ある感想から(十)

ある感想(十) 10月2日

これは以前にも書いたことがあるのですが、1970年代に至る過程の中で最も深く印象に残っている言葉は「敗北の構造」というものでした。吉本隆明の言葉ですが、僕らが何と闘っているのかということが分からなくて苦悶しているときに示唆を与えてくれるものでした。日本の反権力闘争が最後の局面になると運動は分裂状態になり、その推進主体は「何と闘っているのか分からい」という心的状態に陥ることに光を当ててくれるようなものでした。この繰り返し現れる構造を対象的に把握しようと苦闘しているときに現れたのが<沖縄問題>であって、敗北の構造を超えるものとしての沖縄=南島というイメージがそこにありました。沖縄は地域的(空間的)イメージでしたが、これは同時に時間的イメージになるものでした。時間的イメージとは三~五世紀に確立した初期王権(ヤマト)を超える時間の保存であり、その共同意識でした。これは国家に対する地域住民(民衆)の自立性の時間的存在というイメージでした。沖縄の地域的(空間的)な意識であっても、ヤマトと呼ばれる地域住民の意識(時間的意識)になるものです。ヤマトと呼ばれる地域の住民が持つ時間意識(歴史意識)を相対化することになり、ヤマトの袋的国家意識を破る契機になります。

日本で国家との反権力闘争が意識的に存在してきたのは―封建時代の一揆なども在るのですが―主としては近代になってからですが、それは必然のように

敗北しました。それは近代(現代)を未来的に超えて行くという意識しか持てなかったためであるように思います。近代(現代)の矛盾を超えて行くためには未来のイメージは不可避です。例えば、国民の政治意思が国家に対する自立として現れること、それは直接民主主義のような意識の登場ですが、これは未来的なイメージとして出てきます。これを構成的権力の登場といえます。だから沖縄の地域住民の自己決定権の確立という場合も未来からのイメージということがあります。しかしながら、近代の矛盾を超えていくには未来からの像(理想像)からだけでは不可能です。何故なら、近代にいたる国家は起源からの展開の結果としてあるのですが、僕らの国家の意識は向こう(歴史)の方から刷り込まれるように生成されるところがあるからです。これは向こう(起源と生成)に出掛けていくことなしに対象化も超えることも不可能なところがあるのです。近代国家にいたる起源からの展開は起源以前の方に向かう意思なしには超えられません。ヤマトの起源(初期王朝)から現在までを対象化し、それを超えるイメージにはそこを超えた時間的存在が必要です。琉球弧の自己決定権は日本的国家を超える時間(過去と未来)を含んでいて、国家に対する国民の自立の拠点のようなイメージとなります。これは僕の幻想にほかなりませんが。(完)

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/

〔opinion157:101004〕