Ⅲ.ある統一教会女性信者の心理的葛藤
長く引用してきた著者は、カープについて次のように書いている。1980年代の後半、自らの夫が「名目上の会長をしているCARP(大学連合原理研究会)・・・・・世界平和に捧げられた学生組織を自称するCARPは、統一教会のもうひとつの勧誘機関、資金調達の道具にすぎない。」(B222頁)
このカープに学業成績も優秀で美貌の女学生が潜んでいるとは、筆者は少しも想像していなかった。全くの不覚と言う外はなかった。この女学生については名前の英文表記を交えて「H.マリア」と記しておこう。実際にマリアが本名であったので、筆者は当然クリスチャンであろうと誤解した。前述のように統一教会はキリスト教も踏まえて成立しているから、このような命名が行われたまであろう。
(1)問題の発生
筆者は中学2学年から高校2学年まで故郷にあるカソリック教会に通い、また大学時節にプロテスタント教会にも通った経験があった。このためかクリスチャンと誤解したマリアに筆者が好感を抱いたのは自然であった。ゼミに入る前にも筆者の授業を聴講し、成績も優秀であったから、自ずとゼミでは親しくなった。とりわけ、彼女は筆者の専門とする北朝鮮について専攻したいと希望したので、親しく指導する思い入れは一入であった。
ところが、間もなくゼミでマリアの告白が始まった。最初は結婚についてあれこれ話すので、若い女性にありがちなお悩み相談くらいの軽い気持ちで対応していた。そんなある日、マリアが研究室を訪れたいと申し出てきて、当然ながら筆者はゼミ生のフォローをすべく彼女を受け入れた。ゼミではドーナツ屋のバイト先から売れ残りのドーナツを持参する等、親しく接していたので警戒心は無かった。
当時このS大学ではカルト対策に防御的な対応を取っていた。その一環として統一教会についても学内での布教や勧誘については、これを制限しつつ、そのような学生に対しては面接指導などを試みようとしていた。当然と言えば当然だが、そのような対策は事実上なんの効果も無く、信仰に燃えた学生たちは抑えられなかった。事件が発生した後に知ったことながら、その1人がマリアで、担当部署では入学当初から手を焼いていた。
後日談となるが、彼女は担当部署の職員に言ったという。「自らの信ずるところを友だちに話すだけなのに何が悪いのですか? 大学は自由の場所ではないですか。宗教的な論議も自由に行い、互いに探求していくのを妨げるのは、学問の自由に反する」と。その舌鋒鋭い批判に、担当職員はひたすら大学の規則を盾に防戦を試みるだけで、論理的に反論することは出来なかった。そこに大学という開かれた空間の弱点が露呈している。
ところが、マリアの話を研究室で聴くと、単純に布教活動の行き詰まりでないことが判明した。初めはキリスト教の信仰についての話かと受け取っていた筆者であったので当時、ちょうど熟読していた「ナグ・ハマディ文書」発見について報じた『ナショナル・ジオグラフィック(National Geographic)』の記事「ユダの福音書」を示しながら、いわゆる「グノーシス(the Gnosis)」のような教義もあると紹介したりした(資料E)。
(2)マリアの苦悩と対応
しかしながら、マリアの苦悩は信教の問題ではなく、信教の中味についての深い反問なのであった。2回目の訪問で自らが統一教会の信者であると打ち明けたマリアは、両親も同じく統一教会信徒で「合同結婚式」によって婚姻したこと、いずれ自分も合同結婚式を通じて結ばれるかも知れないということ、そして、その点について自らの中に迷いがあり、ゼミの中でも話題にしたこと等を打ち明けたのである。
もともと筆者は韓国や北朝鮮に関して研究を続けてきた立場から、統一教会についても相当程度は知っているつもりであった。日本の植民地統治時期からの南北朝鮮のキリスト教会史などを読むにつけ、また韓国の友人が実際にクリスチャンとして教会活動について話すのを聞くにつけ、統一教会に関しても折々に話題に上り、その教義と性格をそれなりに詳しく理解していた。
一方の韓国においては、ソウル留学中に汝矣島にある聖福音教会などを訪問していただけでなく、ソウルで住居と定めた家屋の地下層にキリスト教会があり、実際に立ち行って見聞しもした。これら現地での経験から、韓国のキリスト教会は宗教的な役割はもちろん、経済的な互助機能も担っている事実を知った。その数ある教会の宗派の中でも、統一教会は韓国人から見ると異端で、一種の経済的な企業であると認識されていた。
他方の北朝鮮では、ほぼ毎年その首都である平壌を訪れる際、たまたま普通江ホテルに宿泊する機会があれば、その前面にある統一教会平壌支部を訪問したりもした。広く報道されたように、このホテルの敷地内には統一教会の作ったという石碑「将軍福」「太陽福」「首領福」が立ち並び(資料F)、統一教会が北朝鮮の独裁体制と緊密に関係を結んでいる様子が見て取れた。もちろん、支部に立ち入ることは出来なかった。
もともと「国際勝共連合」として文鮮明は北朝鮮と闘っていたのに、手の平を返した変貌ぶりであった。彼は東西冷戦が社会主義圏の敗北という結末で終わるのを見て取ると、南北統一の実践と称して訪朝し、当時の金日成(故人)との会談を実現させた。その後に文鮮明は、北朝鮮に巨額の投資を行った。確かに北朝鮮に出自を持つ彼が南北統一を願ったことは、現代グループの鄭周永が牛を引いて訪朝したのと同様であったかも知れない。
しかし、宿敵の北朝鮮が倒壊しもしないのに、それを助ける投資まで行うとは、どう考えても統一教会の「勝共」が形ばかりのスローガンに過ぎなかったと結論付ける外はなかろう。例えば、平壌で見かける「フィッパラム(朝鮮語で「口笛」の意味)」という乗用車を製造した「平和自動車」が統一教会の投資による創業であったことは、広く知られている。東西冷戦後に北朝鮮が喜んで投資を受け入れたことは、言うまでもない。
話を戻すと、いま目の前に統一教会信者という愛弟子が現れ、いわゆる「合同結婚式」をめぐり苦悩を打ち明けるのを見て、筆者は意図的な介入が必要だと即座に判断するに至った。思い返せば、この対応は軽率に過ぎたと批判されるべきで、彼女を説得するにしても、もっと時間をかけて懇切丁寧に話し込むべきであった。だが、韓国から仕入れた知見に加え、愛弟子を助けたい一念から、苦悩する彼女に激しい言葉で対応してしまった。
換言すれば、筆者はその時、溺れる者は藁をもつかむ緊急事態と考えて、一刻も早くマリアを救い出さなければならないと思ったのである。統一教会の泥沼に落ちて助けを求める者を個人の信仰の自由だからと見捨てるのは、ゼミの指導教員としてあってはならないと感じ、手を差し伸べて助け上げてやるのが正しいと考えた。結果として、それが間違いと言われればそれまでだが「義を見てせざるは勇なきなり」の場面と思えたのであった。
そこで筆者は、自らの信じるところに従い、激しい言葉で統一教会を批判したに止まらず、合同結婚式も槍玉に上げて、彼女の両親からして間違っていたと指摘した。その際の表現が極めて不適切であったことは後述する裁判における判決で指摘されたとおりである。ともあれ、その研究室での遣り取りにあっては、筆者の説得は失敗したどころかマリアから両親、両親から統一教会本部への問題提起を通じ、統一教会との裁判となった。
(3)統一教会との裁判へ
この裁判は、マリアと両親が筆者とS大学当局を相手として提訴する形で始まった。統一教会の弁護士は、いま話題となっている福本修也であった(資料G)。この裁判は筆者が意図せぬ展開を見せ、統一教会とS大学との争訟に進んだ。けだし、争点整理の過程でマリアに対する筆者の発言が個人的なものかS大学の行為に当たるかで論争となった末、S地方裁判所は大学の管轄行為であるとして筆者を争訟から除外したからである。
3年に及ぶ裁判の経緯については長々しくなるために割愛するが、その判決に争点と問題点が示されている。少し長くなるが、その核心となる文章を引用しつつ問題点を整理してみよう。もちろん、筆者が意図的に問題点を歪曲することがないよう、ここでは裁判で証拠として採用された会話をそのまま引用する。もしも引用文中の中略などから疑問が残る場合に備えて、その出典を末尾に示した(資料H)。以下が会話である。
森:まだあれか。・・・原理研やっているのか。
マリア(以下「マ」と略記):いやもうCARPに入っているので、やっているというか・・・、もう私・・・
(中略)
森:まあいいけど。ど、ど、ど、どんな。ずっとそれでやるんか。ま、そら、やるやらんはあなたの自由やから。
マ:はい。
森:何とも言えんけど・・・。それでやるつもりなんですか。
マ:や、そのつもりですけど。
森:原理教でやるんか。
マ:はい。
(中略)
森:や、だから聖書の研究とかをするんだったら、それでいいんだけど。
マ:あ、はい。
森:原理教だからよくないっちゃんね・・・。聖書自体はいいと思うよ。
マ:うん・・・
森:原理・・・、前にも言ったけど裁判・・・。
マ:霊感商法とかですよね。
森:そうそう、裁判やったりしてるよ。
マ:はい。
(中略)
森:文鮮明が自分が神だとか言っているのが正しくないって。
マ:神・・・神って言っているわけ・・・。え、言ってないですよ。
森:まあとにかくいろいろ言っている。自分がイエスの再来だとか。
マ:はい。
森:あるいはイエスは神ではないとか。
マ:うんうんうん。
森:矛盾することをいろいろ言ってるよ。
マ:イエスは神では・・・、ま、私はイエス様は神ではないと思います。
森:あ、そう、あなたはそう思っているの。
マ:はい。
森:じゃあそれはそれでいいとして。イエスの代わりに来たみたいに言っているじゃない。
マ:うんうんうん
森:それはでもね。。
マ:再臨主ってことですよね。
森:おかしいやろ、それはだから。その・・・
マ:や、それは、その人の・・・
森:信じてるの。
マ:はい信じてますよ。
森:文鮮明みたいなやつが。
マ:はい。
森:人間がやぞ。
マ:人間。
森:人間が・・・。
マ:イエス様も人間じゃないですかぁ、あははは(笑)
森:人間が神の再来だとか、そういうこと言うのおかしいだろ。そもそも。
マ:や、文先生は神・・・ではないですけど。
森:そうやろ。イエスの再来でもなんでもないよ、だから。
マ:何でそういうふうになるんですか。はは(笑)。
森:わかるやん、だってあり得ないんだから。
マ:はい。普通の人間です。
森:そんなこと、だから嘘をいってるわけやんか、結局、簡単に言ったら。
マ:嘘・・・。
森:嘘を言ってる人を信じるのか。
マ:それは嘘でも本当のことでも、自分が信じようと思ったら何でもできるじゃないですか。
森:それは全く駄目。そんな論理、あんた、大学生になったらそんなこと駄目。
マ:はははは(笑)
森:何でも信じたらそうなるんか。
マ:だから嘘っていう・・・。
森:嘘なんだよ。嘘信じたらいかんて言うてるの、簡単に言ったら。
マ:うーん・・・。何で、先生、嘘っていうふうに・・・。
(中略)
森:集団結婚を、じゃあ、あなたはどう説明する。
マ:だって、尊敬する人に人・・・相手を選んでもらうっていうのは、おかしいことですか。
森:あなた自身が、心の中に良心を持っているって言った・・・言ったろ。
マ:はい。
森:同じように人を愛する心があるやろ。
マ:うん。
森:自分が好きな人と結婚できないってことになるわけやぞ。
マ:だから・・・。
森:それはさあ、はっきり言って、尊敬しようがしまいが。
マ:うん。
森:その人にあなた自身の愛情を奪われていることやん。決めてもらうわけやろ、自分の相手を。
マ:うん。
森:あなたどう思う、それ。
マ:いや、いいと思います。
森:そこがおかしいやろ、だから。どうそれを合理化できる。
マ:だ・・・、原理では、やっぱり、そういう結婚って自分のための結婚だけじゃないじゃないですか。
(中略)
森:原理教はどうや・・・、突然与えられるわけやん、人から。全然知りもせん。その人をいずれあなたたち愛せるようになるだろうと。そんなこと普通考えられないって。人間生活の中で。
マ:普通ではない・・・。
森:それははっきり言って、動物の世界なんだよ。それは。犬猫が、はい、これって与えられて。犬猫とセックスするか。
マ:もう・・・(苦笑)
森:犬猫になりたいか。
マ:いや、そういうふうには思いませんけど。
森:そういう世界なんだよ、まさに原理教の世界は。俺はそう思う。
マ:うん・・・、それは先生の考えじゃないですか。
森:じゃあ、他の人に聞いてみ。じゅあ先生がこう言っているって。
マ:うん。
森:あなたはどう思いますかって、突然、自分の旦那が与えられて、自分はそれを受け入れて、愛情だと。
マ:じゃあ、うちの親に聞いてみます・・・。
森:聞いてごらん、だから言いたいんだよ、あなたの親・・・会いたいんだよ。あなたの親たちに。あんたたちはおかしい結婚をしたんだよって。
マ:いやあ(苦笑)。
森:おかしい結婚だろうがそんなもの。
マ:そんなこと・・・
森:そんな結婚は、まあ、ハッキリ言って犬猫の結婚だよ。
マ:うーん。
森:セックスはできるさ誰だって。セックスだけが結婚なのか。
マ:いや、それは、そんなわけないじゃないですか。
森:セックスをしてあなたが生まれているわけ。
マ:や、そりゃそうですよ。みんな。
(中略)
森:あなたに、そんな生活せん方が・・・お父さん、お母さんみたいな生き方はしない方がいいよと。だからあなたがそういう生活したいって言うなら、そら仕方ないさ。
マ:はい。
森:そういう犬猫の生活すればいいさ、それはそれで。
マ:犬猫っていうのはちょっと。
森:俺は犬猫としか思わんよ、はっきり言って。
マ:ああ思うのは自由ですけど。
森:だからそういう生活をして欲しくないから言ってる。
マ:うーん。
森:与えられて、ただそれ、まあようするに犬猫がメスが来るとパッと来るのと同じやん。男が与えられて、セックスして、はい子供ができてとそれと同じやん。何ら愛情もないのに。そこに何の愛情もないやろうもん、だって、それでセックスするんやぞ。どうあんた、それ、好きかどうかもわからない男に抱かれて、子供産んで、どう。
マ:いや、だから。
森:ほら、答えられんやろ。
(中略)
森:それはごうか・・・、強姦するのと一緒なんやぞ。
マ:いや、それは違います。
森:相手が誰を選ぶとかあなたには決められんわけやろ、相手が勝手に文鮮明の指名だからといって、あなたの所に来て、あなたを犯すわけやん。
マ:それは・・・
森:そうやろうもん。
マ:先生がそういうふうに考えているだけで・・・
森:いやいや、どう考えたって。
マ:じゃないですか・・・
森:そうとしか言えないじゃん、・・・じゃなくて。
マ:あーん・・・
森:そういう人生を送るったい。あんたがもしそのままいけば。犬猫の暮らしになるったい。
マ:いや、犬猫にはなりません、ふふ(笑)。
森:じゃあ、やめるべきやん。原理教なんて。
マ:何でですかぁ(笑)。
(中略)
マ:ふ、ふ、ふ。じゃあ、結局先生はどういうふうにしたいんですか(笑)。
森:はっきり言ってあなたをやめさせるべきだと思ってる、原理教から。お父さん、お母さんに必要だったら会うよ。
マ:は。
森:会うよ、必要なら会う。
マ:ああ会いますか(笑)。
森:お父さんお母さんに、同じこと言うよ。あなたたちは、犬猫の暮らしだって言うよ、はっきり。
マ:や、それ、先生ひどいですよ。
森:ひどくないよ。誰が見てもそうだもん。
マ:もう、それ訴えられますよ、ほほほ(笑)
(中略)
森:ノーが言えないということは、あなたが完全に、文鮮明の言うままになっているということやん。
マ:うん。
森:そうやろ、間違いないやろ。
マ:それでもいいんじゃないですか。
森:だからそこまで行くと、あなたは自由をなくしている奴隷だよ。
マ:いやぁ(笑)。
森:犬猫だよ。だから犬猫だって言っているのはそこたい、奴隷なんだよ。
マ:いやぁ、私、自由意志ありますし。
森:だから、そこで何で自由意志を放棄するんだということや。
マ:放棄しているわけじゃ、・・・選択の自由あるじゃないですか。そっちに行くって言ったら、それも自由じゃないですか、自分の。
森:そんなこと言ってない、自分が与えられるような結婚をそのまま受け入れなきゃならないなんて、そういう教義があること自体が邪教の証拠なんだよ。それは。
マ:うーん。
森:どこにそんな宗教がある、ほかにないよ、そんな宗教、どこ見たって。
マ:うーん。
森:犬猫の教えなんだよ。駄目なんだよ。だからそれは・・・。やめなさいって言うのはそこったい。
マ:じゃあ、ちょっともう一回考えてみます。
森:よく考えてごらん。俺の言ったこと。本当。言っとくけどね、人間は自由にならないといけないんだって、宗教を通じて、宗教は人間のためにあるんだから、文鮮明のためにあるんじゃないんだよ。
(中略)
森:一歩外に出るとわかるったい、それが。一歩外に出ると。ところが、中におる限り、なかなかわからんたい、それが。別にあんたをなんか俺が変なふうにしようと思っているんじゃなくて、誰が見たっておかしいと言っている原理教の集団結婚とかそういうところから逃れさせようと思っているわけだから、少なくとも自分の意思でな、選んで相手を、与えられるじゃなくて、選んで、この人だと思う人と結婚して幸せになんなさいと言ってるんだよ、俺は。
(中略)
森:自分自身を大事にしなけりゃだめなんよ、文鮮明を大事にしてどうする。
マ:自分自身のために、そういうように入っているんですよ。
(中略)
森:そうじゃない、誰が見てもおかしなことを俺は絶対おかしいと言う。誰が何と言っても。世界中の人が正しいといっても俺はおかしいって言う。
マ:それは、先生がおかしいって言うのはわかりました。もう十分。
森:だから、あなたのお父さんとお母さんにも会って、せめて娘の人生のためにそういう・・・やめさせてほしいと。
(中略)
森:自分の精神が損なわれるような宗教はやめろって言ってるんだ。
(中略)
森:それは最終的に損なわれる。そういう宗教に走っていると。
マ:うーん。
森:宗教全体が悪いんじゃなくて、原理教、統一教の中で、そういった、いわゆる宗教的な儀式として結婚するやろ。
マ:うーん。
森:するやろ。そのこと自体が間違っているって言っているんだよ。特別、神聖なものじゃないんだって、結婚は。あなたこそ・・・何か知らんけど、幻想を持っているんよ、そこに。そういうものじゃないんだって。
マ:そんなの人の勝手じゃないですかぁ(笑)。
(中略)
森:苦しんでないけど、精神的にあんた結局奴隷になるわけだから。
マ:もう、それ、考えすぎですよ、先生。
森:もっと、もっと、悲しいことなんやぞ、その・・・飯が食えんっていうだけならまだいいよ。犬猫みたいな状態になるんやぞ、精神が。
マ:いや、それはなりません。
森:なる。間違いなくなる。
マ:だって、うちの家族なってませんもん、誰も。
森:それはもう、犬猫になってしまったからやろうたい。
マ:なってないですよ。
森:自分自身・・・。
マ:ひどい先生・・・。
森:犬猫は自分自身のことを犬猫とは思わんやろが。
マ:そんなこと言わないでください・・・。
森:本当だよ。
マ:わかりました・・・。
森:自分のことがわからんわけや。それが本当だと思っている限り。他の人が見たら、あ、犬猫だと思うわけだ。
マ:は、は、は・・・。それは先生が思っているだけじゃないですかぁ・・・、もう。
森:犬猫・・・みんな思っているよ、それは・・・。
マ:じゃあ、思っている人は思ってください、勝手に・・・。
森:これはあなた自身の、まあためにと思って俺は言ってるわけよ。
マ:わかりました。
森:だからもし必要なら、会いに行きたいけど、お母さん方に・・・。
(中略)
森:一遍、外に出てみて、他の日常生活の中で他の人とも話をして、他の勉強もいっぱいして、その上でやぞ、5、6年ちゃんと勉強した上、まあ、でもう一回はいりたかったらまた入ればいい、いろんな本を読んでごらん、原理教に対する批判的な本も読んでごらん、こういうの違いとか。
マ:いや、反対本、学校にもありますもん、見、見ますもん。
森:聖書も読んでないくせに、何を言ってるんだ、ちゃんと勉強してごらん、聖書とか読んで。
マ:だって勉強する時間・・・ないんだもーん・・・。
森:聖書から集団結婚なんて話が出てくるはずがないやん。読んでごらん。
(中略)
森:もっと勉強しなきゃ、自分で。
マ:ああ・・・。
森:自分の頭で考えて、そのうえで原理教がまだ正しいと思うなら、また帰ればいい。
マ:うーん。
森:一旦、だからそこから離れてみて、外から見る、自分でも勉強してみる、その過程を経なきゃだめやね、だから親から・・・、親がそうだったから、自分もそうだったじゃなくて。
マ:いや親にはちゃんと言われました・・・。
(中略)
森:本当にいいと思うなら、それ・・・揺るぎない力であんたまた原理教に戻ってくる。
マ:確かに。
森:そのときに初めて結婚でも何でもしたらいい。
マ:え。
森:集団結婚で結婚したいんならすればいい、あとで。
マ:自分でも、やっぱり探してる途中でもあるし・・・。
森:何を。
マ:本当に、こういうふうにすることがどうなのかとか。
森:思ってるやろ、自分で。
マ:思うときもあるし。
森:そうやろ、だから、なおさら俺が言ったようにやってごらんよ。
マ:わかりました。
以上の会話を読んでいただければ、統一教会が筆者を訴えた理由は明確である。「犬猫」という侮辱的な言辞に対して合同結婚式を守ると共に、女性信者の精神的な動揺を鎮めるためである。もちろん、このような言辞は社会的な許容範囲を逸脱するもので、それ自体は反省すべきながら、それが正鵠を突いていたからこそ、統一教会としても教会の代表的な弁護士を繰り出してS大学との争訟に乗り出したのであろう。
もちろん、筆者の主張は日本国憲法第14条にも明記してあるとおり「両性の合意」のみによって婚姻が成立する以上、文鮮明の選択に従って結婚する等という馬鹿げた人生の迷路に陥らないようマリアを救う意図であった。実際に公判でマリアは、筆者からハラスメント等はなかったと言明しており、統一教会からする筆者への誹謗や中傷は全く根拠の無い言い掛かりに過ぎなかった。
ともあれ、S大学と統一教会との裁判は、当事者である筆者を差し置いたまま結審した。判決ではS大学に原告が求めた損害賠償額の2%を支払うよう判示したので、統一教会は「勝訴」だと宣伝した。反対に筆者の担当弁護士は、98%の勝利だと笑っていた。だが、問題点は裁判の勝ち負けではなく、上述の会話に現れたように信者たちが陥った精神状態であり、これこそ対処が極めて難しい自由権の内包する限界である。
最後に、この自由権が抱える問題点を現下の統一教会への批判で沸き返る世論を見ながら、信仰の自由に限定して考察してみたい。考察の道標として筆者は、いわゆる「自由からの逃走」という考え方を敷衍しながら用いたい。全体主義研究から生まれた考え方であり、それへの批判は十分に承知しているので、読者諸氏のご意見やご批判を仰ぎたいところである。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion12438:221007〕