪い易いのだ。韻律を逆用して、句切りは必ず意味とイメージの切目によることとし、一つの休止の前後が或時は眼に見えぬ線で裏面から繋がれ、又一つの区切りは深い空間的な断絶を生むというような方法は多々可能である。そしてそれこそ、三十一音を最後の限界とする短詩の「新しい調べ」ではないか。(塚本②)

「感動」を「肯定的な力」とみなす大岡の『現代詩試論』を今は措くとして、「短歌に於ける韻律の魔」を「オリーヴ油の河にマカロニを流しているような韻律」と規定する塚本の発言は、「調べ」を「短歌の実体」とみなす大岡の論攷「前衛短歌の方法を繞って ◆想像力と韻律と」(大岡①)に対して応答した「ガリヴァーへの献辞 魂のレアリスムを」(塚本②)のなかの一節である。大岡が主張する「調べ」の短歌に対して、〈調べなるもの〉を“歌”の根柢に潜む〈七五の魔〉の抒情と規定する言説(後述のように小野十三郎の主張)を逆用しそれを飼い馴らし統治する「新しい調べ」をいかにして創出できるかは、「魂のレアリスム」を標榜する塚本にとって至上の課題であったに違いない。〈七五の魔〉の“克服”と「新しい調べ」の“解放”が果たして可能かどうかは、短歌表現が〈日本語〉を遣い《古典和歌》以来の歴史的記憶を負っている以上、短歌が〈戦後短歌〉として蘇生しうる可能性の中心であったといってよい。
塚本―大岡論争が行われた戦後も間もない1956(昭和31)年は結論から先に言えば、塚本邦雄にとっては、当時としては破格の「語割れ、句跨り」という表現技法や「意味とイメージの切れ目」を〈韻律〉の区切りとする〈新しい調べ〉の提唱によって、五句三十一音の限界閾に緊張と動揺を与え「オリーヴ油の河にマカロニを流しているような韻律」の凡庸な微睡みから短歌をいかにして覚醒させるか――韻文定型詩の表現における可能性を問うという挑戦に充ちた〈方法〉の年であつたと思われる。
塚本はすでに〈短歌の方法〉への問いを敗戦後に逸早く夭折の盟友・杉原一司とともに同人紙Méthode(1950年2月~3月)に拠って始めていたが(『メトード』については玲はるな氏の個人誌『ブルー・トレイン』第4号2014年に書いたことがある)、この56年の『短歌研究』誌上で繰りひろげられた大岡信との《方法論争》あるいは「前衛短歌」論争は、塚本にとっては短詩型文学の〈現代性〉(ボードレール)に対していかに向きあうかという短歌の存立条件を改めて問う機会になったに違いない。(念のために言えば、「前衛論争」なる言い方は直接には《論争》を組織した杉山正樹編集長のアイディアによるものであって、この前後から戦後短歌の方向をめぐる革新の機運と姿勢を表徴することばとして流通するようになるのだが、さらにやや“党派的な”「前衛短歌」という語に至ってはそれを塚本が方法概念として自覚的に使用したかどうかはなお検討を要すると思われる。)
ところで、戦後の短歌史上に著名なこの《方法論争》が行われた1956年は、戦後政治と社会状況においても、わが国の敗戦後史とその後を大きく規定するひとつの結節点とも言うべき〈出来事〉が生起した激動の時代であった。この年の2月に行われたフルシチョフによる「スターリン批判」に続いて10月に“霹靂”の如くに起こった〈ハンガリー革命〉はそれを象徴する〈世界史的亊件〉であったと言える。当事者たちによる政治的立場の撰択や党派への帰属がどうであれ、戦後世界の政治秩序と〈世界の構制(constitution)〉をめぐるこの衝撃的な〈世界史的事件〉のさなかに塚本―大岡論争が繰り拡げられたという歴史的亊実はこの論争に看過できぬ振幅を与えていた。
すでに触れたことだが、当時の社会情勢や政治の動向をここで改めて確認しておこう。この〈スターリン・ショック〉をめぐる当時の国際的な政治秩序や支配的な政治イデオロギーの動向とそれに対する詩歌界の反応について、「鳥熱地」なる匿名の“歌壇批評”が、つぎのような斯界の“鬱屈した”亊情を伝えている。それぞれ三回にわたって応酬された塚本―大岡の《56年方法論争》が形式上の終熄をみた後、同年の『短歌研究』9月号で新設された匿名批評「方舟」欄には、〈戦後政治〉への応接をめぐって“右往左往”を繰り返す詩歌界の姿勢を辛辣に批判した「鳥熱地」による「〈日本人霊歌〉流産記」が掲載されている。それはつぎのような言説であった――。
“現代短歌”の実態とその可能性をいかに評価するかをめぐって、政治過程の「極左冒険的傾向」を想定しこれを“他山の石”とする逆説的な対立軸を設定して、「ナショナリズムの器」であつた短歌(及び歌壇)に部分的にせよ深く浸潤するスターリニズムの“功罪”を指摘し、政治の虚妄と短歌の「堕落」の双方に対する“両面批判”をつうじて、「〈日本人靈歌〉が昇華結晶した唯一の定型詩としての短歌」の「ルネサンス」を、政治と文学を席捲するスターリニズムの「暗黒」支配のなかで夢想する「鳥熱地」子のアイロニカルな批評――このような辛辣極まる匿名の批評から推測すれば、当時の〈政治と文学〉論争や戦後転向論などとともに、現代短歌が良かれ悪しかれ戦後の政治文化の動向と無縁でなかつたことが判るだろう(「鳥熱地」はおそらく“トリアッティ”と音写できるが、この匿名批評は実は塚本―大岡論争と密やかな因縁をもつと判断される。(前稿②および拙稿「〈日本人霊歌〉異聞」雑誌『玲瓏』第99号、2019年2月を参照)。
敗戦後の混沌と虚脱、それゆえの未定型の焦燥と過剰な髙揚が交錯する社会的・文化的雰囲気の裡で、言語表現における〈詩〉の革命はいかにして可能か――その存立の歴史的制約と現在的条件を〈方法〉の問題として改めて問うことは、〈詩〉をめぐる言葉の弛緩、発想の枯渇、さらには歌壇政治の“頽廃”、言い換えれば文学における戦後啓蒙の〈精神〉の頽嬰と集団の擬制を内在的に超剋することが可能かどうかという問題に連なっていたと、私には思われる。現代短歌はかりそめにもみずからを短歌として標榜するかぎり、定型音数律を最低限の要件とする形態(Gestalt)そのものにおいてすでに記紀万葉以來の歴史的な伝統を必然的に負う言語形象であつたからである。とはいえ、短歌の根柢とその可能的な条件を問うこと――すなわち詩歌の〈存在理由〉に肉薄しその根柢に潜む〈詩魂〉というべきものを、短歌型式そのものと言語表現の限界閾をその形態構造の〈開発〉を通じて自覚的に顕在化させることはもとより簡單な作業ではない。
さて、《56年方法論争》はどのような形式上のプロセスを辿った論争であったのか――その文献的な事実を当事者による論争の順序に即して纏めておこう。

〔Ⅰ〕『短歌研究』1956年3月号【同時掲載】
大岡信「前衛短歌の方法を繞って ◆創造力と韻律と」【大岡①】
塚本邦雄「ガリヴァーへの献辞 魂のレアリスムを」【塚本②】
〔Ⅱ〕『短歌研究』1956年4月号
大岡信「短歌の存在証明は可能か――塚本邦雄氏に応う」【大岡③】
〔Ⅲ〕『短歌研究』1956年5月号
塚本邦雄「遺言について――新しい調べとは」【塚本④】
〔Ⅳ〕『短歌研究』1956年6月号
大岡信「圓環的世界からの脱出――塚本邦雄氏に」【大岡⑤】
〔Ⅴ〕『短歌研究』1956年7月号
塚本邦雄「ただこれだけの唄――方法論争展開のために――」【塚本⑥】

塚本―大岡論争は、『短歌研究』の編集長杉山正樹が設定した「前衛短歌の“方法”を繞って」という特集のもとに、大岡による「難解派」短歌の批判とそれに対する塚本の応答が同誌1956年3月号に同時に掲載されて以降――ということは、塚本は大岡の論攷を読んだうえでそれにたいする反論を寄せたわけである――、現代短歌の方法をめぐってそれぞれ二回づつ遣り取りされたものであるが、都合三篇づつの論攷のタイトルには編集部の手が入っている可能性もある。ここでは初出誌本文の当該論文に付されたタイトルをそのまま表記してある。
大岡は塚本との三回にわたる論争の論攷を後の『抒情の批判 日本的美意識の構造批判』(1962年)に収めるにあたって、それらを「新しい短歌の問題Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ」と改題しているが、内容上の変更はない。一方、塚本は『定型幻視論』(1972年)に収めた論攷ではタイトルは初出のままであるが、大岡の文章から係争たるべき“要点”を抜書きしこれを本論への“導入”の論点として併記するという体裁をとっている。この塚本の処置は論争の経緯と論点を明示するための“便宜上の工夫”と推測されるが、このような論争過程の応答文における〈引用〉Zitierungは当然のことに塚本の選択的な判断とある種の“誘導意識”をともなっていて、この処置はのちに大岡のやや軽い批判を招くことになる。
大岡の『抒情の批判』は副題の通り「日本的美意識」の所在をめぐる保田與重郎論であるが、大岡が保田與重郎の「美意識」を主題にした『抒情の批判』に塚本との《方法論争》を組み入れて一書として構成したのはおそらく、「調べ」を「短歌の実体」とする彼自身による規定と保田與重郎が体現するとみられた「日本的美意識」との類縁性、すなわち〈調べの美意識〉を意識してのことと思われる。保田の主導によって創刊された『コギト』に旧制沼津中学時代にすでに触れていた大岡が、戦後いちはやく〈保田與重郎問題〉との本格的な対質を試みたことは特記に値する。塚本の方は前川佐美雄を通じて保田と多少の接点を持ったようだが、保田の「日本浪曼派」についてはエピソード的なものを除いて公式にはほとんど語っていない。塚本が保田與重郎の〈文芸〉に対してどのような姿勢をとっていたか――これは大岡の保田輿重郎論とともに慎重に検討すべき課題である。)
なお、この論争が一応の終熄をみたあと、『短歌研究』1956年10月号で座談会「なぜ短詩型を選んだか 《方法論争》の総決算」が組まれている。論争の当事者たる大岡信のほかに谷川俊太郎・高柳重信・安騎野志郎【前登志夫】・岡井隆が出席しているが、もう一方の論争当事者たる塚本邦雄は、大岡との論争過程で自己規定した「病気の外交官」という名分で欠席している。のちに見るようにこの時期の塚本はやや長期にわたる結核の治療と療養を経て漸く職場に復帰したばかりであった。したがって大岡との方法論争は塚本にとっては、短歌における「魂のルネサンス」への試行と自身の〈身体のルネサンス〉への意志とが重なっていたのである。このことは充分に留意すべきだろう。
すでに多少触れたように、この《56年方法論争》を前後して塚本邦雄も大岡信もそれぞれ自らの記念碑となるべき重要な作品を発表している。塚本は『水葬物語』(メトード社、1951年7月)に次いで問題作たる第二歌集『』(作品社、1956年3月)を、大岡信ははじめての詩集『記憶と現在』(1956年7月)を刊行している。いずれもこの「方法論争」のさなかに刊行されているわけである。塚本は『装飾樂句』を、「交響詩」たる現代詩にも相渉りうる方法の試行という意味を有たせていたし、大岡の方は塚本との論争がはじまる前に『ユリイカ』の伊達得夫の慫慂によって初の詩論集『現代詩試論』(ユリイカ新書、1955年6月)を出版し、シュルレアリスムを論じながら「感動」を「純粋に肯定的な力」と見立てる詩論を展開していた。そういう大岡とともに塚本自身も、現代詩が当面した課題意識に関して鋭敏に反応する姿勢にあったと言ってよい。その課題とは、〈死と生〉をめぐる歴史的制約と言語表現の可能性の条件にほかならない。
ここで、塚本―大岡論争がどのような〈歌壇〉の状況と〈文壇〉的な思潮のもとで行われたのか、その文脈を知るために敗戦後期の〈歌壇ジャーナリズム〉を賑わせた短歌をめぐるいわゆる第二芸術論と〈七語の魔〉について触れておく必要がある。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1204:220202〕