【第48話】6年間の脱被ばく子ども裁判の審理終結にあたって――「一寸先は闇(光?)」の連続、その都度が己の正体が裁かれる試練の時――(2020.9.10)

著者: 柳原敏夫 やなぎはらとしお : 弁護士
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                目 次

1、はじめに


2、提訴まで 

3、被告と裁判所の不退転の決意

4、「黙殺」作戦との戦い――経過観察問題――


5、想定外の証人採用をめぐるバトル

6、最初(最終)準備書面をめぐる攻防


1:はじめに

脱被ばく子ども裁判は提訴以来6年目の2020年7月28日、審理を終結し、あとは判決という裁きを待つばかりとなった。
しかし、普段の裁判では稀有なことだが、この裁判では実は「裁き」は既に何度も下っていた。なぜなら、この裁判では想定外の局地戦が何度も行われ、その都度、当事者双方がその正体を裁かれ、暴かれるという試練に遭っていたからである。
同時にこの試練は、その都度私たち一人一人に、暴かれた被告(国・福島県ら)の正体を鏡にして、福島原発事故で私たち自身が経験せざるを得なかった空前絶後の出来事がいったい何であったのか、その意味を再吟味し再発見するという貴重なふり返りの機会を突きつけた。
そして、この見えない「裁き」の試練をくぐり抜けた者は、そこで再発見した自分や被告(国・福島県ら)の姿を糧に、今ここから生き直すという決意をひそかに、新たにしたのである。だからこそ、6年もの長きにわたってこの裁判と取り組むこともできたのだ。
以下は、その振り返りのひとつの試み=個人史である。

2:提訴まで
2013年4月、その約2年前に提訴した集団疎開裁判の二審で、仙台高裁は、事実認定は原告主張を全て認め、しかし避難という法律問題(結論)は却下という「狐につままれた、勝訴まであと一歩の判断」を下した。
この時私たちに残された課題はこの馬鹿げた理不尽をただすことだった。勝利の登頂まであと一歩、「ここがロードス島だ、ここで跳べ!」と、直ちに第二次訴訟の原告探しに着手した、集団疎開裁判が2011年5月、郡山市の「子ども福島」の集会ですぐさま原告団が見つかったように。
しかし、ここで想定外の事態が起きた。

それは、2011年と違い、2年後の福島県では「同調圧力」という見えない厚い壁に阻まれ何度チャレンジしても待望の原告が現れず、とうとう裁判断念まで覚悟した。
しかし、どん底に沈んだ2013年暮れ、「決心がつきました」と1通のお母さんからのメールが届き、「同調圧力」の壁に一つの穴がこじ開けられた。
これでめでたく提訴問題は解決と思ったところ、だが、そこからさらに提訴までの道のりは険しく、原告辞退と再募集、訴えの中身をめぐる深刻な意見対立というジグザグの中で、ようやく2014年8月、提訴に辿り着いた。
勝利のゴールまであと一歩の裁判を起こすために、こんなに大変な目に遭うとは思ってもみなかった。ところがいざ裁判がスタートしたら、そこでも想定外の事態が起きた。

3:被告と裁判所の不退転の決意

それは、原告被告双方の代理人全員が初めて勢ぞろいした2015年2月の進行協議の場だった。この協議に参加した弁護団長の井戸さんは終了後に思わずこう呟いた。

「ふんどしを締めてかからなければ」

この日、会場の大会議室は、あと1名の追加すら不可能なほど被告国らの代理人が50~60人、ぎゅうぎゅう詰めで参加(そのときの席の配置図は→こちらを参照)。

集団疎開裁判では、被告郡山市は「不知」を連発するだけの無気力・無関心・無責任の三無主義だったのに、この時、被告国らは「この裁判は絶対負けれない」という不退転の決意を、まず代理人の数という物量戦で示してみせた。しかも、想定外の事態は量だけの問題では済まず、さらに質の問題でも示された。

 

つまり被告らの不退転の決意は直ちに審理の内容で示された。

それが2016年2月の第3回の期日で、裁判所が、被告らの不退転の決意を受け入れ、原告の意見を聞くこともせずにいきなり、福島市ほか全部で7つの基礎自治体を被告とする子ども裁判[1]を「訴えの中身の特定が不十分だ」という理由で一方的に審理打ち切り、門前払いの判決をしようとしたからだった。

裁判所によるこの想定外の強引な不意打ちに弁護団は必死に抵抗、首の皮一枚で、この日の子ども裁判の審理終結を阻止。

「勝利まであと一歩の疎開裁判の判決」からスタートするはずだったのが、あにはからんや「審理のためのリングにあがることすらできないまま、門前払いで蹴散らされる」結果に転落し玉砕する寸前となった。

この時、弁明のワンチャンスをもらった原告弁護団は、真っ青になって、ありとあらゆる判例、文献を調べ上げ、なぜ子ども裁判の訴えの中身が法律的に「特定」として十分であるかをまとめ、さらに「特定」に必要な地図を精緻化、再提出した。また門前払い反対の原告・支援者の声を裁判所に届けた。

これらの抵抗を前に裁判所は、2016年8月、ついに門前払いの断念を正式に表明。

早々と第1回目の期日で裁判所が「門前払いはしない、実体審理に入る」と宣言した集団疎開裁判に比べ、今度の裁判は審理のためのリングにあがるまでに提訴から実に2年を要した。

しかし、想定外の事態は門前払いの問題だけではなかった。リングにあがって審理する段階でも発生したのである。

 

[1]現在、福島県内の小中学校に通う子どもが原告になり、小中学校の設置者である基礎自治体(市町村)に対し、憲法で、子どもたちに被ばくの心配のない安全な環境で教育を受ける権利が保障されていることの確認を求める裁判。

4:「黙殺」作戦との戦い――経過観察問題――

思うに、本格的な論戦(争点整理)における被告側の基本戦略は、一方で論戦を本筋から枝葉末節の脇筋の問題に矮小化すること、他方で原告から提起された本筋の主張をことごとく「黙殺」するという作戦だった。

その典型が、2017年5月、環境基本法をめぐる法の穴(盲点)を指摘した原告準備書面(32)
この主張は原発事故裁判史上画期的な主張だった。しかしこれに対し被告側は、何食わぬ顔で認否すらせず徹底的にスルーし、無視したことすら裁判所に気がつかれまいと丁重慇懃無礼に振舞った。その上、マスコミの強力な応援もあって、画期的な主張も世の話題に上らなかった。そのため、世論をバックに法廷で争点化することは極度に困難となった。その結果、せっかく弁護団が提出した画期的な主張も争点化されず原告の一人相撲に陥る危険が生じた[1]

しかし、被告側の「黙殺」作戦は思いがけないところからほころびが出、想定外の展開となった。

その1つが、経過観察問題をめぐる被告福島県(以下、県と略称)の対応である。県の甲状腺検査の二次検査で経過観察とされた

当時2500人以上の子どものうちその後小児甲状腺がんが発症した症例数を発表しなかった問題で、前記症例数を発表すべきであるという原告の追及に対し、この時、県は「黙殺」ではなく、「県は症例数を把握していない」「たとえ県立医大の患者であっても調査し、明らかにする余地はない」と、「全面的開き直り」に出たからである。

このふてぶてしい答弁は、直ちに原告の「全面的反論」をもたらした。それが2017年8月、たとえ事実は「把握していない」だとしても、規範としてそれで通用すると思っているのかすなわち「把握する義務があると思わないのか」という追求だった。

この問いを予想していなかった県は不意打ちを食らい、当日の進行協議の場での原告の上記問いに「把握する義務はないと考えている」と「全面的開き直り」を首尾一貫させる答弁をしたものの、その直後の公開の口頭弁論で、原告からの再質問に対し、「把握する義務とは何を根拠とするのか明らかにしてほしい。その上で回答する」と先の「全面的開き直り」の答弁を撤回した。

そこで、原告から、県に症例数を把握する義務を裏付ける法的な根拠を明らかにした書面を提出し、県に応答せよと迫った。すると、県は、「県に把握する義務はない」、把握する義務を裏付ける法的な根拠に対しても原告主張を「全面的に争う」と堂々と宣言。だが、その舌も乾かないうちに、ただし、「県にこの義務がないことを裏付ける根拠を示す必要はない」と、さっと「黙殺」という固い殻の中に閉じこもった。

これに対し、原告から、2018年4月、「県に症例数を開示する説明責任がある」という法的根拠に関する書面を提出し県に回答を迫った。

すると、県は、従前の答弁をくり返し、最後に「今回の原告の主張は、原告の意見を述べるだけのものだから、説明責任があるか否かについて認否する必要がなく、応答しない」と「原告が根拠を示したら県も回答する」という当初の約束をちゃぶ台返しにして、法的根拠である説明責任について答弁しないことに態度を変更した。但し、さすがに良心の呵責を覚えたのか、上記のとおり、答弁しない理由を一言答弁するつまり「黙殺」する理由の表明というイタチの最後っ屁をやってしまった。

そこで、最後っ屁で逃げを打つイタチの尻尾を捕まえた原告が、公開の法廷で「『県民の命、健康を守ることを重要な使命とする県は、甲状腺検査において、小児甲状腺がんとなった子どもの数を県民に説明する責任がある』 と考えるのかどうか明らかにせよ」と迫ると、県はこれに頑として答えようとせず、「文句があるなら、別に、裁判でも何でもやってくれ」と究極の開き直りに出た。

他方、原告から別方面から追及として、鈴木眞一県立医大教授と山下俊一氏率いる長崎大が提携して進める小児甲状腺がんの研究プロジェクト[2]が作成したデータベース上で前記症例数を把握しているから、県も当然、症例数を把握している筈だという質問に対し、県は「黙殺」せず、
「県と鈴木眞一教授らの研究グループとは別の組織、別の主体であり、県はこの研究グループとは何の関わりもない。それゆえ、この研究グループがどんな社会的使命を持ち、どんな目的で、どんな研究をしているか、県は知るよしもない。だから、この研究グループが症例数を把握していたとしても、県はこれを知るよしもない」
と「全面的開き直り」の答弁に出た。

ここに至り、県との質疑応答も行き着く所まで行った感があり、症例数を解明する新たな打開策が必要とされた。

行き詰まりの事態を受け、2018年10月、原告は一かばちで、裁判所に対し、裁判所から症例数を把握している県立医大と鈴木眞一チームに対して症例数を回答するように求める手続き(調査嘱託)の申し立てた。ところがここで想定外の事態が生じた。

裁判所からこの申立について意見を求められた県は異議を唱えず、「しかるべき」、つまり裁判所の判断に従うと回答してきたからである。その異変にビックリしたのが被告国。国は、反対意見を速やかに出したいと抵抗したが、時既に遅しで裁判所はこの申立てを採用。

鈴木眞一チームが作成したデータベース上で前記症例数を把握している事実について同チーム及び彼らから研究報告を受けている医大がどう回答するか注視する中、同年12月、両者の回答はいずれも「症例数は把握していない」という内容だった。

運命共同体である3者間にほころびが生じてはならないというミッションを堅持する堂々たる「全面的開き直り」作戦だった。この作戦は成功したかに見えた。しかし、その半年後に想定外の事態を起きた時、この経過観察問題がそれを引き起こす地雷源となったことを後に知るに至った。
[1] もともと紛争の本質は「コミュニケーションの失敗・不通」にある。ゆえに紛争の解決とは「コミュニケーションの再開・成功」を意味する。従って、紛争解決に向けて争点整理するとはどこに問題があるかについて当事者双方が認否反論をして情報共有するという「コミュニケーションの再開」のことである。しかし、この裁判で、被告側は意図的に争点整理をボイコットした、画期的な原告主張をことごとく「黙殺」することによって。これは意図的に「コミュニケーションの不通」という事態つまり紛争を作り出すことである。だから、これは紛争解決のための裁判の場でもうひとつの新たな紛争を作り出す悪質な行為というほかない。

[2]2013年12月頃からスタートした、福島県立医大甲状腺内分泌学講座の主任教授鈴木眞一を研究責任者として、山下俊一長崎大学副学長率いる長崎大学と連携しながら、福島県内の18歳以下の小児甲状腺がん患者の症例データベースを構築し、同がん患者の手術サンプル及び同サンプルから抽出したゲノムDNA、cDNAを長期にわたって保管・管理する「組織バンク」を整備する研究プロジェクトのこと。この研究プロジェクトを記載した2つの研究計画書(甲C73同74)や研究成果報告書(甲C75)。

5:想定外の証人採用をめぐるバトル
それが鈴木眞一教授の証人尋問申請の採用だった。
 2019年5月、裁判所は「10月から来年3月まで5回の期日をとり、各期日に終日を使い証人尋問を行う」という積極的な方針を示したものの、原告が内々に証人として打診した複数の大学教授からいずれもNGの返事。
そこで、とっさの発案でダメもとで、鈴木眞一教授を証人申請に加えたところ、国と県の代理人の息がとまるほどの、我が耳を疑う出来事が起きた--裁判所が「(1回の尋問しか申請しなかった原告に)鈴木証人を2回の期日に分けて尋問しては?」と振ってきたからだ。
裁判所の「ご乱心」に国と県は猛然と反発。鈴木証人採用の必要がないことを強調し、さらに裁判所が予定した5つの期日に鈴木氏は手術等の所用のため全て出廷できないと、猛反発満載の意見書を次々と提出し、原告も負けじとばかりに全面的に対決する反論書を提出。
他方、「過剰診断論で鈴木氏は内心証言の機会を望んでいる」と踏んだ原告は真意確認のため鈴木氏本人に面談申込みの手紙を送ったものの「黙殺」され、ついで、電話も秘書を通じて取次を拒否されたため、一計を案じ、秘書が退社する時刻を見計らって電話したら、或る時、鈴木氏が受話器を取った。それが彼の運の尽きだった。慌てふためいて、
「答えるなと言われています。すみません。断っていいと言われていますので、それ以上は申し訳ございません。」
と、県から圧力がかかっていることを窺わせる言葉を答えてしまったからである。
これら当事者双方の激しい応酬は、被告側にとって鈴木証人がいかに不都合な証人であるかを赤裸々に物語るかっこうの舞台となり、裁判所の好奇心を一段と掻き立てた。
とはいえ、国と県の猛反発を忖度する必要から、裁判所は証人採用の決定をずるずる引き延ばした。しかし、その間に、原告に鈴木氏に尋問する質問一覧表の作成を、県に質問一覧表に基づいて鈴木氏の陳述書の作成を命じた。質問一覧表は実に諸刃の刃だった。下手に質問すると、事前に、原告の手の内を被告に知らせることになるからだ。思案の末、原告は、鈴木氏が答えようが答えまいが関係なく、本番のための前提事実として事前に彼に確認したいと思う項目を全部書き出し、本番なら数時間を要する詳細を極めた質問一覧表を作成、提出した。
この詳細な質問にまたしても反発した県は、猛然と
「(改めて)鈴木氏の証人申請は採用する必要性はない。ゆえに、彼の陳述書も作成する必要がなく、原告提出の質問項目一覧表にも答える必要がない」とちゃぶ台返しという最後の賭けに出た。しかし、裁判所は県の不服従に屈せず、鈴木氏の証人採用を正式決定、県に尋問の日程調整に協力するように要請。県はしぶしぶ応答し、難産の末ようやく2020年2月14日に証人尋問が決定。すると、このあと想定外の出来事が起きた。

鈴木眞一氏が原告の質問一覧表にほぼ全てに回答してきたからである。その中には「医師の守秘義務」を理由にした症例数の回答拒否という回答すらあったが、元々症例数は特定の個人を識別する個人情報でないから回答義務を自ら表明するものであり、本番の尋問で活用できる宝が埋もれている情報だった。
とはいえ、これは甲状腺がん外科医という専門家証人の反対尋問であり、原告弁護団にとって容易ならざる難問だった。
そこで、一方で、本番の尋問時間だけの「瞬間」甲状腺がん外科医でよいから、これに可能な限り接近することをめざし、関係者から指導・アドバイスを受け甲状腺がんの専門知識を頭に叩き込んだ。他方で、鈴木氏の個人史を書き下ろす積りで、彼の過去の言動の記録を読みあさり鈴木氏以上に鈴木氏の言動を知り尽すことを心がけ、専門知識を縦軸、鈴木氏個人史を横軸にしてこの間に手にした個別な情報(ピース)からジクソーパズルとして組み立てて行った時、どうしても収まりのつかない異質なピースが出てくるのをあぶり出し、これを鈴木氏の言動の矛盾・破綻として本番で追及することをめざした。
さらに、こうした孤独な探索作業に活を入れるため、尋問の2週間前、福島市で開催された、県立医大主催の甲状腺検査に関する国際シンポに泊りがけで参加し、目の前で鈴木氏や甲状腺検査関係者たちの自信タップリのおぞましくもリアルな肉声や雰囲気をつぶさに味わい、尋問当日への闘志を駆り立てる糧とした。
これらの準備作業の集大成が本番の反対尋問であった。

6:最初(最終)準備書面をめぐる攻防
2019年10月からスタートした証人尋問、最後の3回は1月23日、2月14日(鈴木証人)、3月4日(山下証人)とほぼ半月に1回のペースの超過密スケジュール。
最後の山下尋問の終了時に原告弁護団は過労ダウンの寸前。裁判の最後の仕上げとなる最終準備書面作成には夏休みを当てて8月末〆切を希望したところ、裁判所は聞く耳を持たず、「6月末」〆切、7月28日審理終結を指示。「そんな無茶な」と疲労困憊の中を途方に暮れていた弁護団に、そのあと、思いがけない想定外の事態が起きた。

それが前代未聞のコロナ禍の出現だった。この生物災害のお陰で、弁護団の日常業務は無期延期。思いがけず転がり込んだ余剰時間を千載一遇のチャンスと最終準備書面作成に充てることが可能となった。
さらに、この間、被告側の「黙殺」作戦で「争点化」されなかった重要論点も洗い直しする中で、最終準備書面は、これまで主張してこなかった新しい重要論点満載の「未知との遭遇」の書面となった。これでは最終の準備書面じゃなくて、最初の準備書面だろ。弁護団の中からも「これで審理終結なんて無茶だ。今から審理再開して裁判をやり直さなくては」と声があがった。
しかし、裁判所はそのあと裁判再開を指示しなかった。その代わり、予め、当事者双方に、相手の最終準備書面に対する反論の機会を20日以内という条件で与えた。
既に疲労の限界を超えていた原告弁護団だったが、このチャンスを逃してなるものかと、被告国と福島県の最終準備書面で必死に主張している論点について、トドメを刺すべく、昼夜兼行で反論の書面を準備した。
7月20日、これを完成・提出した瞬間、正直、もうしばらくこの裁判のことは考えたくないと思った。これに対し、被告側からは原告の最初準備書面に対する反論の書面は提出されなかった。おそらく、ひとたび手をつけたら収拾のつかない知的格闘技に陥ることを彼らも悟り、自らリングの上から降りたのである。

そして、ただひとりリングに残ったレフリーの裁判所は、年内もしくは年明けという弁護団の予想を覆し、最も遅い3月判決を告げた。
ここに、判決まで最長の期間を設定した裁判所こそ、原告の最初(最終)準備書面とその補充書面を前にして最も戸惑い、途方に暮れていることをうかがわせた。というのは、「判決は裁判所が書く」というのはしばしば誤解されている。なぜなら、判決とは裁判所が自分の好きなように書けるものではなく、あくまでも「法の支配」に従って書かなければならないものだからである。「法の支配」とは真実と正義に従うことである。原告の最初(最終)準備書面とその補充書面も弁護団が書きたいことを書いたのではなく、福島原発事故の「真実と正義」に忠実に、できる限り正確に刻印しようとしたものである。だから、裁判所はいま、福島原発事故の「真実と正義」によって裁かれようとしており、その「裁き」の試練の中にいる。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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